2015年4月28日火曜日

4/29,5/6は聖書の学びはお休みいたします[04/29-05/06]

2015/4/29(水)および5/6(水)は、「聖書の学び」(ローマ書の学び)はお休みとなります。
次回は5/13(水)となります。

2015年4月22日水曜日

2015年ルーテル三鷹教会バザーのご案内[05/17]

今年もルーテル三鷹教会では教会バザーを開催いたします。

2015年5月17日(日)12:00~14:00
ルーテル学院大学 学生食堂にて

収益の一部は、福祉関連団体等に寄付させていただきます。
日本福音ルーテル三鷹教会 牧師 李明生(り あきお)・バザー委員会一同

[説教要旨]2015/04/12「信じない者ではなく」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課    使徒言行録 4:32-35
第二の日課    ヨハネの手紙一 1:1-2:2
福音の日課    ヨハネによる福音書 20:19-31

先週、私達は主の復活を祝った。そして本日の福音書では、いわばヨハネ福音書における聖霊降臨の出来事が、家の中に集まっていた弟子たちの復活の主イエスと出会いの中で語られている。主イエスの十字架での死によって、弟子達は失意と恐れの中に突き落とされていた。彼らは自分達もまた主イエスと同様に逮捕されることを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。ヨハネ福音書の物語の筋に従えば、彼らは既に、墓は空であった知らせを聞いていた。しかし、どこまでも従うという約束を裏切ってしまった彼らは、主イエスと再び出会うことをむしろ恐れていたのかもしれない。さらに彼らは、仲間と共に部屋の中で隠れている時も、裏切りと密告を疑い、互いを信頼出来なくなっていたのではないか。彼らの心の扉は固く閉ざされ、共に歩んできた仲間からの「主イエスの墓は空であった」という知らせを喜びの報告として受け入れるなど出来なかった。
その彼らの真ん中に主イエスは突然立ち現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは、恐れと不安との中で心を閉ざす弟子達に対する赦しと和解の言葉であった。そしてその手と脇腹の傷は、まさしく十字架に架けられた方がここにおられるということを示すものであった。十字架の主が共におられるということは、変わるはずのない彼らの閉塞した現実を変える、新しい命が造り出され、与えられることを示す出来事であった。主イエスは、弟子達に息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られる。創世記で神は土に息を吹き込み、命ある生きる者とされた。弟子達もまた、復活の主イエスに出会い、息を吹きかけられる。それは、彼らが新たに創造された命を与えられたことを意味していた。人々を恐れ、部屋に、また自分の心に閉じこもっていた弟子達は、「聖霊」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるものへと変えられたのだった。
最初の出来事の際に居合わせなかったトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と主張する。その言葉は、今の自分の状況が変わることなどありえないのだと訴えているようにも響く。ところが8日目の日、そのトマスの前に主が現れ、語りかけられる。主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。「見た」かどうかよりもむしろ、主の言葉を「聞く」ことが、私たちのうちに「信仰」と「信頼」を生み出すものであることを、私たちは知る。
復活の主イエスが弟子たちと共におられたのは、いずれもが週の初めの日、つまり日曜日であった。この週の初めの日が、教会において「主の日」としての礼拝の日となってゆく。その意味で本日の日課は、私たちが礼拝のために集められる時、その真中には主イエスが立ち、「平和」を与えられ、神の息をもって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけられていることを伝えている。
主の復活を祝うこの季節がめぐってくる時、私たちは、復活の命は十字架の死を乗り越える力であることに、常に立ち返ります。そしてこの復活祭に続く季節、主イエスの十字架と復活の命を受け取った私たちは、自分たちもまた新しい命を与えられていることに、今一度立ち返るのである。

2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/04/05「あの方はここにはおられない」マルコ16:1-8

主の復活

初めの日課 イザヤ書 25:6-9
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 15:1-11
福音の日課 マルコによる福音書 16:1―8

主イエスの復活の喜びを分かち合うために今日ここに集っている。本日の福音書であるマルコ福音書では、他の福音書に比して極めて短い、やや乱暴とも言えるような復活の出来事が報告されている。そこではただ、「墓は空であった」ということが告げられる。単純でありながら、この物語は非常に重大な矛盾を含んでいる。なぜならば、空の墓を発見した女性たちは「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という報告をもって、福音書は結ばれているからである。もし彼女達が本当に誰にも何も言わなかったのだとすれば、この福音書は書かれるはずがないことになる。したがって、結果としては、この出来事は彼女たちだけの秘密には留まらず、多くの者によって共有されたことが、大前提となっているのである。そのことはつまり、「キリストは共におられる」という体験をした者達がいたことを意味している。自分達に先立ち、導き、自分達を閉じられた部屋から押しだしてゆかれるキリストが自分達と共におられる、という経験があったがゆえに、女性たちが恐ろしさゆえに黙っていたとしても、それを彼女達は自分達の秘密に止めておくことはできなかったのである。
女性たちは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目にかかれる。」という言葉を聞く。「先にガリラヤへ行かれる。」というのは、時間的に早くという意味で訳されているが、実際には、「先だち導いて」という空間的な意味でも解釈できる。そう受け取るならば、「かねて言われていた通り、あの方は、あなたがたを先立ち導いてガリラヤへ行かれる。」という意味に受け取ることも出来る。
最初の教会は都エルサレムで始まったとされているが、マルコ福音書は、敢えてガリラヤへ向かうことを伝えている。ガリラヤとは、都によって収奪される土地、貧しく弱い者達が、あえぎながら生きなければならない地であった。そしてそここそが主イエスの地上において神の国の到来を宣べ伝え、癒し、与え、祈った地であった。その意味でガリラヤへ向かうということは、神の国の福音の宣教へと向かうことそのものに他ならなかった。そして弟子達は、かつて主イエスがなされたと同じように、自分達が神の国の福音を伝え、苦しむものと共に苦しみ、喜ぶものと共に喜び、分かち合い、支え合う時、そこに主イエス・キリストが共におられる、という決定的な体験をすることとなったのであった。墓は空であり、「あの方はここにはおられない」という喪失の体験を超えて、あの方は「わたしたちを先立ち導いてガラヤへ行かれる」という体験が自分のうちに起こった時、その二つの体験を結びつけるものが「復活」という出来事であることを、彼らは見出したのだった。
主の復活の出来事はこの後、教会を形作る。その教会は、この地上のさまざまな帝国が栄え滅び去る間も姿を変えつつ今、私たちのもとへと続いている。それはまさに、ここにはおられないはずの主が、私たちと共におられ、私たちを先立ち導き、ガリラヤへと押し出して続けているからなのである。
何も無いところから出発する時に、私たちは、十字架の死から甦られたキリストが、私たちと共にいつもおられることを知る。イースターの喜びとは、私たちを先立ち導かれるキリストが、何もないところか出発する私たちと共におられるという喜びに他ならない。

[説教要旨]2015/03/29「本当に、この人は」マルコ15:1-47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a
第二の日課 フィリピ 2:5-11
福音の日課 マルコ 15:1―47

今週私たちは受難週を迎える。本日は礼拝の始めに枝の典礼として11章のエルサレム入城の箇所を読んだ。主イエスのエルサレム入城は歓呼をもって迎えられるが、それは人々が待ち望んでいた新しい王メシヤの姿を指し示している。しかしその真の姿は、人々の目にはまだ隠されている。主イエスが真の救い主であることが明らかになるのは、エルサレムでの十字架の出来事を通してであった。
本日の礼拝では枝の典礼に引き続いて、15章全体を読み、主イエスの受難と死の出来事を憶える。この物語では主イエスの称号が様々に言い表されている。判決を下す権威を持つローマ総督ピラトが尋問する時、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれる。ピラトが群衆に対して、主イエスの釈放について問いかける際も、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれているが、問いかけられた人々は、その「王」を拒否し続ける。その後、兵士達に引き渡され、暴力に蹂躙される間も主イエスは「王」と呼ばれ続ける。そして何よりも、十字架につけられるその罪状書きはまさに「ユダヤ人の王」というものであった。ピラトやローマ兵から見るならば、ユダヤはローマ帝国の属州に過ぎず、自分達こそが支配者であり、したがって自分達以外には真の意味での支配者=王など存在しない。ましてや、本来であれば「王」は政治権力を持つ存在であるはずなのに、彼らの前に立たされた男は、弟子達にすら見捨てられた哀れな力無き存在でしかない。受難物語の中で、「王」という称号と、主イエスのその外見は益々乖離していくばかりである。政治的・軍事的な力を持つ者達に加えて、さらにユダヤの宗教的権威者達もまた十字架につけられた主イエスを「メシア、イスラエルの王」と言ってあざ笑う。権威を持つ者達にとって、十字架の上から降りることの出来ない無力な存在など、神の遣わされたメシアとして認めることことは出来なかった。
一方の主イエスは、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた後は、十字架の上で叫ばれるまで沈黙を通され、その苦しみに身を晒し続けられる。それこそ、主イエスが著そうとされる王・メシヤの姿であった。主イエスが王であるのは、人々が期待し思い描いたような姿で力を発揮するからなのではなかった。むしろそれは、イザヤ書が描く「苦難の僕」の姿に他ならなかった。
15章の終わりで主イエスが大声をあげて息を引き取られると、神殿の最も聖なる場所を人の目から覆っていた垂れ幕が引き裂かれる。それは隠されていた最も聖なるものがその姿を人々の目に現したことを意味した。その出来事と共に、十字架の傍らに立っていた百人隊長はは、「本当に、この人は神の子だった」と語る。それがはたして、信仰告白だったのか、それとも嘲笑の言葉だったのか、それはこの言葉を受け取る人によって変わるであろう。それはピラトの言葉に「それはあなたが言っていることです」と主イエスが応えられたのと同じである。しかし、私たちは今や、最も聖なるものが、私たちの目に明らかとなったことを知っている。私たちにとって、十字架から降りることなく、死の苦しみを受けた方こそが、真の救い主メシヤ、真の平和の王キリストであることを知っているからである。本日から始まる聖週間を、主の受難を、そしてまたやがて来る復活の時を憶えて歩みたい。

[説教要旨]2015/03/22「一粒の麦が地に落ちて」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34
第二の日課 ヘブライ人への手紙 5:5-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 12:20-33

本日の物語は、過ぎ越の祭りの時に合わせて主イエスが都エルサレムに上り、都に迎え入れられた直後の出来事として語られている。さまざまな奇跡をなしたこのイエスという男を、ギリシア人達もが関心を持ち「イエスを見たい」と思う。その期待に対して主イエスが語ったのは「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉であった。しかし「栄光を受ける時が来た」という言葉に続いて主イエスが語るのは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」であった。「栄光の時」というならば、人々の期待通りの道筋を通り、その期待を着実に実現し、強く大きくなっていく、そのような「時」を思い描いていたことだろう。しかし、主イエスが語られる「時」は、人々が期待する「栄光の時」とはおよそかけ離れた「地に落ちて死ぬ」ということであった。
続いて主イエスは語られる。「だが死ねば多くの実を結ぶ」。失うことによってこそ、多くの実が結ばれる。その様な時がまさに今やってくる、そのように主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということ。それは、農村文化の中では、一粒の麦がそのもともとの形を失ってしまうということを意味していた。たしかに、麦は土に落ちて、もとの形を失うこととなる。しかし、季節が巡ると形を失った麦は成長し、実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば、損失であり、価値無きことである。しかしそうであるからこそ、豊かな実りをもたらす時が来るということを、主イエスは語られる。
そしてまさにその「時」が、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやってくることとなる。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが、十字架へとかかるその時が来たことを主イエスは語る。それは、私たち人間が期待し、考えるような「栄光の時」ではなく、むしろ失うことを受け入れる時であった。失われることが、多くの実を結ぶこととなる。それは、私たち人間が思い描くような、過ぎゆく時の内には起こりえないことである。しかし、主イエスの出来事は、私たちの思いを超えたところで、新しい命を創り出す時となった。そして、新しい命出来事は、決して過ぎゆくことのない時として、今も、私たちのところにおいて起こる、そのような時なのである。たしかに、主イエスの十字架とは、人の目から見るならば、期待外れでありお粗末な結果でしかない。それはやがて、人々の記憶の彼方へと追いやられ、忘れ去られてしまうような出来事であるようにしか見えないであろう。けれども、その十字架の出来事は、まさに、私たちの思いを遥かに超え、時代をこえ、場所をこえ、全ての人の一人一人のその人生へと働きかけることの出来るような、そのような時となったのである。
私たちも今、主イエスの十字架を憶えて、復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの思いを遥かに超えて、希望の光に満ちた「時」が私たちのもとにやってくる。その光は、私たちを取り囲む闇を打ち負かされ、私たちに真の命の実りをもたらされる。

[説教要旨]2015/03/15「神は世を愛された」ヨハネ3:14-21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4-9
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:1-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 3:14-21

人間の欲望の根本にあるもの、それは「死を遠ざける欲求」である。私たちは自分たちの領域から死を締め出そうと努力する。ところが、少しでも死から遠ざかろうとすることは、他人を利用し、また蹴落としていかなければならない。その結果、人間同士の間に避けることのできない争いを生み、やがて私たちは神さえも、他者の命を支配するための手段・道具としてしまうことになる。自分だけの命が豊かになろうとする時、自分だけが正しくあろうとする時、私たちの間には、争いと神への裏切りが生まれる。そうした意味では、人間が自分自身の力で自分自身を正しいものにしようとすること、命を強めようとすることの中に、人間の深い罪が潜んでいると言える。ですから、より豊かに、より正しく生きようと求める神に対する重大な背信となり、自分自身を滅びと死に至る道へと追いやってしまうのである。
本日の福音書では、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」とある。「信じない者」にとって、終わりと限界のある人間の生は、呪われたものでしかない。それゆえに「信じない者」は、他者の命と、さらには神までも利用しようとしてしまう。しかし他者の命の否定の行き着く先は自らの命の否定でしかない。一方、「信じる者は裁かれない」と聖書が語る時、「信じる者」にとっては、他人を死に追いやってまで自分自身を生かすことはもはや無意味なものである。なぜならば、私たちがキリスト・イエスと共に生きるということは、命とは捨ててこそ与えられるものであるということを確信して生きるということに他ならないからである。それゆえに「信じる者」にとっては、限界のある自分の生はもはや、忌まわしい、呪われたものではなく、感謝と喜びに溢れたものなのである。
3:17には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とある。永遠・全能の神は、命の限界のある一人の人、主イエス・キリストとなった。主イエスは、人としての生の限界に向かってひたすら生き、そして死を超えて再び新しく生きた。主イエスは、徹底して弱さの中に生き、その結果、十字架につけられたが、その十字架は決して全ての終わりではなく、新しい命の始まりであった。神は、世を愛されたがゆえに、一人子主イエスの死と復活を通じて、新しい命の約束を私たちに与えられたのである。
私たちは、自らの限界、不完全さ、弱さといったものを、恥ずべきもの、忌まわしいものとして、捉える。しかし主イエスによって示された、新しい命の約束は、私たちの弱さを通してこそ、より強く示される、と聖書は語る。なぜならば、この世を愛された主なる神は、私たちの弱さを愛されているからである。この私たちの弱さのために、神はそのひとり子を、私たちのために与えられたのだった。主イエスが、この地上における命の限界、弱さの極みである、十字架へと向かうのは、ご自身の十字架の出来事を通して、私たちの弱さを担うためであった。そして、その弱さこそが、主なる神から新しいの命約束に他ならない。まさにその意味で、私たちは自らの弱さ、苦しみ、哀しみに近づくとき、最も主イエスに近づいているのあり、同時に希望と喜びにも最も近づいているのである。

[説教要旨]2015/03/01「十字架の主イエスに従って」マルコ8:31-38

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 17:1-7、15-16
第二の日課 ローマの信徒への手紙 4:13-25
福音の日課 マルコによる福音書 8:31-38

本日の日課は、マルコによる福音書において、最初の、主イエスが、ご自身の受難について弟子達に語られた箇所となっている。そしてその直前には、弟子の筆頭であったペトロが、主イエスを「メシア」と言い表す場面が描かれている。主イエスは弟子達に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、すなわち、イエスに従う者としてあなたはどうこたえるのかが問われている。これに対してペトロは、「あなたはメシアです」と答える。メシアとは「油注がれた者」という意味で、神から特別な任務を与えられた者のことである。「油を注がれた者」すなわち「メシア」は、この世に神の国をうち立て、イスラエルの民を異邦人の支配から解放する「解放者」・「救い主」という意味で用いられることが、主イエスの時代には多くなっていた。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていたその人物であることを、言い表すものであり、それは、地上での新しい支配者として君臨する存在、かつて王国を繁栄させたダビデ王の再来のような存在としてのメシヤが前提としていた。しかしこのペトロの答えに対して主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。神の愛する子である「人の子」、すなわちわたしは、待ち望まれた「メシア」である。しかし、それは権力の中枢へと向かい、暴力や武力、金の力や権力によって、この地上の世界を支配する存在ではないことを、主イエスは語る。この世の王の支配とは、この世のあらゆる力を駆使して、他者から奪い取り、外の世界の荒廃と困窮と引き替えに、自分達の内側を満たし、安定と充足を確保することであった。それに対して、主イエスの福音、すなわち十字架と復活の出来事は、力の高みへと向かうのではなく、低さの極みへと向かい、奪うのではなく、与えることを通して、滅びから命へと向かう道筋を私たちに示されたのだった。
暴力・武力・金の力・権力によって、押さえつけ、奪い取り、栄華を思うがままにする。けれども、聖書が描き出すイスラエルの歴史は、そうした様々な力を手にした者は、やがて必ず全てを失うことを、そしてそれは人の力によってはどうすることもできない真理であることを物語る。それに対して主イエスは、力によって欲望を満足させ、滅びへとかならず突き進むしか無い道ではなく、与え、失うことによって初めて得ることの出来る命の道、救いと和解と解放への道筋を示される。それは十字架の受難へと向かう主イエスの歩まれた道に他ならない。
主イエスはご自身の命を、十字架の死によって、この世の苦難と痛みの中で生きる私たちの新しい命として与えられた。十字架によって私たちに与えられた新しい命とは、奪い合い憎しみ合うことから私たちを解き放つ命なのである。抑圧し、奪う者の後には、傷つけ合い、憎み合う命しか残されていない。しかし十字架に向かう主イエスの後には、救いと和解と解放へと向かう命の道が備えられている。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主イエスの言葉は、救いと和解と解放へ向かう命の道を歩むことを私たちに呼び掛けている。

[説教要旨]2015/02/22「荒れ野の時を超えて」マルコ1:9-15

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 9:8-17
第二の日課 ペトロの手紙一 3:18-22
福音の日課 マルコによる福音書 1:9-15

教会は「灰の水曜日」を迎え、四旬節に入った。私達は復活祭までの日曜を除いた40日間を、主イエスの受難を憶える時として過ごす。この四旬節を過ごす私たちは、自らの信仰の中心、すなわち主イエスの十字架の死と、その死からの復活ににあるものへと思いを向ける。そのことを通して、この地上に生きる私たち自身に与えられた、新しい復活の命を思い起こす時を過ごして行くこととなる。
本日の福音書では、主イエスの洗礼の出来事が再び取り上げられる。そして、この主イエスの洗礼の出来事に続いて、直ちに主イエスは霊によって荒れ野へと導かれ、そこで40日間を過ごされることとなる。そして荒れ野で野獣と過ごし、悪魔の誘惑を斥けられた主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神の国の福音の宣教を始められる。これらは、十字架へと向かう主イエスのその歩みの始まりにおいて、いずれもが欠けても成り立たないものとして描き出される。したがって、荒れ野での40日間もまた、決してただ不毛な時を過ごしたということではなく、神の国の到来が宣べ伝えられ、その言葉が実現するためには、荒れ野での時が無ければならなかったと言える。
そのような視点でこのマルコ福音書の1章を最初から振り返るならば、荒れ野というものが二つの視点で取り上げられていること気付かされる。3-4節では、荒れ野という場所は、洗礼者ヨハネの働きと関係づけられ、いわばそこは神へと立ち帰り、新しい命の始まりを告げる場所、つまり希望の始まる場所として描かれている。荒れ野が希望の始まる場所となるために、主イエスの荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものであった。「神の愛する子」である主イエスが、地上での救いの宣教を始めるにあたって、この40日間の荒れ野を超えてゆかなければならなかったのだということを、聖書は私たちに告げているのです。
現代を生きる私たちもまた、神無き不毛の地としての荒れ野の時を生きていると言える。しかし、その荒野は、主イエスが既に、野獣と共に過ごし、サタンを斥けた場所でもある。そして、試練の時を終え、救いの宣教を開始された主イエスは、その救いの業の完成として十字架へと向かわれた。救い主イエスは、ご自身の十字架へ向かう中で、私達の荒て野を共に歩んで下さっている。そして、その復活によって、死の恐怖と孤独に怯える私たちに、消えること無い希望の光を与えられた。共におられる主イエスによって、私たちの荒れ野もまた、復活の命へと続く時となったのである。
現代の荒れ野で彷徨う私達の叫びと祈りを、神は必ず聞き届けられる。なぜならば、そのためにこそ、荒れ野において既に主イエスは闇の力に打ち勝たれ、その十字架の死と復活によって、私達に救いを与えられたからである。実に、神の国を宣教する働きの全ては、荒れ野において備えられる。荒れ野での孤独と欠乏とを通して、人ははじめて真実の命を見出すことが出来るのである。
この四旬節の間、私達もまた、私達自身への荒れ野へと向かい、主イエスの十字架と復活への道を思いながら、死から命の希望への道を歩んでゆきたい。