2011年4月26日火曜日

[説教要旨]2011/04/24「だれをさがしているのか」ヨハネ20:1-18

復活祭

初めの日課 使徒言行録 10:39-43 【新約・234頁】
第二の日課 コロサイ 3:1-4 【新約・371頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1-18 【新約 209頁】

 復活の朝、主イエスの亡骸を見つけ出すことが出来ずに悲嘆に暮れるマグダラのマリヤに、主イエスは「だれを捜しているのか」と問いかける。
 マリヤは他の弟子とともに、一番に空の墓を見出す。空の墓、それは本来主イエスが死を打ち破り、復活されたことの徴である。しかし、初めにそれを見た時、彼女にとってそれは悲しみの徴でしかなかった。なぜならば彼女が墓の中に捜し求めていたもの、それは復活のキリストではなかったのである。彼女が求めていたものは、彼女の元から失われてしまった主イエスの存在であった。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(13節)。自分から失われてしまったものをひたすら捜し求めるマリヤは、主イエスの復活の出来事を見いだすことが出来ないまま、涙に暮れている。そこに主イエスは現れ「だれを捜しているのか」問いかける。
 失われたものを求めるマリヤには復活の主イエスがその傍らにおられることに気付くことが出来ない。それは聖書の語る復活とは、人が自分の元から失ってしまったものが、単に復元するということではない、ということを物語る。もしそのことを、主イエスの復活の中に求めるならば、私たちはマリヤと同じく、私のものが取り去られてしまったことをただ嘆くことしか出来ないのである。
 主イエスの復活、それは主が十字架への道を逸れることなく歩まれたことによって実現したのであった。仲間からも見捨てられ、多くの傷を得、全てを失ったからこそ、復活の出来事は成し遂げられたのであった。実に主イエスの復活は、失われたものが元に戻るということなのではなく、失われることを通して初めて全く新しい命がそこに実現する、ということに他ならないのである。
 主イエスによって呼び出されたマリヤは、そこに復活の主がおられることを知ることで、大きくその歩みを変える。マリヤは失われたものをもはや嘆くことなく、「わたしは主を見ました」と告げるために仲間のところへ戻ってゆく。
 私たちは毎年、受難と復活を憶える時を繰り返す。それは、私たち自身が主イエスの復活に与ることを憶え、そこに希望を見いだしてゆくためである。しかし、主イエスの復活は、その十字架の受難によって、この世に生きる私たちの苦しみと痛みを主が担って下さったということを通して、初めて実現するのである。
 だからこそ私たちは、他者の傷と痛みを分かち合うことによってこそ、復活の命を見いだすことが出来るのである。「誰を捜しているのか」。復活の主はその用に問う。自分の元から失われてしまったものをひたすら取り戻そうとするのではなく、誰かのために、その命を注ぎだしてゆくこと、そこにこそ復活の命はあることを、復活の主イエスは示されたのであった。

2011年4月14日木曜日

2011年ルーテル・キャンパスミニストリ月間のご案内[04/17-05/15]

2011年ルーテル・キャンパスミニストリ月間として、

4/17河田優師(ルーテル学院大チャプレン)
5/8ジョナサン・ブランキ師(ルーテル学院大准教授)
5/15ティモシー・マッケンジー師(ルーテル学院大准教授)


 に説教を担当頂きます。

また5/15にはラウス・アンジェリカ(ルーテル学院大学ハンドベル)の演奏、昼食会も行われます。
どなたでもご出席いただけます。
皆様のお越しをお待ちしております。

イースターヴィジル(復活前夜祭)のご案内[04/23]

2001年より日本ルーテル神学校とルーテル三鷹教会の共催ではじめられました復活前夜祭・Easter Vigil(イースターヴィジル)を本年も下記の要領で行うこととなりました。
皆様のご参加をお待ちしております。

2011年4月23日(土)18:30-20:30
ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 チャペルにて


イースターヴィジルは復活徹夜祭とも呼ばれ、古代の教会では元来の復活祭礼拝として年間を通して最も重要な礼拝でしたが、時代と共に限られた聖職者のみで執行されるようになってゆきました。しかし1950年代に入り、カトリック典礼改革運動の盛り上がりとともに見直され、1960年代にはルーテル教会の式文にも採用されることとなりました。いわば、現代の礼拝刷新運動の原点とも言える礼拝です。
その内容構成は、1、光の祝祭 2、み言葉の礼拝 3、バプテスマを憶えて 4、聖餐 5,派遣となっており、暗闇から光へと復活する主の御業を追想しながら、洗礼の恵みに感謝し、共に聖餐に与ります。また特に本年は日本福音ルーテル東教区の後援のもと、東日本大震災被災者を憶えての祈りも行われます。
主の復活を迎える復活前夜際・Easter Vigilに是非お越しください。

[説教要旨]2011/04/10「わたしは復活であり命である」ヨハネ11:17−53

四旬節第5主日

初めの日課 エゼキエル 33:10−16 【旧約・1350頁】
第二の日課 ローマ 5:1−5 【新約・279頁】
福音の日課 ヨハネ 11:17−53 【新約 189頁】

 主イエスが訪れたとき、ラザロの姉妹は涙にくれている。それは人間にとって避けることの出来ない運命を前にして、私たちがいかに無力であるかということを思い起こさせる。私たちに出来ることはただ涙を流すことだけなのである。ラザロの死について聖書が語る事柄は、私たちにとって決して特別なことではない。それは私たち人間にとって常に現実であり続ける事柄である。
 しかし、その現実は主イエスの到来によって劇的に変化する。嘆く姉妹を前にして、主イエスは死の力に対する強い怒りを覚えられる。それは単に肉体的な死に対する怒りだけではない。人と人とを引き裂き、希望を奪い、絶望の中に陥れる力、そうしたものの全てとしての「死の力」に対して、主イエスは憤りを覚えられるのである。
 私たちから望みを奪う死の力、それはただ肉体の死においてだけでなく、私たちの生きている様々な場面を支配している。死の力は私たちに、分かち合うこと、赦すこと、他者の痛みを共に担うことを、無力で愚かなものであるかのように思わせる。そうした死の力に、私たちの日々は晒されている。けれども、主イエスはその死の力に憤り、あらゆる死のリアリティを打ち破り、ラザロを墓の中から呼び出す。それは主イエスがこの地上に与えられたことの意味を何よりも明らかにするものであった。
 死の力の支配から呼び出されたのはただラザロだけではなかった。主イエスはマルタに語る。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」この問いにマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と応える。主イエスの呼びかけに応えたマルタも、あるいはその妹マリヤもまた、ラザロと同様に命の中へと呼び出されたのである。実にここで聖書は、私たち人間を支配し、絶望と悲嘆と孤独へと閉じ込める死の力に抗う道を、私たちに語っているのである。主イエスの十字架からの復活、それは私たちに、死に勝る力があること、それは主イエスによってこの地上に与えられていることを告げる。まさにその意味で、絶望と悲嘆に満ちた死の力の支配の元から、十字架は私たちを呼び出している。十字架を見上げる時、私たちはそこにこそ、今私たちに押し寄せる、悲嘆と絶望の力に抗う道があることを知るのである。

2011年4月6日水曜日

[説教要旨]2011/04/03「ただ一つ知っていること」ヨハネ9:13−25

四旬節第4主日

初めの日課 イザヤ 42:14−21 【旧約・1129頁】
第二の日課 エフェソ 5:8−14 【新約・357頁】
福音の日課 ヨハネ 9:13−25 【新約 184頁】

 本日の福音書では、その直前で主イエスと出会った目の不自由な男について取り上げら、さらに、この男の癒しの奇跡のその後に起こった出来事が詳しく描かれることとなる。他の福音書の物語と異なり、この場面では主イエスは対話の中には登場せず、主イエスが不在のまま、人々の間で論争が起こる様子が描かれている。その様子は、私達自身の信仰生活の中で、私達自身が問われている姿にも通じている。人々は、主イエスに出会った男に詰めより、彼に起こった出来事を説明させようとする。しかし、彼は、人々が期待するようにはそれを応えることが出来ない。そもそも、彼が主イエスと出会った時、彼の目はまだ開いてはいなかった。したがって、人々は「その人はどこにいるのか」と問われたとしても、彼にはただ「知りません」としか答えられなかったのは当然のことであった。あるいは、そのイエスという人物がいったい何者であるかということについて、つまり百科事典のような整然と並べられた知識として知ることは彼にはできなかった。そして、そうした知識が備わっていたから主イエスによって癒されたのでもなかった。むしろただ、主イエスの方がこの男のもとを訪れたのであった。しかし、彼には「ただ一つ知っていること」があった。彼は「今は見える」という彼自身の体験であった。たしかに、その原因や方法は彼にはわからない。しかし、彼は今や、主イエスとの出会いが、彼の目を開いたことを知っているのである。そして再び主イエスに出会ったとき、彼は「主よ、信じます」と語るのである。この男の目が開かれたこと、その意味はまさにこの言葉が、この男の口から語られるためであった。
 私たちが、自分にとっての主イエスとの出会いを問われたとしても、私たちはその問いに対して、論理的にそして誰にでも当て嵌まるように説明することはおそらく不可能であろう。なぜならばそれは主イエスが私たちの元を訪ねられ、そして私たちと出会われたからに他ならない。そして、その時その場においては、私たちはその出来事の意味を理解することは出来ない。ただ自分の歩みを振り返ってみるときに、私たちは主イエスとの出会いがそこにあったことを知る。そして私たちはその時、私たち自身の心の目が開かれたことを知るのである。
 復活という奇跡を私たちが論理的に説明することは不可能である。しかし、主イエスとの出会いを通して、心の目を開かれた私たちはその意味を知る。それはこの地上において様々に傷つき破れた私たちの癒しと救いの出来事なのである。