2010年4月22日木曜日

世界の子ども支援チャリティコンサートのご案内 [5/23]

第7回世界の子ども支援 上野由恵フルートコンサート

5/23(日)14時より、ルーテル三鷹教会(ルーテル学院大学チャペル)にて、日本ルーテル社団・日本福音ルーテル教会主催による、世界の子ども支援「上野由恵フルートコンサート」が開催されます。

お子様連れでも、どなたでもお気軽にご参加いただけるコンサートです。
入場無料ですが、席上でチャリティのための自由献金があります。

皆様お誘いあわせの上、是非お越し下さい。




演奏予定曲目

ビゼー:「アルルの女」よりメヌエット
チャイコフスキー:感傷的なワルツ
ラフマニノフ:ヴォカリーズ
リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行
バッハ:「管弦楽組曲第2番」より
ポロネーズ、バディネリ
バッハ:G線上のアリア
城ヶ島の雨
浜辺の唄
モンティ:チャルダッシュ

※曲目は都合により変更になることがあります。

LAOS講座の学びのご案内(第2回) [4/25]

4/25(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第2回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
(今後は隔月程度で、学びの時を持つ予定です。次回は7/25(日)に、本テキストの著者である江藤先生にご担当いただく予定です。)
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、全9巻セット1500円)


[説教要旨] 2010/4/18 「心の目を開いて」 ルカ24:36-43​

復活後第2主日

初めの日課 ​使徒言行録 9:1-20​​【新約・ 229頁】
第二の日課​ 黙示録 5:11-14​​​【新約・ 458頁】
福音の日課 ​ルカ 24:36-43​【新約・161頁】

エマオから二人の弟子がエルサレムに戻り、他の弟子たちに自分たちの体験を語る。主イエスと再び出会う体験を通して、今や彼らは「心が燃えた」と語る。夕暮れの道での暗い顔で語る彼ら二人と、真夜中に家の中で燃える心で語る彼らの間には、同じ人間でありながらも、何か決定的な相違が生まれていた。しかし、この二人の体験を聞いても、残りの弟子たちは、それを信ずることは出来なかったであろうと思われる。二人の弟子と、真夜中の家の中に隠れるようにして集まっている、それ以外の者たちとの間には、決定的な相違があった。
そこに、突然主イエスが彼らの真ん中に現れ、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語る。しかし弟子たちは、亡霊を見たと恐れおののき、心に疑いを起こし、平和とは全くほど遠い状態にあり、主イエスがその身体を示しても、信ずることは出来なかった。ただ主イエスが弟子たちと共に食事をすることで、はじめて彼らは、その命の現実を理解することができたのだった。
復活の主イエスの顕現を巡るこの短い段落の中に、死と命、恐怖と平和、疑いと信頼、という対立する要素が詰め込まれている。主イエスを巡って、弟子たちの心は恐れ、疑い、そして心に平安と喜びと燃える思いをまた与えられた。なぜならば、復活の主イエスは、十字架において死なれた主イエスでもあるからなのである。主イエスにおいて、命と死は激しくぶつかりあっているのであり、しかも、死は一度は命を飲み込んでしまうのである。けれども、その死は決定的に最後のものではないこと、一見命の敗北にすら見えるような、その死の勝利の先に、新しい永遠の命の領域があることを、復活の出来事を通して聖書は私たちに語る。
主イエスを亡霊と思い、恐れおののき心に疑いを起こすということ、それはエマオ途上にあった暗い顔をした二人がそうであったように、死の勝利しか見ることが出来ない、私たち人間の姿でもある。そのような私たちは、一つの部屋に集まっていても、不信と不安とによって分断されているような有り様を超え出ることが出来ない。しかし、死の力は主イエスと弟子たちとの絆を断ち切ることは出来なかった。主イエスは甦り、再び彼らのもとを訪れ、彼らの間に平和と信頼を回復された。それは彼らの心の目が開かれ、死ではなく、命の勝利を見ることが出来るようになったということであった。復活の主イエスが私たちに与えられたということ、それは私たちもまた絶望的な状況を超えて、命の勝利と、平和と信頼とに満たされることを、確信することが出来ることを、聖書は私たちに語るのである。

2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/4/11 「心は燃えていた」 ルカ24:13−35 

復活後第1主日

初めの日課 使徒言行録 5:12−32 【新約・ 221頁】
第二の日課 黙示録 1:4−18 【新約・ 452頁】
福音の日課 ルカ 24:13−35 【新約・160頁】

 主イエスが復活された日曜の夕方、二人の男がエルサレムから近郊の村エマオへと向かっている。主イエスの弟子であった彼らは、「暗い顔をして」いたと17節にあるとおり、主イエスの十字架での刑死と、その亡骸がなくなったという不可解な事件を前に、どうしてよいかわからなくなっていたと思われる。
そこに、一人の男がやってくる。読者である我々にはそれが甦られた主イエスであることが示されているが、登場人物である二人にはそれは隠されていた。彼らは、尋ねてきたこの男に、自分たちのこれまでの体験を語る。それは、地上における主イエスとの交わりの体験であり、またその十字架の死と、空の墓についての証言を聞いたというものであった。その言葉は、ある意味では信仰告白(使徒信条)の一部に通ずるようにすら思われるほど、主イエスの受難を的確に要約している。しかし、それが信仰の告白となるには、未だ不十分であった。その意味では、この時まだ、彼らは真の主イエスとの出会いを体験していなかったのである。
 地上の主イエスを彼らは「知っていた」にも関わらず、復活の主イエスご自身を前にして、彼らは「あの方は見あたりませんでした」と語る。しかし、主イエスが聖書について解き明かし、そして共に食卓を囲んだ瞬間に、彼らは主イエスが共におられることが「分かった」と聖書は語る。ここに私たちは、信仰の本質を見ることが出来る。主イエスはもういない、主イエスはどこにいるのか、その悩みと不安の中にいる時、既に主イエスは悩み恐れる者と共におられるのである。しかし、そのことは私たちが望むような、あるいは予想するような仕方では、私たちには明らかにはされない。私たちの地上の「目」に見えるのは、ただ空の墓という事実だけなのである。それは私たち人間の論理にとっては、喪失と空虚さを示すだけでしかない。喪失と空虚さにのみ目を向ける時、共におられる主イエスを私たちは「見る」ことは出来ない。しかし、聖書の言葉が語られる時、そして主イエスの食卓との交わりがなされる時、その喪失と空虚さの事実は、私たちに与えられた大いなる喜びであること、それは主イエスが私たちと共におられることのしるしであることが「わかる」のである。
 「暗い顔」をしてエルサレムから旅をしてきた二人の弟子は、彼らに失われたものを悲しみ、そして不安に襲われていた。しかし、主イエスとの出会いを思い起こし、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げるようにして旅立ったはずのエルサレムで彼らに起こった出来事を伝え始める。主イエスとの出会いは、暗い顔をした彼らを「喜びを語る者」へと変えた。主イエスの復活とは、喪失と空虚さに打ちのめされる私たちを、喜びを語る者へと変えしめる出来事なのである。

[説教要旨] 2010/4/4 「準備していたものが」 ルカ24:1−12 

復活祭

初めの日課 出エジプト 15:1−11 【旧約・ 117頁】
第二の日課 1コリント 15:21−28 【新約・ 321頁】
福音の日課 ルカ 24:1−12 【新約・159頁】

 日曜の朝、主イエスの弟子の女性たちは、金曜の午後には出来なかった、葬りの準備をして、主イエスの亡骸が葬られた墓穴へ向かう。主イエスの十字架刑に際して、男の弟子たちが既に逃げ隠れてしまったのに対して、女性たちが自らの危険を顧みずに墓へと向かうということは非常に興味深い。驚くべき出来事を最初に体験するのは、12使徒としてこれまで何度も名前が挙げられた男たちではなかった。そして、たどり着いた先で彼女らは驚くべき体験、すなわち空虚な墓を発見することになるのである。それは主イエスの復活に関する、最初の証言となった。
 復活とは、理論的に証明されるような事柄ではないし、議論によって疑問点が解明されるようなものでもない。復活の信仰とは、ただ人々の証言によってよみ伝えられるものなのである。しかし、それは信仰者の主観的な思い込みを伝えるということでもない。福音書は、最初の目撃者である女性たちを通して、思い込みの余地のない、一つの客観的な事実として、私たちに「墓は空虚であった」ということを伝える。空虚な墓で、輝く衣を着た二人(=天使)は主イエスが既にガリラヤとそこからの旅の途上で繰り返し語ってきた言葉を、ここで再度繰り返す。いわば、空の墓においてはじめて、女性たちは主イエスの言葉を、本当の意味で自らのものとすることが出来たのであった。
 女性たちの証言、それは、準備していたほうむりの準備が、すべて空しいものになってしまったというものである。それは、私たち人間の論理の観点から言うならば、むしろ残念なことであるはずである。しかし、墓は空であったということ、そしてそれは、主イエスは甦られたということであるとわかったということ、それは準備していたものが、無駄になってしまったという、個人的な思いを遙かに凌駕して、全世界に、すべての時代に届けられる喜びのメッセージとなったのである。
 この箇所において、主イエスは登場せず、そこではただ、主イエスの不在だけが語られている。しかし、それにもかかわらず、そこには主イエスの存在は不可欠のものとなっている。主イエスが墓には既にいないという出来事が、そこに集ったものたちの、価値観を根底から逆転させているのである。準備していたものが無駄になることがかえって喜びのしるしとなり、私の悲しみは、多くの人々の喜びへと変えられるのである。
 イースターの出来事、それは私たちのあらゆる悲しみが、根底から喜びへと変えられる出来事なのである。

[説教要旨] 2010/3/28 「未熟な弟子の賛美」 ルカ19:28−48 

枝の主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9−10 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 フィリピ 2:6−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 ルカ 19:28−48 【新約・ 147頁】

 教会は、今年も枝の主日を向かえる。私たちは、四旬節において、主イエスの受難、十に至る道を憶え、主の復活を待ち望む。私たちは、枝の主日を毎年のように向かえるが、イエス・キリストが十字架に架かり死なれた出来事は、歴史上ただ一回限り起こった出来事である。四旬節とは、何のための・誰のための期節なのか。それは、ただ私たちの救いのためだけの期節なのである。主イエスは、ただ私たちを罪から解放し、永遠の命に与らせ、平和を実現されるためだけに、この世に生まれ、十字架に架かったのである。本日は、特にそのことを憶えていきたい。
 本日の福音の日課において、主イエスはエルサレムに入城される。ガリラヤからの福音宣教の旅の目的地に、いよいよ到着するのである。主イエスがエルサレムに入城されるに際して、弟子の群れは声高らかに「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と賛美する。この賛美は、主イエスの誕生に際して、天使の大軍が羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美したことを彷彿とさせる。主イエスは、世に平和を実現される王、預言者を通して神が約束された救いを成就される者としてエルサレムに入られたのである。同時に、主イエスは世に誕生された時から、既に十字架への受難の道を歩まれていたのである。主イエスの十字架への道は、ただ私たちの救いのためだけにある。私たちは、主イエスの十字架への道を通して、主イエスの受けられた受難の中に、神の私たちに対する深い愛が示されているのを見る。その意味で、主イエスの福音宣教の旅の最終目的地は十字架である。
 弟子たちは、主イエスをエルサレムへ迎える時、賛美した。これは、弟子たちが賢く、成熟しており、イエスが救い主であると十分理解していたから賛美したのではない。むしろ、弟子たちは、主イエスが逮捕されると、否認し躓いた。しかし、弟子たちは主イエスに対して真実な告白をしている。主イエスは、救い主であり、平和を実現される方なのである。未熟な弟子たちは、キリストに用いられることによって、救いの計画を担い、また救いに与ったのである。私たちもキリストの弟子であり、自分の理解や判断を超えて神に用いられている。その様な未熟な私たちをも救いの計画に用いてくださる神に感謝し、私たちの救いのために十字架に架かられる主イエスの愛を憶えたい。

[説教要旨] 2010/3/21 「捨てられた石から」 ルカ20:9−19 

四旬節第5主日

初めの日課 イザヤ 43:16−28 【旧約・ 1131頁】
第二の日課 フィリピ 3:5−11 【新約・ 364頁】
福音の日課 ルカ 20:9−19 【新約・149頁】

 ルカ福音書20章では、主イエスが宗教的権威たちと論争する場面が描かれる。そこではもはや、村々で行っていたような癒しの業はなされなかった。ガリラヤから村々を回る長い旅を経て、エルサレムにたどり着いた主イエスは、神殿において語り教えることに集中される。
 村々の会堂と異なり、神殿は祭司たちが専門的に管理する場所であった。そこで教える主イエスは「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただされる。主イエスはガリラヤでは既に「『霊』の力に満ちて」(4:14)、権威を持って語られていた(4:31)。しかし、伝統と権威を担うエルサレムの神殿を管理するものたちは、辺境において示された権威を、自分たちの管理する領域では認めることができなかった。そのようにして、神殿を管理する宗教的権威らは、自分たちの「なわばり」あるいは「聖域」を侵犯する主イエスに対する敵意を深めてゆくことになる。神殿において主イエスは、ご自分の周りにいる民衆たちと、敵対者との、その双方に対して、ぶどう園の譬えを通して、その教えを語られることとなる。
 イザヤ書、エゼキエル書などの預言書では、「ぶどう園」とは神が実りある結果を期待して、時間・労働・配慮・忍耐を大いに注ぐ事業の象徴として語られる。そのぶどう園の実りを得るために遣わされた使者らを、小作人たちは受け入れず、最後に遣わされた跡取り息子をも殺してしまう。小作人たちの視点に立つならば、ぶどう園の実りは自分たちの働きの結果であり、他の誰にも渡してはならないものであった。しかし、その結果彼らが得たものは、自らの滅びであったという、ショッキングな結末をもってこの譬えは締めくくられる。この譬えが、預言者たちと主イエスを拒絶する、エルサレムの宗教的権威らを指していることは、既に物語の中で指摘されている。実際に、自分たちの聖域に対して、きわめて忠実であった熱心党らのローマに対する抵抗運動は、70年のエルサレムの街と神殿の崩壊という結果を招くこととなったことを歴史は示している。「自分の」ぶどう園を守ろうとした小作人たちと同様に、自らの聖域を守ろうとした宗教的権威たちは、守ろうとしたものそのものを失うこととなったのである。
 旧約からの引用は、2つのイメージをもって私たちに迫ってくる。一つは不要な石が、実は中心となるべき石となった、という逆転の構図である。そこでは、完成し、建て上げられる神の業がイメージされている。一方ではあらゆるものを「打ち砕く」イメージが語られる。それは、かつて同じ神殿で幼子イエスを見たシメオンが語った「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」という言葉の実現を示すものであった。いずれにしても、「隅の親石」主イエスこそが、神の救いの業において、最終的なものであり、決定的な要素なのである。主イエスの十字架、それは私たちの「聖域」を侵犯する「捨てられた石」である。しかしこの主イエスの十字架を通して、私たちの思いは砕かれ、そして神の救いの業は完成されるのである。

[説教要旨] 2010/3/14 「祝宴を開いて」 ルカ15:11−32 

四旬節第4主日

初めの日課 イザヤ 12:1−6 【旧約・ 1079頁】
第二の日課 1コリント 5:1−8 【新約・ 304頁】
福音の日課 ルカ 15:11−32 【新約・139頁】

 本日の物語には、二人の息子とその父親が登場する。二人の息子のうち、次男はまだ父親が健在なうちに、自分が受けるべき財産の分け前を要求する。それは父親を既に死んだ者と見なす行為でありまた、自分の父の死を望んでいると公に言うようなものであった。ところがそのような無礼な要求に対して、父親はなぜか何も言わずにそれを受け入れる。
 財産の分け前をもらった息子は、それをすべて金に換えて、遠い国へ出て行く。それは、距離的に離れるということだけでなく、共同体から距離をおく、あるいはそこで受け継がれてきた伝統や歴史を拒絶する、ということを象徴的に示している。そしてこの息子は、持てる財産によって、友人を得、自分の価値を誇示することが出来た。しかしその財産を使い果たしたとき、彼には何も残ることはなかった。その時に彼にまだ残っているのは、ただ、父の息子だという事実だけであった。全てを失った時も、その事実だけは失いようがなかったのである。彼はその時初めて「ある」と言うことだけで与えられている、命の意味に気付かされたのである。そして、父親にとっては、息子が父に対して過ちを悔いることも、赦しを請うことよりも、あの父の息子で「ある」事のみにしがみつくだけで十分であった。姿を見つけただけで走り寄って息子の首を抱く父親は息子に何も求めはしない。
 一方、仕事を終えて帰ってきた兄息子は祝宴の様子を耳にして不審に思い、そしてたずねた僕の答えが彼に怒りを抱かせる。父が弟をずっと待っていたこと、弟が無事に帰ってきたこと、弟の帰還を祝って父が宴会を催したこと。その全てが兄にとっては腹立たしいことであった。喜ぶことが出来ず、家に入ろうともしない兄息子に、父親はわざわざ家から出てきて「一緒に喜んで欲しい」と語りかける。しかし兄は許すことができなかった。「一度も」背かなかった自分に対して父は「一度も」山羊一匹くれなかった。それなのに「あなたのこの息子」のためには子牛を屠るのか。そのように訴える兄息子もまた、弟息子と同様にただ父の息子で「ある」ことだけで意味がある、そこに喜びがある世界に生きてはいない。兄息子にとっては、努力すること、枠をはみ出さないことが正しく、評価されることであり、それ以外の生き方は認められない。それ故に枠をはみ出した、はみ出さざるを得なかった弟に対して、兄はそこに共に生きる価値を認めないのである。
 その意味で兄もまた、弟と同じように、父親に対しては失われた息子なのです。弟と同じように、兄もまた父親に対しては失われた息子なのである。この兄に対する父の「私はいつもお前と共にいる、私の者は全てお前のものだ」という言葉でたとえ話は結ばれ、その結末がどうなったかは読者に投げかけられている。
 主イエスはこのたとえを、ご自身が徴税人や罪人と食事をすることを非難する者たちに対して語られた。誰かが主イエスとの祝宴に共にあることができるかどうは、その人の正しさや行動によって決定されるのではない。主イエスの十字架と復活によって、天の祝宴はいつでも私たちのために開かれたものとなった。私たちが立ち返るべきこと、それはただそこに共に「ある」ことだけで十分であることに気付き、喜ぶことなのである。

[説教要旨] 2010/3/7 「実りの時を待つ」 ルカ13:1−9

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト 3:1−15 【旧約・ 96頁】
第二の日課 1コリント 10:1−13 【新約・ 311頁】
福音の日課 ルカ 13:1−9 【新約・134頁】

 本日の福音書の前半では、犠牲祭儀の際にガリラヤ人の血が混じったという事件について主イエスが尋ねられている。歴史上それがどのような出来事であったのかは、定かではないが、おそらくエルサレムの神殿にガリラヤからやってきた巡礼が、ローマ人総督ポンテオ・ピラトの手のものによって殺された(あるいは少なくとも血が飛び散るほど深く傷つけられた)ということであったと考えられる。ガリラヤは、主イエスとその弟子たちの故郷であり、また熱心党と呼ばれる民族主義運動の盛んな地域でもあった。血気盛んな民族主義者の仲間を、その運動の精神的支柱である聖なる場所で傷つけ、血を流して汚すということは、おそらくローマ側からの挑発行為であったのではないかとも考えられる。主イエスの弟子にも熱心党と呼ばれたシモンがいた(6:15)。その意味で、ガリラヤ人の血が神殿で流されたという出来事は、主イエスとその一行にとって他人事ではなかった。そこでは、主イエスを自分たちの陣営に引き込もうとする民族主義者であれ、あるいは、主イエスがそうした運動に加担したといって陥れようとしている敵対者であれ、周囲の者が期待したのは、そのような蛮行に対して、己の信ずる正義を掲げることであった。周囲の人々は、主イエスが掲げた正義をそれぞれの思惑で利用しようと待ち構えていた。しかしそれに対して主イエスが応えたのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅ぶ」という言葉であった。
 主イエスが求める「悔い改める」ということ、それは、私たちが「正しく」あろうとする努力、あるいは私たちが自らの正義を掲げる努力なのではない。それらを求めた結果は、エルサレムの都と神殿の崩壊であったことを、歴史は私たちに伝えている。その一方で、主イエスは己の正義を貫くことなく十字架において殺されるも、しかしその死から蘇られた。その主イエスの語られる「悔い改め」とは一体どのようなことなのであろうか。
 後半のたとえ話では、いちぢくの木が実をつけないために、主人はその木を切り倒そうとする。しかし園丁は主人に、今少し実りの時をまってくれるように懇願する。木が実る見込みがあったから、切り倒されないことが認められるのではない。ただこの園丁の執り成しによってのみ、滅びから救い出され、実りの時を待つことが実現するのである。私たちを滅びへの道から救い出しうる事柄、それはただこの執り成し手である主イエスが共におられるということしかない。私たちにはただ、主イエスだけが残されているのである。主イエスの語る「悔い改める」ということ、それはまさに、ただ十字架の主イエス以外に頼るべきものが何も残されていないような、そのような有り方なのである。主イエスが私たちと共におられることによって、実りの時は待たれている。