2012年2月29日水曜日

[説教要旨]2012/3/4 「たとえ全世界を手に入れても」マルコ8:31-38

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 17:1-7,15-16 【旧約・ 20頁】
第二の日課 ローマ 4:13-25 【新約・ 278頁】
福音の日課 マルコ 8:31-38 【新約・ 77頁】

 主イエスは、その十字架において何のために死なれたのか。それはキリスト教会の信仰の中心であり、福音の核心部分である。本日の福音書は、四旬節を過ごす私たちに、主イエスに従うことと、その十字架を受け入れることとが、切り離す出来ない事柄であるということを語る。
 本日の日課の直前の箇所には、弟子の筆頭であったペトロが、主イエスを「メシア」と言い表す場面が描かれている。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていた人物であることを、言い表しており、たしかにそれは主イエスの一つの側面をあらわしている。しかし、それだけではその答えは充分ではなかったからこそ、主イエスは人の子の苦しみ、排斥、そして復活について弟子たちに語られたのであった。マルコによる福音書で、主イエスが、ご自身のことを「人の子」と呼ばれる時、それはほとんどの場合、ご自身の十字架の死と、それに続く復活について語られている。それは武力や権力によってではなく、この世界における徹底した低み、あらゆる痛みと苦しみとを担うことで、救いをこの世界に実現する、そのような存在なのである。あなたこそメシヤです、強大な力で世界を支配する存在です、というペトロの言葉に対して、主イエスは、自らの低さ、十字架における死、この世における屈辱と敗北とを示された。その十字架と復活の出来事は、力の高みではなく低さの極みへと向かうこと、そして奪うのではなく与えることの中にこそ、滅びから命へと道筋があることを示されたのだった。
 主イエスは、この世の苦難と痛みの極みである十字架の死へと向かい、その十字架の死によって、ご自身の命を、この世の苦難と痛みの中で生きる私たちに新しい命を与えて下さった。その新しい命とは、この世界を我がものとするために互いに奪い合い憎しみ合わずにはいられない私たちを、与え合い赦し合う者へと変える命なのである。
 そのようなことなどありえるはずなどないと、人は語るかも知れない。しかし主イエスの十字架は、全ての人の予想を裏切って、その死でおわらることはなかったのである。主なる神がが与えられた命は、人の予想を裏切り、死を超えて続く。そのことを、主イエスは墓からの復活によって、私たちに示された。そしてその十字架を通して与えられる命こそが、まさに真の命であることを、主イエスは示された。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。そう主イエスは語る。私たちに与えられた真の命とは主イエスがその十字架を通して私たちに与えて下さった命である。これこそまさに、私たちの信仰中心であり、福音の核心に他ならない。その意味で、私たちが自分の十字架を背負うとは、私たち自身が主イエスの十字架の命を受け取り、その新しい真の命を生きるということなのである。

2012年2月18日土曜日

[2/22]灰の水曜日の祈り

今年は2/22(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、4/8(日)に復活祭(イースター)を迎えます。
2/22(水)19時よりチャペルにて灰の水曜日の祈り(額に灰を塗る式)を行います。
どなたでもご参加頂けます。
是非お越しください。

[説教要旨]2012/2/12「イエスという出来事」マルコ1:40ー45

顕現後第6主日

初めの日課 列王記下 5:1ー14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 1コリント 9:24ー27 【新約・ 311頁】
福音の日課 マルコ 1:40ー45 【新約・ 63頁】

今日、宣教は、それぞれの教会・信徒の置かれた状況によって、多様な姿を取らざるをえない。しかし、聖書が語る主イエスの姿、また主イエスと出会った人々の姿は、多様な宣教の形の、その根本にあるものを、私たちに物語る。結論から言うならば、それは、苦難を共にするために手を差し伸べること、そして主イエスとの出会いを通して、新たな命の出来事がそこで起こるということである。
本日の福音書では「重い皮膚病」を患う男が登場する。当時治癒が困難な「重い皮膚病」を患った者は、宗教的戒律においては、汚れた者、罪人として扱われ、共に生活することを許されないものとされた。病によって体が苦しめられるだけでなく、社会的にも追い詰められ、排除されることとなった人々の苦悩の深さは想像に難くない。しかし今この人物は、自分を押さえつけてきた、自分を苦しめてきた力に抗って、主イエスのもとへとやってきた。彼を動かしたのは、ただ主イエスに対する信頼であった。世の禁を破り、周囲からの監視と制裁の抑圧に抗って、自らのもとを訪れたこの人物に対して、主イエスは「深くあわれんで」手を差し伸べる。世のルールで言えば、排除されるべきこの人物に手を伸ばし、触れること自体がルール違反であり、主イエス自身が非難され、排除される原因となりうる行為であった。しかし、主イエスは、ご自身に寄せられた信頼へと答えるために、「深くあわれんで」手を伸ばされる。聖書の語る「深くあわれむ」ということ、それは「苦しみを共にする」という意味を含んでいる。主イエスが伸ばされたその手は、この二重の意味で病に苦しむこの人物の、その痛みと苦しみを、共に分かち合うため手であった。そして主イエスがその男に触れた時、病は癒された。
それは命を生み出された神の創造の業が、主イエスにおいて起こったということであった。それは、肉体的・社会的・霊的な、あらゆる命が、主イエスにおいて新たに与えられることを語る。主イエスとの出会いは命の出来事に他ならない。私たち人間の命を脅かす全ての力を圧倒し凌駕して、主イエスは私たちに新たな命を与えられる。その命の奇跡は、なによりもその十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示された。
聖書は「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と述べる。いわば、このマルコによる福音書において、主イエスについて最初に語り始めた人物として、この名も無き一人の病に苦しんだ男が伝えられているのである。主イエスがその苦しみを共に担い、代わりにその怒りをすら担われた、この名も無き人物こそが、主イエスについて世に告げ知らせる最初の一人となったのだった。この男と同じく、苦悩の中で今を生きる私たちもまた主イエスと出会う。その主イエスは、まさに命の出来事として私たちに出会い、私たちを深くあわれまれ、私たちに手を伸ばしてくださるのである。

2012年2月13日月曜日

[説教要旨]2012/2/5「満ちあふれる慰め」2コリント1:3-7

顕現後第5主日・三鷹教会定期総会

初めの日課 イザヤ 40:21ー31 【旧約・1125頁】
第二の日課 1コリント 9:16ー23 【新約・311頁】
福音の日課 マルコ 1:29ー39 【新約・62頁】

本日は、2012年度の三鷹教会の主題聖句である2コリント1:3-7からみことばを聞きたい。
パウロはコリント教会を去った後も、数度にわたって教会内の諸問題を解決するために手紙を書き送っている。ある時には、別の宣教者らがパウロの使徒職の正統性について激しく非難したことによって、パウロは深く傷つくこととなる。パウロは、自分によせられた非難に対して涙ながらに弁明をしたため、テトスに託してコリントに派遣する。その後パウロはエフェソで投獄され、死刑さえ覚悟する中で、復活にのみ望みと信頼を置くことを改めて体験する。主に守られてパウロは釈放され、マケドニアでテトスに再会し、コリントの人々との間に和解が成り立ったことを知らされる。この喜びの内に、パウロは「和解の手紙」をコリント教会に再びしたためた。本日のテキストは、この和解の手紙の冒頭部分であると考えられている。
この箇所には、「慰め」という言葉が繰り返し語られている。「慰める」とは、試練のうちにある誰かが、その励ましと助けを得るために友が傍らに寄り添うことを意味している。パウロにとって、自らの苦難が主キリストの苦難と結びつくことによって、主イエス・キリスト自身が、彼の傍らで励まし助けを与られたのであった。キリストの励ましと助けによって、遠く離れ、互いに非難し、傷つけ合うしかないとすら思われた兄弟姉妹との交わりは、より深く・より豊かなものとなったのであった。パウロは語る。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」。この一連の苦難の出来事を通してパウロは「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」ということを確信したのだった。
コリント教会に向けて書き送った手紙は、彼の体験した苦難の中でも特に、この対立によって彼が深く傷ついていたことを物語る。しかし、パウロが負った傷、その苦しみは、ただパウロ一人の苦難でおわることはなく、それは満ちあふれる慰めへと続いていた。なぜならば、それは、私たちの救い主、主イエス・キリストが、その苦難を、復活の喜びへと、尽きることのない慰めへと変えて下さったからなのである。キリストと共に苦難が分かち合われる時、そこでは必ず尽きることのない、満ちあふれる慰めと希望もまた分かち合われる。
今、この日本社会は、大きく傷つき、そして心の底から助けを、慰めを求めている。その中で生きる私たちもまた、決してその痛みと苦しみから無縁ではない。けれども、キリスト者として私たちが、その苦しみを共に担う時、満ちあふれる慰め、揺るぎない希望もまた分かち合われる。

[説教要旨]2012/1/29「イエスとは何者か」マルコ1:21−28

初めの日課 申命記 18:15ー20 【旧約・ 309頁】
第二の日課 1コリント 8:1ー13 【新約・ 309頁】
福音の日課 マルコ 1:21ー28 【新約・  62頁】

「けがれ」という概念は、日本社会の中で、様々な理不尽な差別を生み出し、容認する温床となっている。山口昌男という文化人類学者は、この概念について、「われわれ」という集団の求心力を創り出すために、排除する対象を創り出すのではないかと分析している。つまり本来排除される側に、その根拠があるのではなく、逆に排除する側である「われわれ」の側によってその根拠は創り出されるものなのである。「われわれ」の秩序や価値観の中に収まらない、少数の弱い存在は、そのようなものとして、攻撃され、排除されてしまう危険に常にさらされている。実は、清さと秩序を共有すると思っている「われわれ」こそが、攻撃と排除とを他者を傷つけることを繰り返してしまう。
本日の福音書で、いよいよその宣教活動を開始した主イエスは、カファルナウムの町の会堂で聖書を教えられる。そのことばを聞いた人たちは、主イエスが「律法学者のようにではなく、権威あるものとして」教えたことに驚く。通常、律法学者たちは昔ながらのやり方や先人達の考え方に照らして人々に律法の実践方法を教え、自分達の秩序と伝統の保全をはかった。ところが主イエスが語った教えは、伝統的な律法の解釈の枠組みをはみ出していたのである。いわば、主イエスの語ることばの説得力は伝統やしきたりの力ではなく、主イエスご自身の存在から来ていたのだった。
その主イエスに対して、会堂にいた一人の「汚れた霊にとりつかれた男」が叫び声を上げる。この男が一体どういう状態であったのかは詳しく書かれていない。しかし「汚れた霊にとりつかれている」と聖書が表現しているのは、この人が、聖なる神を中心に集まっている「われわれ」という交わりから、敵視され排除されていたことを意味している。この人を「われわれ」から遠ざけ、排除してしまう力がそこには働いている。男は、自分が排除されているこの状態を滅ぼしにイエスは来たのだと叫ぶが、主イエスが霊に命令すると、霊は消え失せてしまうのであった。
ここではイエスの教えといやしが結びつけられているが、そこで癒されたのは、いわばこの一人の男だけではなかった。主イエスが全く新しい権威をもって教え癒されたのは、むしろ排除と攻撃を繰り返す「われわれ」のあり方そのものであった。
それはいわば、その瞬間に主イエスと共に、そこに神の国が現れ出ていたのである。私たち人間の考える、あらゆる不安や恐怖を全て超えて、主イエスの権威は私たちの生きるこのただ中に神の国を実現させる。それはやがて、主イエスの十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示される。主イエスは罪人として、汚れたものとして、処刑される。しかし、そこで全ては終わることはなかった。その先に、神の国に生きる新しい命は、続いていることを、主イエスは十字架の死と復活によって示された。それはまさに、主イエスが、私たちの救い主であることを示すものであった。
私たちは、決してそれを願わないにもかかわらず、他者を傷つけ、攻撃し、排除せずにはいられない。しかし、そのような「われわれ」のところに、救い主はやってこられた。救い主は、私たちの弱さを全て受け入れて、私たちに癒しを、全く新しい世界、神の国に生きる道を与えて下さる。

[説教要旨]2012/1/22「時は満ちた」マルコ1:14-20

顕現後第3主日

初めの日課 ヨナ 3:1ー5,10 【旧約・1447頁】
第二の日課 1コリント 7:29ー31 【新約・ 308頁】
福音の日課 マルコ 1:14ー20 【新約・ 61頁】

主イエスの公の宣教活動の始まりについて本日の日課であるマルコ福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え て、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」と、簡潔かつ要を得て報告する。ガリラヤで「福音」を宣べつたえ始められ た主イエスが、最初に行うのは、まずシモンら最初の弟子たちを召し出すということであった。主イエスが神の国の到来を、その教えと業とによって人々に示し ていくためにまず必要であったのは、弟子たちであり、彼らとと共に歩むことであった。しかしそれはガリラヤ湖畔で漁師をしていた男達に突然に声をかけたの であり、あまりにも唐突・無計画であるようにすら思われる。しかもこの弟子たちはこの後も、常に主イエスを誤解し、理解することが出来ず、ついには主イエ スが逮捕されるにあたって、弟子たちは恐怖の余り主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう。そのような者たちを、主イエスは弟子として選び出し、共に歩み始め るのである。
このことはむしろ、自分勝手で臆病な弟子たちと共に歩むということが、主イエスが福音を伝えることと切り離すことの出来ないことであることを私たちに伝 えている。すなわち、主イエスが伝える神の国の到来・福音は、私たち人間の価値観で図ることの出来るような、計画・効率とは無縁のものであり、むしろこの 世における無駄や遠回り、頓挫と挫折、失敗と裏切り、そうしたものを超えて、初めて示される神の力であった。それはなによりも、主イエスの十字架の死と、 その死からの復活という出来事によって示されることとなる。遠回り、挫折、失敗と裏切り、そうしたものを超えてなお、神の力は、命の光をこの地上に輝かせ るのだということを、主イエスは、その十字架の死からの復活によって示されたのである。そして主イエスのもとから逃げ去った弟子たちは、主イエスの復活の 出来事を通して、自分の失敗も挫折も裏切り、そうしたものを全て超えて、力足らざる弱い自分と、主イエスは今も生きて共に歩んで下さることを弟子たち自身 は体験する。そしてまさにそのことを、「良い知らせ」すなわち「福音」として、世界に伝える者となってゆくのであった。
主イエスは、この福音の宣教の開始にあたって「時は満ちた」と語る。「時が満ちる」とは、私たちの計画表の中に書き込めるような、そのような「時刻」が 来ることなのではない。それはむしろ神の力がこの世界に満ちるということである。主イエスは、「時は満ちた」と語られ、そして、力足らざるはずの弟子たち を召し出し、共に歩み始め、そして、良い知らせ、福音をこの世に伝えるのあった。弱く、あらゆることが整わない。そのような中で、私たちは確かに自分達の 時を過ごしている。しかし、神の時は既に満ちている。主イエスは、私たちの不足も弱さも全て受け入れて、既に私たちと共に歩んで下さっている。