2009年1月25日日曜日

[説教要旨]2009/1/18「時は満ち、神の国は近づいた」

顕現節第3主日

初めの日課    エレミヤ 16:14-21   【旧約・ 1207頁】
第二の日課    1コリント 7:29-31    【新約・ 308頁】
福音の日課    マルコ 1:14-20      【新約・ 61頁】

 道を整える者、洗礼者ヨハネが捕らえられ、その公的な働きに一旦終止符が打たれた時点から、主イエスの活動が始まる。主イエスは「時は満ちた」と語る。それは、洗礼者ヨハネまでにいたる、預言者の時がそこでおわり、救い主・メシアの到来の時が来たということを、人々に告げるものであった。私たち人間は、いかなる力をもってしても、時を早めることも、遅くすることもできない。「時が満ちる」ということ、それはまさに神がその時を私たちのために備えられたということなのである。そしてそのことはとりもなおさず「神の国は近づいた」ということに他ならなかった。救い主である主イエスがおられるところ、そここそ神の国が現れるところなのである。主イエスはさらに語る。「悔い改めて福音を信じなさい」。「悔い改める」は、生の向う方向を転ずるということである。すなわち、主イエスのメッセージは、近づいた神の国へと、人がその生きる方向を向けることを命じるものであった。それは実は、人が主イエスへと向かって生きるということでもあった。「神の国は近づいた」と語る主イエスのおられるところ、そこがまさに神の支配と力が働く場なのである。「福音を信じる」ということ、それはこの、「主イエスこそが、私たちの世界へと現れ出た神の国である」ということを、私たちが確信することなのである。
 そして主イエスは最初の公的な働きとして、まずシモン(ペトロ)をはじめとする漁師たちを弟子とする。最初に弟子となった彼らは、宗教的な訓練を積み、日々を過ごしていたわけではなく、ただ彼らの日常的な生活、彼ら自身の世界の中にいたにすぎなかった。しかし、その彼らの世界の中へと、主イエスは入り込み、彼らをご自身の側へと引き寄せられたのである。それこそが、まさに主イエスが語られたメッセージ「福音を信じなさい」というものが、現実となった出来事であった。そして、いわばこの漁師たちから始まる主イエスの弟子の群れの中に、私たちもまた立っているのである。
 福音を信じるということ。それは私たちが私たち自身の能力を駆使して、自らを清く保ち、自らの信念を固くしていくことで、神の国へと近づいてゆく、ということなのではない。むしろ逆に、「神の国が近づく」のである。すなわち主イエスご自身が、私たちの生活の世界のただ中へと入り込み、私たちを引き寄せる、そのような出来事なのである。満ちた時は、私たち自身の生活の中へと流れ込み、私たちの時を、福音によって満たす。


[説教要旨]2009/1/11「天を裂く愛」

顕現節第2主日 主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7      【旧約・ 1128頁】
第二の日課    使徒 10:34-38      【新約・ 233頁】
福音の日課    マルコ 1:9-11       【新約・ 61頁】

 主イエスが洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けたという出来事は、古代より大きな疑問を教会に提示してきた。というのは、ヨハネは罪の赦しを得させるために、人々に洗礼を施していたのであり、そうであるならばなぜ「罪なき神の子」である主イエスが、この「罪の赦し」のための洗礼を受ける必要があったのか、ということを論理的に説明することが難しいからである。確かに、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるということは、論理的には矛盾であり、いわば無駄・不要な事柄である。グループの存続と安定を第一として、不安要素を取り除くことを、キリスト教会が最も重要なものとするのだとするならば、この出来事については、残すべき価値など無い、排除すべきものと断じて良いようにすら思われる。にもかかわらず、マタイ・マルコ・ルカのいずれの福音書も、この主イエスの洗礼の出来事を伝えている。それはむしろ、主イエスがこの地上に与えられたという出来事そのものが既に、人間の論理では全く図り知ることの出来ないような、限りの無い神の愛によって引き起こされたものであることを、私たちに示している。主イエスの洗礼とは罪なき神の子が罪ある人と共におられるということに他ならない。それは、人間の道理によっては、無意味・無駄であり、むしろ神の崇高さと権威を低めるものとみなされるような事柄かもしれない。しかしそうだからこそ、それはこの地上において姿を現す、神の愛と救いの業に他ならないのである。
 主イエスの洗礼の時、「あなた(これ)は私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた様子を、マタイ・マルコ・ルカのそれぞれの福音書が記している。しかし、その時の様子を、マタイとルカが「天が開く」という表現を用いるのに対して、マルコでは「天が裂けて」という表現を用いている。「裂く」という表現からは、まるで、本来であれば通ることのないものが、無理やりその道理を突き破ってこの地上へと届けられたかのような、いささか乱暴な印象を受ける。実にそれは、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるという、道理を突き破り、無理矢理に神の愛と救いがこの地上へと与えられる出来事であった。
天を裂いてこの地上へと注がれた愛は、主イエスの十字架の時に、再び、神殿の垂れ幕を真っ二つに裂く。それはまさに主イエスを通してこの地上へと注がれた神の愛と救いの業は、私たちから隔てられたところではなく、私たちの罪と苦悩のまさにそのただ中で働かれるということを示すものであった。


2009年1月7日水曜日

2009年度ルーテル三鷹教会総会のお知らせ

2009年度三鷹教会定期教会総会が2/1(日)に三鷹教会集会所にて開催されます。
教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参集下さい。

また総会に先立ち1/25(日)礼拝後に拡大役員会を集会所にて行います。
教会活動に対する皆様のご意見をお寄せ下さい。
なお、各会のご担当の方は、総会資料用原稿を1/10(土)までに牧師までご提出下さい。宜しくお願いいたします。

1/18の主日礼拝について

2009/1/18(日)は、ルーテル学院大がセンター試験の会場となるため、構内は立ち入り禁止となります。
このため、1/18(日)の主日礼拝は、東京神学大学の礼拝堂をお借りして行います。

時間は通常通り、10時半からです。(なお、こどもれいはい・CS分級はありません。)

[説教要旨]2009/1/4「起きよ、光を放て」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・ 2頁】

 「三博士」もしくは「三賢王」の訪問として、キリスト教絵画においてもしばしば題材とされる場面が、本日の福音の日課となっている。この箇所と関連して、1/6を教会の伝統では「顕現日」として、キリストがこの世にその姿を公に現されたことを憶えてきた。それはいわばまた別の視点からのクリスマス物語である。

 星の動きによって王の誕生を予期した占星術の学者達は、ヘロデ大王のもとを訪れる。この「ユダヤ人の王」の誕生を巡る、学者達とヘロデの態度は明確な対照をなしている。学者達の報告を聞き、ヘロデは「不安を抱く」。なぜならば、現にユダヤの王であるヘロデにとって、王は自分以外の何者でもなく、それゆえに、新しい王の誕生とは、自らが手にしている権力の座から追われることを意味していたからである。最終的にヘロデは、この不安の原因を抹消しようと、全ての男児を抹殺する。私達が、その態度を冷酷・残忍であるとすることは確かにたやすい。しかし、自分自身が手にしているものを奪われることに不安を覚え、それを解消するために、持てる実力を行使するということは、現代においてはむしろ理に適った事柄として、むしろ評価されているのではないだろうか。その意味では、ヘロデの行為は極めて合理的なのである。しかし、そうした徹底的な実力行使によってヘロデが得たものは更なる不安だけであった。最終的に彼は自分の権力を維持するために、自分の妻子すら手にかけることになった。しかも、そうしたあらゆる努力もむなしく、彼は死を迎え、その死後、その領土は分割されることとなった。

 一方、占星術の学者達は、星の導きによって、幼子を見つける。この星を見たとき、「博士達は喜びにあふれた」と聖書は語る。それは「不安を抱いた」ヘロデと鋭いコントラストを示す。彼らが旅の末にまみえた「王」は、大きな宮殿も、大勢の家来も、持ってはおらず、ただ母マリヤが共にいるだけであった。しかし、その出会いは彼らに大いなる喜びを与えたのであった。占星術の学者達を喜びに満たしたもの、それは王の持つ権力の巨大さでも財産の多さでもなかった。そこにあった事柄、それはただイエス・キリストとの出会いだけであった。その喜びは絶えることなく現代の私達へと受け継がれているのである。

 自らの持てるものを守るいかなる努力も、さらなる不安を拭い去ることは出来ない。ただ、主イエスとの出会いのみが、私達を喜びで満たすのである。