2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/4/12「復活の朝」

復活祭

初めの日課    イザヤ 25:6-9       【旧約・1098頁】
第二の日課    1コリント 15:21-28   【新約・321頁】
福音の日課    マルコ 16:1-8        【新約・97頁】

 安息日から一夜明けた早朝、週の初めの朝に、女性の弟子たちが、十分ではなかった葬りの準備をするために、主イエスの墓へと向かう。それまで主イエスに付き従ってきた男の弟子たちの意気地の無さに比して、女性たちの行動力と責任感の強さは、古代から現代にいたるまでの教会における女性の役割の大きさを物語っている。
 彼女たちは香料を買い求め、道すがら、墓穴の入り口にある大石をどかして開けるためにどうしたらよいか、ということを心配しながら相談していた。それらは、極めて現実的な準備と心配であり、筋道の上では、手配してしかるべき事柄である。その意味で、この女性たちの態度は極めて現実的であった。しかし、彼女たちの心配と準備はことごとく裏切られる。墓の入り口は既に開いており、墓穴の中に、主イエスの亡骸は無かった。ただ白い長い衣を着た若者によって、主イエスは甦られたことが告げられる。
 人間の視点から見るならば、準備していたことや、心配していたことが全て無駄になったのだから、それらは残念なことである。それどころか正気を失うほど恐ろしい思いをしたのであるから、それは避けられるべき事柄、あってはならない事柄である。しかし、それこそがまさに主イエスの復活の朝の出来事であった。
 私たちは、自分をとりまく物事が、十分に準備され、自らの計画通りに、滞りなく進むことこそが、もっとも良い事であり、それが妨げられることに対して戸惑い、苛立ちを覚え、時として、自分の日常の一角が侵され崩れ去ることに対してどうしようもない不安と恐れに慄くことがある。しかし、復活の朝の出来事、それはまさに、戸惑い、苛立ち、恐れ、不安をいだかずにはいられないような事柄であった。そしてなおかつ、それは尽きることのない恵みと喜びが私たちの間にまさしく与えられた出来事でもあった。
 十字架に死にたまえる主イエス・キリストが、どうじに復活の栄光の主であるという矛盾。それは、私たちの直面する戸惑い、苛立ち、恐れ、不安は、同時に、希望と喜びそして救いと新しい命の始まりなのである。

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