2009年8月25日火曜日

[説教要旨]2009/8/23「恐れることはない」

聖霊降臨後第12主日

初めの日課    ゼファニヤ 3:18-20     【旧約・1474頁】
第二の日課    エフェソ 4:1-16       【新約・355頁】
福音の日課    マルコ 6:45-52       【新約・73頁】

 マルコ福音書で示される様々な奇跡は、イエスという人物が一体何者であるかを読者に問いかける。しかし、物語の登場人物たち(主イエスの弟子たちなど)と同様に、読者である私たちもまた、その問いに対する答えを簡単には見出すことができない。
本日の福音書では、湖の上を歩くという、明らかに人間の理解を超えた出来事を前にして、弟子たちは恐怖に慄く様子が描かれる。しかし、弟子たちが水の上を歩く人の姿を見て、幽霊だと思い恐怖する様子を客観的に考えるならば、その弟子たちの恐怖は、むしろ当然のことであるように、私たちには思われる。それはいわば、人が、自分たちが直面する困難(=例えばここでは、「逆風のため漕ぎ悩んで」いるということ)の中で、主イエスを見出すことは決して簡単ではない、ということを私たちに物語る。
 水上を歩き、傍らを通り過ぎられるという奇跡、それは、まさに神の力がそこに表れているに他ならない。弟子たちは既に4章で、主イエスから神の国について教えを受け、そして、主イエスが突風を鎮めるということを体験している。そしてさらに、5~6章にわたっては、主イエスの奇跡を目の当たりにし、あまつさえ、自分たち自身もその権能すらも与えられて村々へと派遣されている。しかし、それにもかかわらず、弟子たちは、5000人への給食の場面と同様、自分たちの置かれた厳しい状況の中で、神の力が自分たちの目の前に現れていることを理解できない。繰り返し語られる弟子たちの無理解は、単に彼らがとりわけ無能であったということを示しているのではない。むしろ弟子たちは、私たち自身を代表するものとして、人が神の力を見出すことがいかに難しいことであることを示しているのである。
 しかしながら、そのような私たち人間の無理解にもかかわらず、主イエスは、私たち人間のもとへと歩み寄られ、語りかけられるのである。おそれおののく弟子たちのもとへ主イエスご自身が近づき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉をかけられる。その言葉と共に、主イエスご自身が、彼らと共におられたその時に嵐は静まった。しかし、弟子たちが、その主イエスが何者であるかということがわかったのは、実に、十字架と復活の時を待たなければならなかったのである。
8月は平和について思いを寄せなければならない時である。しかし今日「平和」あるいは「和解」を語ることは簡単ではない。時としてそれは非難と嘲笑にさらされ、いわば逆風にさらされている。しかし、そのような中で、主イエスは私たちに語られるのである。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。


[説教要旨]2009/8/16「全ての人が満たされる」

聖霊降臨後第11主日

初めの日課    エレミヤ 23:1-6       【旧約・1218頁】
第二の日課    エフェソ 2:11-22      【新約・354頁】
福音の日課    マルコ 6:30-44       【新約・72頁】

 本日の福音書のエピソードは、4福音書の全てが記しており、「5千人への供食」として有名な箇所である。マルコ福音書の物語では特に、弟子たちの派遣の記事に続いている。派遣された弟子たちは、食事をする暇も無いほど疲れ切って主イエスの元に戻る。しかし主イエスと弟子たちが休む間も無く、群集が彼らのもとにおしかける。無遠慮ともいえる群集たちを前にして、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれる。「飼い主のいない羊」とは、いわば人々の飢え乾いた姿である。主イエスの「憐れみ」とは、人々の飢え乾きを受け止めるものなのである。しかしそこで、主イエスがまず「教え始められ」た、つまり、人々の飢え渇きに対して、主イエスはまずご自身の言葉を与えられたというのは興味深い。主イエスの言葉こそが、人を満たすものであることをこの箇所は私達に語っている。
 しかし時間とともに、弟子たちは、現実に対する不安を憶え、主イエスの働きを中断させる。その弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられる。それは、弟子たちの派遣がここでも継続していることを示している。本来弟子たちは、主イエスによって既に力を与えられていることが、先週の箇所で語られていた。彼らは、目に見える力と物をたとえ何も持っていなかったとしても、ただ主イエスの言葉のみに押し出されて、人々を癒し、宣教することが出来るのである。しかし、託された働きに疲れた弟子たちは、主イエスの語る意味を理解することができない。自分たちには、現実には十分なものがないと、主イエスに対して抗議する。現に無いことを訴える弟子達に対して主イエスは、逆に、現にあるものを用いて、全ての人をありあまる程に満たされるのである。それは、主イエスによって実現する神の国の姿に他ならなかった。
 目に見えるものからしか、主イエスの派遣を捉えることの出来ない弟子達は、いわば、見えるものからしか未来を語ることのできない私達自身の姿でもある。しかし、そのような私達に、主イエスは、ご自身の十字架と復活を通して、見えない神の国の力を既に示されているのである。
現代の日本社会において、8月は平和について思いを至らせなければならない時である。しかし、平和を求め、訴えることは今日決して容易ではない。時としてそれは非現実的であるとして、断じられてしまうことすらある。しかしだからこそ、今日のキリスト者には、見えるものではなく、見えないものを信じ、望み続けることが問われているのである。

2009年8月9日日曜日

[説教要旨]2009/8/9「世に遣わす」

聖霊降臨後第10主日

 初めの日課    アモス 7:10-15 【旧約・1438頁】
 第二の日課    エフェソ 1:3-14 【新約・352頁】
 福音の日課    マルコ 6:6b-13 【新約・71頁】

 本日の福音書では、主イエスは12弟子を各地に派遣する。12人という数字は、実際に12人であったかというよりも、神の約束を受け継ぐ民の代表としての存在を象徴的に表している。その意味で、派遣されたのは、この12人という数に限定されているわけではない。あるいは、ある特定の人たちだけに限定して、主イエスは特別な権威を授けたという意味でもない。主イエスの派遣は、この最初の弟子たちを端緒として、キリストに従う全ての人に向けられているのである。
 主イエスによって悪霊払いや癒しの力を与えら得て派遣された最初の弟子たちが、果たして、完璧な信仰者であるのかと問うならば、答えは明確に否である。むしろこの後に続くマルコ福音書は、この弟子たちが主イエスの言葉に対して、いかに無理解であったかということを、繰り返し強調している。その意味で、主イエスによって派遣された最初の弟子たちは、いわば極めて欠けが多く、無責任で、弱く不完全な信仰者であった。しかし、その弱い人間を用いて、主イエスは、神の国の到来を告げられ、人々に神へと立ち帰らされたということは、非常に興味深い。主イエスが必要最小限以外のものは「何も持たず」に弟子たちを派遣されたということ、それは、その弱い人そのものを、神が導かれることを私たちに伝えている。人が、主イエスによって遣わされる時、その人の強さや責任感の強さといった美徳によって、神の国と主イエスを、この世に告げるのではないのである。むしろ、自らの欠けと弱さの中で葛藤しつつ、それでもなおこの世に関わる、そのあり様の中でこそ、主イエスの言葉はこの世に伝えられるのである。
 また同時に、私たちは自らの弱さを知りながら、むしろそれを知っているからこそ、自分の成したことに稔り見えない時に、悲嘆し、先へ進むことを諦めてしまう。しかし、「足の裏の埃を払い落しなさい」との言葉は、私たちにある種のユーモアすら感じさせつつ、私たちを落胆から呼び戻す。世に遣わされた者にとって、その働きの結果がどう実るかは、ただ神に委ねることができるのみである。たとえ人の目には、そこに何も確たるものが見えなかったとしても、私たちはそのことに思い悩むことなく、次へと進むことができるのである。
 日本社会において8月は「平和」について思い起こす時である。しかし、日本社会の状況は、平和よりもむしろ武力で立ち向かうことを是としつつあるように見える。そのような中、平和について語ることは、もはや意味を失ってしまったかのうように見える。しかし、キリストの平和を伝えることを、キリスト者一人一人は託されており、たとえそのことが実らないように見えたとしても、私たちは落胆する必要などないのである。

2009年8月5日水曜日

キリスト教入門講座

9/3まで、キリスト教入門講座はお休みいたします。

次回は9/10(木)13時半より、「フィリピの信徒への手紙」を学びます。

キリスト教入門講座は、原則、毎週木曜13時半より 三鷹教会集会所にて行われています。
なお、入り口側の部屋がハンドベルの練習などで使用中の場合は、集会所脇の入口(PGC研究所側)よりお入りください。
どなたでもご参加いただけます。

8月中の教会学校

8月末まで、教会学校分級はお休みします。
なお、「こどもれいはい」は、通常通り10時から行われます。

[説教要旨]2009/8/2「イエスにつまずく」

聖霊降臨後第9主日

 初めの日課    エゼキエル 2:1-7a 【旧約・1297頁】
 第二の日課    2コリント 12:1-10 【新約・339頁】
 福音の日課    マルコ 6:1-6a 【新約・71頁】

 8月第1週はルーテル教会では平和の主日とされている。64年前の敗戦以来、8月は平和と戦争、そして人間の罪に向き合うことが強く求められる月であると言える。そして特にキリスト者にとって、それは「この世の力に従うのか」あるいは「キリストに従うのか」ということが問われることでもある。
 しかし、ナザレ出身の大工、イエスという男に従うということは、決して単純なことではない。いったいこの男は何者なのか、ということが、そこでは問われることとなる。そしてマルコ福音書における最大の問いは、この「神の国を宣え伝えるイエスとは何者か」ということであると言える。しかし、それは百科事典的な知識としての問いではない。むしろ、自分自身とイエスとの関係とが問われているのである。
 悪霊たちは、イエスが何者であるか、すなわち「神の子である」ことを知っている。あるいは名も力も無い群集たちは、イエスのもとへと集まる。しかしその一方でイエスの周囲の人間は、それがわからない。3節では次のように書かれている。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。彼らが知っていた事実、イエスという男についての知識は彼らの人生を変えるような決定的な出会いを生み出しはしなかった。むしろ、彼らが見聞きし知っていた事実は、彼らが主イエスに出会うことを妨げ、躓かせる。彼らは、自分たちの目に映る事柄にこだわり過ぎるあまり、主イエスの本当の力に触れることができなかったのである。そして、それは十字架の時にいたるまで、人の目には隠されている。主イエスの伝えた神の国の到来、それはその十字架と復活の出来事と切り離すことは出来ないのである。
 その意味で、神の国とは、人の考えるような、目に見える権力や経済力、あるいは軍事力によって他者を圧倒し、支配する存在ではない。むしろそれは、他者のために命を注ぎ出すことによって、逆にその命が永遠のものとなるような、この世の論理と価値観とは真っ向から対立する存在なのである。イエスとは誰か、このような奇跡は一体何か。聖書が投げかけるこの問いに対して、知識としての答えではなく、信仰としての応答を返すと言うこと、それは見えるものではなく、見えないものをこそ信じ、希望としていくことである。
 だからこそ、神の子イエス・キリストに従うことは、たとえ自分の周りの現実はおよそ平和とはほど遠い状態の中にあったとしても、望み、信じ抜くことこそが平和を生み出すものであると信じて歩むことに他ならないのである。