2014年2月26日水曜日

[説教要旨]2014/02/23「愛すること、祈ること」マタイ5:38−48

顕現後第7主日

初めの日課 レビ記 19:1−2、9−18 【旧約・ 191頁】
第二の日課 1コリント 3:10−11、16−23 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:38−48 【新約・ 8頁】

 本日の福音書は引き続きマタイ5-7章「山上の説教」の一部が取り上げられ、先週と今週の日課では「反対命題」と呼ばれる一連の「しかし、わたしは言っておく」に続く教えが語られる。主イエスの教えでありながら、この箇所を読む私たちは大きな戸惑いを隠すことが出来ない。というのも「しかし、わたしは言っておく」に続く教えは、私達の考える合理性と常識を無視したものばかりだからである。特に本日の、敵を愛せよという教えは、大変良く知られていながら、そのことを実践することの困難さもまた知られている箇所である。これらの教えを全て私たち人間が守らなければならないとするならば、それは特殊な限られた環境の中にあるものか、あるいは終末が切迫した限られた時間の中でのみ、守ることが出来るとしか言いようがない。しかしそのいずれの場合も、主イエスの言葉は私たちが生きている状況から遠く離れてしまう。ならば私たちはどのようにして、主イエスの言葉と歩んでゆけばよいのだろうか。
 主イエスはこれらの「しかし」を通して、私たちに本当の意味での「完成」とは何かということを示される。それは「新たな、そして永遠の命の内に生きる」ということに他ならない。復讐せず、敵を愛せよという命令は、私たちの合理的な判断を大きく超え出たものである。けれどもそれは、主イエスが私たちに示される新しい命における生き方なのである。主イエスは合理的なあり方を踏み出て、襲い来る「敵」に与え、愛し、祈ることを命じられる。それは、私達が「敵」であると思い込んでいた相手が、同じ弱い人間に過ぎないことを思い起こさせ、むしろ敵の姿を創り出していたのは自分自身であることに気付かせる。主イエスの「しかし」という言葉は、自らを絶対化し、他者を断罪する私たちの価値基準に対して発せられている。
 主イエスは語る。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)。完全なものになるということは、決して欠けや漏れのない、完全無欠な存在になることではない。私たち人間は、常に未完成の部分、欠けや漏れを抱えたまま生きざるを得ない存在でしかない。しかしそのような私たちに、主イエスはその十字架によって、神の愛を示された。十字架とは、神の前では不十分なものでしかありえない私たちの苦しみを共に担うために、その命を分かち合って下さったということに他ならない。自らの命を、何の代償もなく十字架において私たちのために投げ出され、しかしその死で終わることのない、主イエスの言葉と歩みによって、神の愛と憐れみに満ちた新しい世界への道筋が私達に開かれたのである。
 私達自身はたしかに、不完全でありながら自らの正しさによって人を裁き、敵を作り上げてしまう存在でしかない。しかし、十字架において命を分かち合われた主イエスの言葉は、私達の現実を揺るがし、そして私達に、与え、愛し、祈ることを可能とさせる。たとえ私たち自身が、主イエスの言葉から遠く離れ、その命じられることを十分に果たす力を持ち得なかったとしても、逆に主イエスの言葉の方が、私たちのもとへと近づき、私たちを力づけ、互いに愛し、祈り合う者へと変えて行くのである。

2014年2月22日土曜日

[説教要旨]2014/02/16「 しかし、わたしは言っておく 」マタイ 5:21-37

顕現後第6主日
初めの日課 申命記 30:15-20 【旧約・ 329頁】
第二の日課 1コリント 3:1-9 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:21-37 【新約・ 7頁】

本日の福音書は、先週から続いて、「山上の説教」と呼ばれているマタイ5-7章の一部が取り上げられている。本日の日課の一つ前の段落では、主イエスは「律法と預言を完成するために来た」と語られる。本来、モーセが神と結んだ契約とは、律法を通して、神はいつも人と共にいる、ということであった。しかし、長い年月の間に生活形態が大きく変化し、古い文言によって規定された伝統的な生活をおくることは困難になってゆく。結果として人々は、「律法を守れる者」と「守れない者」とに分断されることとなった。主イエスの時代、律法を守ることのできる「正しい人」とは、伝統的な生活を維持することが可能な者たちに限られることとなった。決められた律法を守ることのできる者は自らを人間として価値高いものとみなし、守ることのできない者を価値が低いものとして切り捨てることとなった。
しかし、本日の日課で主イエスが語られることは、人間が自分で勝手に正しいと思いこんでいる正義、人の正義を否定する。そこでは何度も「(あなたがたも聞いているとおり、)?と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という主イエスの言葉が繰り返される。この主イエスの「しかし」という言葉は、私たち自身が創り上げてしまっている人を裁いてしまう私たちの思いこみに対して発せられている。山上の説教はその冒頭で「幸いである」という祝福の言葉から始まる。これらの祝福は、私たちが懸命に努力するから達成出来ることというよりも、私たちの外から、救い主キリストが語られるからこそ、それは私達の生きるこの現実の世界に力をもたらすものとなる。
本来、律法は、神が恐れと不安の中にある人間に常に愛を注いで、守り導いていることの証しであり、神がその愛によって、人を生かすためのものであった。しかし、それがいつのまにか、愛の要素が抜け落ち、自らの恐れと不安を打ち消すために、他者を裁き、分かち、自らの正しさを言いつのるためのものへと変わってしまっていた。その結果、むしろ人は、神の愛から離れてしまっていた。主イエスは、まさにその神の愛へともう一度人間を引き戻すために、この世界へとやって来られたのでした。まさにその意味で、主イエスは「律法の完成者」、律法の本来の姿を取り戻す方に他ならない。人を裁き、攻撃し貶めることしかできなくなった律法を、主イエスは根本から作り替える。それは、律法に名を借りた、恐れと不安から人を解放し、神の愛による支配をうち立てることであった。
何よりも主イエスは、その十字架によって、神の愛を私たちに示された。それは主イエスが、私たちが負うべき苦しみを共に担って下さったということに他ならない。この主イエスの、自分自身を空しく無に等しいものとしてまで、他者と共に歩むという姿こそが神の正しさなのである。それは、対立ではなく和解を、憎しみではなく分かち合いを生み出すため、己を空しくしていくことでもある。確かにそれは、この世の価値基準からみるならば、愚かで無意味なことと見えるかもしれない。しかし、それは決して古びることもなく、色あせることも、時代遅れになることもない、永遠の価値を持つものなのである。

[説教要旨]2014/02/09「あなたがたの光を」マタイ5:13―17

顕現後第5主日
初めの日課 イザヤ 58:1-9a 【旧約・ 1156頁】
第二の日課 1コリント 2:1-12 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:13-20 【新約・ 6頁】

本日の福音書は、5章から7章まで続く「山上の説教」の一部となっている。それは主イエスを中心にして弟子たちが集い、そしてさらにその背後に大勢の群衆がいることが考えられている。その意味で、ここで語られる言葉は、主イエスに従う者全体に対して向けられていると言える。本日の箇所では、これらの弟子達そして人々に主イエスは「地の塩」「世の光」になれ、とは命じてはいない。そうではなくあなたがたは地の塩「である」、世の光「である」と、現にそうであるものとして語られている。主イエスを信じ従う者になるために、この世で立派で正しい行いをしなければならない、ということではない。そうではなく、主イエスを信じ、その福音を受けて生きるということそのものが既に、「地の塩」「世の光」であることの核心部分なのである。
主イエスは、闇の中で苦しむ人々の真の光であることが、4章の終わり、主イエスの宣教の開始の場面で語られた。それはまさに「曙のように」差し込んでくる光である。そして今や、私たちのところにその光は届き、私たちはその光を受けているがゆえに「あなたがたは世の光である」と主イエスは語られるのである。この主イエスの恵みの光は、人間の不安や怖れによって覆い隠すことは出来ない。主イエスから与えられる恵みと喜びを、私が自分だけが豊かにそして強くなるために、自分だけの中に確保し、消費することもまた出来ない。たとえ、そこで私たちがなし得ることが、ごく僅かなものであったとしても、人の目には不十分なものにしか映らなかったとしても、この恵みは隠されることなく、必ず輝くのである。
本日の初めの日課であるイザヤ書58章は、ユダヤの民が半世紀あまりにわたる、異国の地バビロンでの捕囚から解放され、故郷にもどった後の時代の言葉であるとされている。戻ることはできた故郷は荒廃しきっており、再建した神殿も過去の栄光ほど遠いものでしかなかった。約束されていたはずの栄光はさっぱり見えず、それどころか常に飢饉を恐れながら生きなければならず、人々は失望の内に自分の欲望・願望を我先に見たそうとした。そのような時代の中で語られた神の言葉は、囚われた者を解放し、困窮のうちにある者と分かち合う時こそ、光は輝くのだ、ということであった。先の見えない、恐れと不安の中で語られた神の言葉はまるで、マタイ25章で主イエスが譬えの中で語られた言葉『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』を思い起こさせるものであった。イザヤ書が告げた光はまさに主イエスにおいて、この世界へと差し込んできたのである。恐れと不安から自らが満たされ、強くなることだけを求め、弱い者を虐げ、奪い取り傷つけ合う、そのような世を、主イエスの「光」は変えてゆく。
主イエスは十字架という絶望と苦しみの中に、新しい命を示された。それは、私たち人間の目からみるならば、とてもそこに利益を、発展を、未来を見出すことが出来ないようなそのただ中に、神が新しい命への道を備えられた、その恵みと希望を私たちに伝える。主イエスの恵みの光こそが、闇に覆われたこの世界の有り様を、また私たち自身を変えてゆく神の力なのである。

2014年2月8日土曜日

[説教要旨]2014/02/02「主の恵みを伝え合う 」使徒20:32-38

顕現後第4主日・定期教会総会

初めの日課 ミカ 6:1-8 【旧約・ 1455頁】
第二の日課 1コリント 1:18-31 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・ 6頁】

定期教会総会にあたり2014年度の三鷹教会の主題聖句として使徒言行録20:32を選んだ。本日はこの箇所からみことばを聞いてゆきたい。使徒言行録20章は、使徒言行録の中でのパウロの三回目の宣教旅行の終わりの部分にあたる。この後パウロはエルサレムへと向かい、そこで逮捕・投獄され、やがてローマへと連行されることとなる。20章の冒頭でパウロは、弟子達を集めて励ました後、マケドニアへ出発し、かの地の弟子達を「言葉を尽くして人々を励ました」とある。教会の信徒達に対して、言葉を尽くして励ますことは、使徒言行録におけるパウロの主要な働きであった。そして、パウロはこの後に自らを待ち構えている運命を予感しつつ、ミレトスにエフェソの教会の長老達を呼び寄せて別れの言葉を残す。しかしその内容は、エフェソの教会にだけ向けられたものというより、むしろそれまでのパウロの宣教活動全体を振り返ったものとなっている。つまりこのメッセージはむしろ、パウロの遺訓の形をとって、今この使徒言行録の物語の読者に向けて、その信仰の交わりが励まされ力づけられるために、パウロのメッセージの全体を再確認するものであった。かつてパウロが語った、キリスト者の交わりを励まし力づけるメッセージは、今日そして今、私たちにとってもまた意味あるものであることを、この箇所は確認する。
そのメッセージを締めくくるにあたって、この世において教会を様々な苦難が襲うことが語られる。それは、教会の外からの迫害、また教会の内部での分裂を予想させるものであった。しかしたとえそうであっても、パウロにとって「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」(24節)を教会の交わりにおいて分かち合うことは、これからぶつかる苦難に対抗する大きな力であった。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)と彼は語る。「神とその恵みの言葉」とは「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」と同じことを意味している。つまり、たとえ様々な不安と困難が私たちの教会を取り巻いていたとしても、私たちは既に「神の恵みの福音」の内にゆだねられているのである。さらに教会が今や、神の恵みの福音にゆだねられているということは、今この地上において私たちを「造り上げる」と共に、私たちに「恵みを受け継がせることができる」のだと、パウロは語る。今や主の恵みの福音を分かち合い、励まし、力づけることは、パウロだけではなく、このメッセージを聞く全ての教会に託され、引き継がれている。実に、教会に集う一人一人が、互いに主の恵みの福音を伝えあう時、私たちを取り巻くさまざまな不安と困難に立ち向かう力をもまた、分かち合い、伝えあうことが出来るのである。
そしてさらにパウロは教会の使命として、「弱い者を助けるように」そして「受けるよりは与える方が幸いである」と語る。不安と不満が立ち込める今の時代、力を誇り、奪い取り、支配することが賞賛されつつある。しかし、そのような時代の中で、弱さの中に与えられる神の恵みを告け?合い、分かち合うことこそが、教会の使命に他ならない。この2014年、私たちが、主の恵みを伝えあう交わりとなる道を歩むことが出来るよう祈り求めてゆきたい。

[説教要旨]2014/01/26「光が射し込んだ」マタイ 4:12-23

顕現後第3主日

初めの日課 イザヤ 8:23-9:3 【旧約・ 1073頁】
第二の日課 1コリント 1:10-18 【新約・ 299頁】
福音の日課 マタイ 4:12-23 【新約・ 5頁】

本日の福音書は、前半では主イエスの公の活動が開始されたことが報告され、そして後半ではその公の活動の始まりとして、漁師たちを弟子にする様子が報告されている。主イエスの公の活動が始まるのは、洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞いて、「ガリラヤに退かれた」ことがきっかけとなる。
ガリラヤという土地はイスラエル北部の周縁地域であったために、古来より何度も北方の大国の支配下におかれてきた。このために移民が繰り返され、都の者達から蔑まれることも少なくなかった。一方で肥沃な農地であったために、都市の富裕層による大土地所有が進み、土地を失った農民の多くが奴隷へと身を落とし、社会格差は拡大した。いわばそこは、この世界の闇と陰が色濃い場所であった。しかしあらゆる時代の国と地域において、まさにこのガリラヤのような場所が存在することをまた私たちは思い起こす。それは現代の私たちが生きている場でもあると言える。そして、そのような場所に主イエスが「退かれた」のは、救いの物語を進めるために他ならなかった。そのことを、福音書記者マタイはイザヤ書からの引用「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」によって印象づける。しかし実はイザヤ書では「光が輝いた」となっている箇所が、マタイでは「光が射し込んだ」とされている。夜明けの瞬間に、闇の彼方から光が自分たちの元へと射し込み近づいてくる、そのようなダイナミックな表現をもって福音書は主イエスを描き出す。
主イエスの宣教活動の第一声「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、マタイによる福音書では、既に洗礼者ヨハネが3:2で語っていた言葉であった。それはヨハネが始めたことを主イエスは引き受けられたことを物語る。そのことは、やがてヨハネが捕らえられ、処刑されたように、主イエスもまた捕らえられ、十字架において処刑されることを暗示させる。けれども、その十字架において、主イエスは救いと永遠の命を与えられたこと、それこそがまさに良き知らせすなわち福音であること、救いの出来事は展開してゆくことを福音書は物語る。マタイ福音書は、主イエス自身がガリラヤへと退くことを「光が射し込んだ」と語る。つまり主イエスが闇と影の地へと退かれたことによって、光は私たちのところへと射し込み、天の国が私たちに近づいたのである。だから闇と陰に覆われた場所にしか生きることの出来ない私たちは、そこに差し込む光、主イエスに自らの存在を委ねることが出来るのである。
暗闇の地に射し込んだ光、主イエスは、その最初の宣教活動として、湖のほとりに生きる漁師たちを弟子へと召し出す。ペトロと呼ばれるシモンたちが、主イエスに従うものとなったのは、何よりも主イエスの招きの呼びかけがあったからだった。主イエスご自身が、ペトロたちの生きる、その湖の畔へと歩み寄って呼びかけ、光の中へと召し出されたのである。続いて聖書は、主イエスはガリラヤ中を回り、教え、良き知らせを述べ伝え、そして人びとを癒されたことを伝える。それはまさに、私たちが生きる地に、主イエスの光が射し込んで来ることを物語る。
その光の中へと招く主イエスの言葉を、私たちは今も聖書を通して私たちは受けとっているのである。