2012年11月30日金曜日

やかまし村のクリスマス[12/16]

やかまし村のクリスマス
人形劇とうた♪
<<ゲスト>>
キラキラ人形劇団(リズム工房)
「赤鼻のトナカイ」「赤ずきん」など
2012年12月16日(日)14-15:30
ルーテル学院大学チャペルにて
入場無料
人形劇・クリスマスの歌を中心にした楽しいこどものためのクリスマスの集いです。お子様とご一緒に、お誘いあわせて是非ご参加下さい。

2012年11月25日日曜日

[説教要旨]2012/11/25「神の国はどこに」ヨハネ18:33-37

キリストの支配(聖霊降臨後第26主日)

初めの日課 ダニエル 7:9-10、13-14 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 黙示録 1:4b-8 【新約・ 452頁】
福音の日課 ヨハネ 18:33-37 【新約・ 205頁】

 本日は、教会の暦の最後の主日礼拝となる。現在三鷹教会で用いている「改訂共通日課」では、この教会の暦の最後の主日を「キリストの支配」を憶える日としている。この主日は1925年に教皇ピオ11世が「王であるキリスト」の日を定めたことに由来する。この年1月イタリアではムッソリーニが独裁を宣言し、11月にはドイツではヒトラーを保護する組織としてナチス親衛隊が設立された。さらにソビエトでは12月スターリンが党のトップに立ち独裁体制を固めることとなった。独裁と専制の思惑と欲望が交錯する時代、万物の王たるキリストを憶えて敢えてこの日は設けられた。キリストの支配を憶える時、力を巡って熾烈な争いを延々と繰り広げる私たちが、憎しみと報復の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのか、真の平和と友愛とを私たちはどこから得ることができるのかに思いを寄せることとなる。
 本日の聖書箇所では、十字架を目前にした主イエスとポンテオ・ピラトととの対話の場面となっている。ピラトは、ローマ帝国から派遣されたユダヤ地域の総督であった。主イエスは、「ユダヤ人の王」を名乗ったとして訴えられ、ピラトの元に連れてこられる。ピラトは、主イエスが「ユダヤ人の王」であることを認めさせようとする。それは主イエスが政治犯であることを意味し、そうであればピラトは総督としての権力と軍事力を行使して、反逆者を殲滅させれば良かった。しかし、主イエスはピラトが期待するような答えをしない。ピラトやローマ帝国とは全く違う仕方で、主イエスはこの世界を支配すると応えられる。主イエスは語る。「わたしの国は、この世には属していない」「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」主イエスが語る真理とははたして何なのか。
 主イエスの語った真理、それはいわば「愛の真理」とも言うべきものであった。「愛の真理」とは、人と人が、暴力と恐怖によって支配を争い合う、そのようなものを無意味なものにしてしまう、そのような真理である。力によって人々を支配するのではなく、主イエスはむしろ、人々のためにその命を用いるために、人々に仕えるために、この世界へと与えられた。それはなによりも、この地上に神の国をもたらすためであった。
 主イエスがもたらされる神の国は、地上の支配者が考えるような、恐怖と暴力によって専制支配し、特権を守ろうとする国ではなかった。イエスの神の国、それは愛と正義と奉仕による領域であった。平和と、兄弟・姉妹愛、正義と公正、尊敬と友愛、そのような世界を築くために、主イエスはこの世界に、私たちの只中に与えられたのである。
 イエス・キリストが、その愛の真理をもって私たちを支配するということ。それは、私たちもまた、キリストの愛によって、暴力と恐怖とによって、支配し支配される、そのような私たちの間の関係もまた、全く新しいものへと創り変えられることでもある。キリストがもたらされる真理、神の愛によって私たちの関係は変わることができる。聖書はそのような希望を私たちに語る。
 教会の暦はまもなく、クリスマスに備えるアドベントの季節を迎える。繰り返し繰り返し絶えることなく、私たちの只中に愛の真理が与えられることを憶えて、この時を過ごしてゆきたい。

2012年11月23日金曜日

[説教要旨]2012/11/18「どんな徴があるのですか」マルコ13:1-8

聖霊降臨後第25主日・成長感謝礼拝

初めの日課 ダニエル 12:1-3 【旧約・1401頁】
福音の日課 マルコ 13:1-8 【新約・ 88頁】

 本日の聖書の日課では、エルサレムの神殿が登場する。主イエスの時代のエルサレムには、立派な神殿が存在した。そもそも、エルサレムには、ソロモン王の建てた壮麗な神殿があったが、バビロニアとの戦争によって破壊されてしまい、バビロン捕囚から戻った者たちが神殿を再建しなければならなかった。エズラ記3章では神殿が再建される際には、その(おそらく粗末な)基礎を前にして、昔の荘厳な神殿を知る者は泣き出したとさえ伝えられている。しかし、そのおよそ五百年後、今度はヘロデ大王が何十年も歳月をかけて大改修を行い、荘厳な神殿を造り上げることとなった。おそらく、かつてのソロモン王に劣らぬ立派な神殿を見せつけることで、自らの王としての威信、そしてまた自らの敬虔さをを誇示しようとしたのであろう。
ヘロデ大王によって改修された神殿も、昔のものに負けないぐらい、壮麗なものであったと言われている。国中から人々が神殿を詣でる中、エルサレムの人々にとっても、この壮麗な神殿はやはり自慢となっていた。人々が誇る壮麗な神殿では、神殿を穢す者、祭儀を滞らせる者、女性や子ども、外国人は排除された。限られた者だけが、その中で、神に感謝の献げ物をし、執り成しの祈りを祈った。
本日の福音書では、主イエスとその弟子たちがこの神殿へとやってくる。弟子たちは、壮麗な神殿を目にして感嘆するが、主イエスは、そのようなな弟子たちに向かって「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られる。
 主イエスの言葉に弟子たちは驚愕し、不安を覚え、ひそかに主イエスにそのことはいつ起こるのかと尋ねる。しかし主イエスは、壮麗な神殿が崩壊したからと言って、何も心配することはないと教えられたのだった。事実、ヘロデ大王の神殿は、この後ローマ帝国との戦争によって壊滅し、今はもうその壮麗な姿を残すことはなかった。
 確かに、自分の大事にしている、立派で綺麗なものが壊れてしまうならば、私たちは悲しみ、不安を覚えずにはいられない。しかし主イエスは惑わされるなと言われる。それはなぜなのか。穢すものを排除していた、その神殿が無くなった時、私たちは世界中のどこであっても、中に入れられず、排除されていた者たちも共に聖書の言葉を聞き、神に感謝する礼拝ができるようになったのである。
 主イエスは既に弟子たちにこう語られていた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:14-15)主イエスは、私たち全てを神の国に招かれた。そうであるら、今や私たちには、誇示し自慢するべき壮麗な神殿はもはや必要ない。今日こうして集まっているように、神様の祝福と恵みを分け合うところ、一緒に神様に感謝するところ、そこには、いつも神様は一緒にいてくださるからである。私たちも、神様の祝福を分かちあって、いつも神様と一緒にいることを憶えてゆきたい。

2012年11月14日水曜日

成長感謝礼拝・こども祝福式[11/18]

11/18(日)の主日礼拝は、「成長感謝礼拝」として子どもと大人の合同礼拝となります。
礼拝の中では子ども祝福式が行われ、子ども達にはプレゼントも用意されています。
どなたでもご参加頂けます。是非ご家族でご出席下さい。

[説教要旨]2012/11/11「死を破ることば」ヨハネ11:32-44

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 25:6-9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6b 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 11:32-44 【新約・ 189頁】

 本日は三鷹教会では召天者記念礼拝として集っている。天に召された者たちについて思いを向けるということは、この地上に遺されている私たちが復活と永遠の命について思いを向ける時でもある。復活と永遠の命は現代人にとっては信じがたい事柄である。たしかに私たちは復活というものを科学的に説明も証明も出来ない。しかし、私たちのうちの誰一人として、自分のこの命がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、そのことを説明も証明出来ないことも事実なのである。私たちが説明し証明しうることは限られたものでしかない。そうした意味で、私たちが永遠の命と復活について知るということは知識として知ることなのではない。それは今私たちが自分は生きていること、自分が見えないつながりの中で生きていることを実感することと同じなのである。復活の命・永遠の命について知るということもまた、私たちの命が、この地上だけで終わるのではないこと、見えないつながりの内に留まりつづけることを、実感することなのである。しかしその永遠の命を私たちはこの地上で見出すことは出来ないこともまた事実である。ならば私たちは何によって私たちの命は肉体の死で終わるものではないことを実感するのだろうか。
 本日の福音書は「ラザロの復活」として知られている。ヨルダン川の向こう側で宣教活動をしておられた主イエスの元に、ラザロの兄妹であるマルタとマリアの使いの者がやってくる。使いに対して主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と応える。ヨハネ福音書で主イエスがご自身の「栄光」について語る時、それは主イエスご自身の十字架における処刑を指している。そうした意味で、このラザロの復活の奇跡は、主イエスの十字架への道行きへと続く出来事である。
 主イエスがラザロの元についたとき、すでにラザロは死んで墓に葬られており、マルタとマリアとは悲しみの内にあった。マルタに主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と呼びかけられる。マルタの目の前の男が、甦りそのものである。さらに主イエスは嘆きのうちにあるマリアに呼びかけ、そして死の闇の中にいるラザロへと呼びかける。主イエスの呼びかけは、あらゆる不可能性を超えて私たちを命へと呼び戻す。甦りとは単なる知識や理論ではなく、私たちに向かって呼びかけるイエス・キリストという存在であることを聖書は語る。甦りである主イエスを信頼する時、私たちにとっての肉体的な死は、私たちを脅かし、恐れさせる決定的な力を私たちにとってもはや失っている。甦りである主イエスの呼びかけは、私たちを不安と不信と恐れによって支配されていた古い命から、恵みと喜びに満ちた新しい命へと呼び戻す。
 主イエスの十字架と復活は、私たちの目に見えない存在、目に見えない世界、私たちの手の届かない世界にこそ永遠の命があることを呼びかける。地上から多くの方々が去ってゆくことによって、永遠の命はより一層私たちにとって身近なものとなる。先に召された多くの先達者達も主イエスによって呼びかけられていることを覚えつつ、地上に遺された私たちもまた私達自身の命を生き抜いてゆきたい。

2012年11月3日土曜日

[説教要旨]2011/10/28「『ことば』と自由」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日、10月31日の直前の日曜は、日本福音ルーテル教会では宗教改革記念主日礼拝となっている。1517年にルターがドイツ東北部で始めた宗教改革から、まもなく500年を迎えようとしており、世界でまた日本のルーテル教会でも様々な取り組みがなされている。ルターが、その葛藤の中で信仰の本質を見出したことは単に過去の出来事なのではなく、今も私たちを問いかけ続けている事柄である。
 ルターの生涯とはまさにことばと格闘し、ことばの中で神と出会うものであった。勤勉で厳格な父親の影響の元、法律の勉学にいそしむルターは、22才の夏、実家へ帰る途中落雷に会い、死の恐怖の中で「聖アンナ様、お助け下さい。私は修道士になります」という言葉を思わず口走ってしまう。自らの言葉に縛られてのその後の修道生活では、どこまで悔い改めは完全になされるのかという不安と疑念とのために、ほとんど妄想・錯乱状態になったと言われる。初めての聖餐式の司式で式文の言葉を口にする時、彼はその言葉を発する自らの不完全さ、罪の深さにただ恐れおののくしかなかった。いわば彼は自分の言葉に縛られ、苦悶の中から抜け出すことができないでいた。しかし、その苦悶の中で彼は聖書のことばと格闘を続け、人間の力によってではなく、ただ神の恵みとしてて、神のその正しさは私たちに与えられるという、信仰の本質を見出すこととなったた。ルターの語る神の恵み、それはルターが不安と疑念との葛藤の中でことばと格闘する中で見出した、自由をもたらす真理の光であった。
 そのような神のことばとの格闘は決してルターだけで終わるものではなかった。宗教改革から約400年後、ドイツのルター派神学者であり、20世紀最大の新約学者であるルドルフ・ブルトマンが登場する。新約聖書を徹底的に分析し、その文学的・宗教史的なルーツを探った人物であるが、とりわけ「新約聖書と神話論」という著作によって、キリスト教会に大論争を巻き起こした。この本でブルトマンは、新約聖書のさまざまな要素が古代の様々な宗教の神話を原型として持つことを明かにした。そして、それら神話的要素を取り除き、聖書を「非神話化」して、聖書のことばの中心的なメッセージとしての「キリストの十字架と復活」を教会は語らねばならないと主張した。既存の教会の聖書理解の伝統によらず、ただキリストの十字架と復活について語るのだというブルトマンのこの主張は、保守的な神学者から厳しい批判を受けることとなった。しかしブルトマン自身は、「徹底的な非神話化論は、律法の業によらず、信仰のみによって義とされるという、パウロ、ルター的な宣義論と並行しているのであり、むしろ、認識の領域におけるその徹底なのである」と語る。いわばそれは、宗教改革から400年隔ててルターの信仰を受け継いだブルトマンが、世俗化したこの現代社会において教会が神のことばを伝えるとは何かという厳しい問いかけの中で、ルター同様に神のことばと格闘した末にたどり着いた一つの結論であった。
 キリスト者は常に問いと試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと神のことばと格闘しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、それは神のことばを通して示される、十字架と復活の恵みの中を歩み続けることなのである。その意味で今なお私たちは宗教改革の歴史の中を歩んでいるのである。

[説教要旨]2012/10/21「仕えられるためではなく」マルコ10:35-45

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

本日の福音書の直前では、主イエスの立っている道がエルサレムそして十字架へと続く道であることが語られる。弟子たちもまたエルサレムへの到着を予感しはじめた時、弟子のヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願う。主イエスの左右に並ぶということはその苦難を彼らもまた耐えねばならないことを意味していた。この願いに主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と答えられるが、それに対して二人はきっぱりと「できます」と答える。彼らにしてみるならば、苦難を耐えてこその栄光であり、そのためには少々の苦難など耐えてみせるという意志を見せたつもりだったのではないだろうか。それに対して主イエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と語られるのだった。
ヤコブとヨハネの兄弟は,いわば応報の論理に立って、主イエスの左右の座に自分達が座ることを願い出た。すなわち、これだけ努力し苦難に耐えたから、それに見合う評価・報酬が与えられるはずという論理である。それは、私たちが生きるこの世界においては、極めて当たり前の論理である。しかしこの応報の論理の逆が成り立つ時、それは極めて冷酷なものともなる。つまり、苦難が報いられないとするならば、それはその人の努力・忍耐が十分ではなかった、ふさわしくなかったからだ、という結論を導くからである。一方主イエスは、それはただ神だけが決められることであると語られる。その意味で主イエスは応報の論理に立っていない。応報の論理によるならば、主イエスが十字架に向かい、命を落とすことは、挫折であり失敗でしかなかった。この男の計画と準備が不十分だったからその企みは失敗し、反逆者として逮捕・処刑された。あれは挫折者・失敗者であって無意味で無価値な存在であると理解されることとなる。しかし主イエスは、その十字架によって苦難と挫折とを無意味で無価値なものではなく、その先に永遠の命へと続く道を示されたのだった。
ヤコブとヨセフの願いを耳にして腹を立てた他の弟子たちをも呼び集めて、主イエスはこの地上の権力とは異なるあり方を語られる。地上の権威とは、より強い力、高い能力を持つ者、より多くのものを持つ者が人の上に立ち、思いのままに人を動かすものである。そして動かされる側ではなく、動かす側となるために、人は投資し、努力し、今の労苦を耐え忍ぶ。それが応報の論理である。しかし、主イエスはそのような力と論理によらず、その命を全ての人のために捧げられた。世の人々に仕えられるためでなく、この世に仕えるものとして、十字架への道を歩まれた。全てを失い、全てを捧げることこそ、主イエスが歩まれた道であり、それこそが主イエスが目指された栄光であった。
エルサレムで十字架において処刑されたこの主イエスを、あらゆる不可能を超えて、神は甦えらされ、永遠の命への道を、私たちに備えられた。地上の応報の論理を超えて、ただ神のみが私たちに永遠の命への道を備えられる。そうだからこそ、私たちの為し得ることがどれだけ不十分で、不満足なものでしかなかったとしても、主イエスの十字架によって永遠の命への道は備えられているのである。