2009年8月25日火曜日

[説教要旨]2009/8/16「全ての人が満たされる」

聖霊降臨後第11主日

初めの日課    エレミヤ 23:1-6       【旧約・1218頁】
第二の日課    エフェソ 2:11-22      【新約・354頁】
福音の日課    マルコ 6:30-44       【新約・72頁】

 本日の福音書のエピソードは、4福音書の全てが記しており、「5千人への供食」として有名な箇所である。マルコ福音書の物語では特に、弟子たちの派遣の記事に続いている。派遣された弟子たちは、食事をする暇も無いほど疲れ切って主イエスの元に戻る。しかし主イエスと弟子たちが休む間も無く、群集が彼らのもとにおしかける。無遠慮ともいえる群集たちを前にして、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれる。「飼い主のいない羊」とは、いわば人々の飢え乾いた姿である。主イエスの「憐れみ」とは、人々の飢え乾きを受け止めるものなのである。しかしそこで、主イエスがまず「教え始められ」た、つまり、人々の飢え渇きに対して、主イエスはまずご自身の言葉を与えられたというのは興味深い。主イエスの言葉こそが、人を満たすものであることをこの箇所は私達に語っている。
 しかし時間とともに、弟子たちは、現実に対する不安を憶え、主イエスの働きを中断させる。その弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられる。それは、弟子たちの派遣がここでも継続していることを示している。本来弟子たちは、主イエスによって既に力を与えられていることが、先週の箇所で語られていた。彼らは、目に見える力と物をたとえ何も持っていなかったとしても、ただ主イエスの言葉のみに押し出されて、人々を癒し、宣教することが出来るのである。しかし、託された働きに疲れた弟子たちは、主イエスの語る意味を理解することができない。自分たちには、現実には十分なものがないと、主イエスに対して抗議する。現に無いことを訴える弟子達に対して主イエスは、逆に、現にあるものを用いて、全ての人をありあまる程に満たされるのである。それは、主イエスによって実現する神の国の姿に他ならなかった。
 目に見えるものからしか、主イエスの派遣を捉えることの出来ない弟子達は、いわば、見えるものからしか未来を語ることのできない私達自身の姿でもある。しかし、そのような私達に、主イエスは、ご自身の十字架と復活を通して、見えない神の国の力を既に示されているのである。
現代の日本社会において、8月は平和について思いを至らせなければならない時である。しかし、平和を求め、訴えることは今日決して容易ではない。時としてそれは非現実的であるとして、断じられてしまうことすらある。しかしだからこそ、今日のキリスト者には、見えるものではなく、見えないものを信じ、望み続けることが問われているのである。

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