2011年12月22日木曜日

[説教要旨]2011/12/18「戸惑いと恵みと」ルカ1:26-38

待降節第4主日

初めの日課 サムエル下 7:1-11,16 【旧約・490頁】
第二の日課 ローマ 16:25-27 【新約・ 298頁】
福音の日課 ルカ 1:26-38 【新約・100頁】

救い主の降誕を憶えるアドベントも、本日で第4主日となった。それはこの2011年がまもなく終わろうとしているということでもある。3/11の大震災以来、ごくあたりまえに続くと思われていた日常が、突然断ち切られる。それは決して空想の世界のことではなく、むしろそれこそが私たちの現実である。そのことを突きつけられた1年であった。そこでは多くの人々が、かつて自分達がこれまで続けてきた生き方、そしてその延長として望んでいた将来を、そのまま期待し続ける事はもはや不可能であるという深い断絶を前にすることになったのです。そうした中で今私たちの多くは、深い当惑と絶望に直面させられている。人間の歴史の中で、この地上に存在する人の集まりであるキリスト教会もまた多くの断絶を体験してきた。しかし、その信仰は絶えることなく、伝えられてきた。いわばそれは、私たち人間が直面する、さまざまな歴史の断絶を超えて、救いの歴史は続いていくということ、神の救いのみ業は私たちの当惑と絶望を超えて働いてゆく。そのことを教会の歴史は伝えている。
本日の福音書の日課は、いわゆる「受胎告知」として、古来より絵画に描かれてきた。そこでは主イエスの誕生を予告されたマリヤは驚きの顔をみせつつ、それを受け入れようとする複雑な表情を示しつつ、一つの象徴的な姿として、右手を挙げ、その告げられた出来事を受諾する姿で描かれている。人の目にはあまりに唐突で、なおかつ不可能としか見えない神の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるその態度は、まさに一人の信仰者としてのひな形を私たちに示している。それはまさに、私たちが神の言葉によって動かされるとき、救いの歴史は実現していくことを、マリヤの物語は私たちに語っている。この世に対して、マリヤの示したもの、それは、この地上において神の力が働くとき、その救いのみ業は人間が直面するあらゆる断絶を乗り越えてゆくことを、決定的に私たちに示している。
今、この社会の中で、さまざまな断絶を突きつけられ、当惑と絶望に直面させられている私たちが、マリヤと同じく「お言葉通り、この身になりますように!」と応えること。それは、私たち自身の力では乗り越える事の出来ない、私たちの目の前に横たわる深い断絶を超えて、神はその救いのみ業を働かれるという、その大きな希望を私たちのその日常の中に満たすことなのである。
それはこのマリヤの受諾を経て、主イエスは人と成られ、神の救いの歴史は決定的な展開を見せることとなった。そしてその主イエスはこの地上において、様々な断絶の中で苦しむ人々を癒し、励まし、そして満たされた。そしてもっとも深い断絶である十字架の死へと向かい、その死からの復活によって、あらゆる断絶を超える神の救いの業を確かなものにされたのであった。
「お言葉どおり、この身になりますように」と語るマリヤを、あらゆる断絶を超える力、十字架の光の下でみる時、人間を取り巻くあらゆる困難と不可能性の向こう側から、私たちに届けられる神の言葉の力を私たちは見いだすことができるのである。

2011年クリスマスのご案内[12/24-25]

日本福音ルーテル三鷹教会
2011年クリスマスのご案内

12/24(土)18:00より
クリスマス・イヴ キャンドルサーヴィス チャペルにて
メッセージ「主が知らせて下さった出来事」 李明生牧師
間垣健二氏(ヴァオリニスト)による演奏

12/25(日)10:30より
クリスマス降誕日礼拝 チャペルにて
メッセージ「命を照らす言葉」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊によるコーラス
※礼拝後、学生食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

ともに主イエス・キリストのご降誕を憶えましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

2011年12月6日火曜日

「やかまし村のクリスマス」のご案内[12/11]

12/11(日)14時より「やかまし村のクリスマス」がチャペルにて行われます。

人形劇・お話を中心にした楽しい会です。ご家族でお誘いあわせて是非ご参加下さい。

特別ゲスト:凸凹工房 森島孝さん(浜松市在住)

手作りの「おはなし組木」で人形劇を上演

『スイミー』『三びきのやぎのがらがらどん』他

[説教要旨]2011/12/04「主の道を整える」マルコ1:1−8

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 40:1−11 【旧約・1123頁】
第二の日課 2ペトロ 3:8−15 【新約・ 439頁】
福音の日課 マルコ 1:1−8 【新約・61頁】

アドベントクランツの2つめのロウソクにも火が灯された。クリスマスの出来事は私たちの元に確実に近づいてきている。クリスマスという出来事とは、神は遠くにいてわたしたちの苦しむのを眺めているのではなく、そこにかかわり、人の喜びも苦しみもすべて味わうために、この地上において人となられたということである。その神の子をわたしが迎える時、私たちが自分の居場所、自分の持ち物、自分の好むもの、自分を満足させるものを手放し、それを誰かのために、普段自分にとっては関わりがないような、自分から離れた遠い存在であると思っているような、そうした人々のために献げ、分かち合う時、そこに救い主を迎える道が、場所が造られてゆくのである。
マルコによる福音書の冒頭には、いわゆるクリスマス物語は収録されていない。代わりに「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という一言が語られた後に、洗礼者ヨハネが神の子救い主の到来を告げる。いわばこの一言によって、クリスマスの意味を凝縮しているのである。救い主がこの世に与えられたという出来事、それはこの世に生きる全ての民に告げられた良い知らせ、すなわち「福音」の始まりなのである。洗礼者ヨハネは、この福音のために「主の道を整える」ことを呼びかける。この呼びかけに応えて「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとにきて、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とマルコ福音書は報告している。ルカ福音書3章では、より厳しい洗礼者ヨハネの活動と言葉が収録されている。「(10)そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(11)ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。」洗礼者ヨハネによる悔い改めの呼びかけ、それは自分を満たすことを断念し、誰かのために分かち合うことの呼びかけであった。
しかし、洗礼者ヨハネはさらに「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語る。洗礼者ヨハネの悔い改め呼びかけは、福音そのものではなかったのである。私たちが自分の行為の成果、その正しさの評価だけを目に留めるならば、それはいずれ、形式化された規則となり、それはまた新たな抑圧を生み出してしまう。だからこそ洗礼者ヨハネは、彼の呼びかけの先には救い主、主イエス・キリストがあるということを語る。私たちが自分自身を断念し、誰かのためにそれを分かち合うということ、それは、人の目に正しく映るためでも、人の基準によってその合否が計られるためでもない。それは、ただ主イエスを迎える、その道を、その場所を、私たちが備えるためなのである。
クリスマスの近づくこの時期、町はきらびやかな装飾で満ちる。しかし、本当の意味で、クリスマスを迎える準備とは、美しく、自分の好みに合わせて、自分の空間を満たすことなのではない。自分を満たすのではなく、遠い誰かのためにそれを用いていく。それこそが、救い主を迎えるその道を整えることなのである。

[説教要旨]2011/11/27「キリストの到来に備えて」マルコ13:24−37

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 64:1−8 【旧約・1166頁】
第二の日課 1コリント 1:3−9 【新約・ 299頁】
福音の日課 マルコ 13:24−37 【新約・89頁】

十字架で処刑された男・ナザレ出身のイエスが生ける神・救い主であるという、この逆説こそ、苦しみと悲しみに満ちた私たちの生の中に伝えられた福音であり、教会の宣教の中心であった。しかし、やがて時が流れ、イエスが神であることを強調するあまり、この世界に現れたのは、幻のような神の仮の姿であるといった理解が生まれてくるようになる。葬られたはずの墓が空であったことを説明するためには、この理解はたしかに都合の良いものであった。しかし、教会の伝統は、そうした理解を斥けた。それは主イエスが、私たちと変わらぬ一人の人間としてこの世に生を受け、そしてこの地上を歩まれたということが、福音にとって欠く事の出来ない点であったからである。主イエスが生ける神であることを伝えた教会は、クリスマス、すなわち「主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に一人の人として到来された事」を憶える時を持つ事となった。
キリスト教では、救い主であるイエス・キリストが、私たちのこの世界へとやってくることをこの季節に憶える。北半球では毎週アドベントクランツのろうそくの光が増えるにつれて、逆に外の闇はますます濃くなっていく。私たちの周囲を取り囲む闇がその力を増してゆく中で、私たちの生きるその闇のただ中に与えられた光、救い主キリストの到来を私たちは憶える。
本日の福音書で主イエスは十字架の地であるエルサレムにおいて、いわばその死を目前にして、告別の辞とも言える教えを語っている。しかし、その締めくくりである本日の箇所では、「人の子がやってくる」ということが語られる。ここで「人の子がやってくる」ということ、それは主イエスご自身が再び到来されるということであった。つまり告別の辞は、再会の約束によって締めくくられるのである。しかもその再会は、闇の力の支配するこの古い世が終わる時、つまり神の国がこの地上に完成する時に実現すると語られる。
これからまさに、十字架という、人としての痛みと絶望の極みへと向かおうとする時に、主イエスは神の国の完成とご自身の到来を語る。それは、救い主・イエス・キリストは、私たち人間の痛み・苦しみ、悲しみ・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝ち、光をもたらされ、神の国をそこに打ち立てる。そのためにこの地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。
主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。主イエスがこの世界のその闇のただ中に踏み込み、その闇を打ち砕かれる。それは滅びる事のない約束の言葉として、私たちを今も支え、励ましている。
私たちは今、主イエスの到来に備える、アドベントの時を迎えている。それは単に、過去の出来事を思いだし記念しているだけなのではない。私たちは今まさに、主イエスが、私たちを取り巻く闇の中に到来されることを待ち望んでいる。私たちを取り巻く、ますます濃くなってゆくこの闇の中で、私たちが主イエスの言葉によって励まされ、支えられてゆくこと。それこそがまさに、主イエス・キリストの到来に備えることなのである。

2011年11月26日土曜日

[説教要旨]2011/11/20「神さまはどこに」マタイ25:31-46

聖霊降臨後最終主日・成長感謝礼拝

初めの日課 エゼキエル 34:11-16、23-24 【旧約・1353頁】
福音の日課 マタイ 25:31-46 【新約・50頁】

 教会暦の終わりにあたって、教会の伝統では永遠の神について思いを寄せてきた。自分の目で神を見たことのある人はいない。しかし、私たちは神がいることは知っている。なぜならば、私たちに「命」が与えられ、私たちが生きているからである。私たちは自分で自分の命を創ることはできない。私たちが粘土をこねて人の形を作っても、その粘土が生きて動き出したりすることはない。ただ神だけが、命を私たちに与えて下さるのである。だから、私たちが今生きているということそのものが神がいる証なのである。しかし、その神はどこにいるのか?永遠に続くと考えていた日常に悲劇が襲うとき、私たちはそう問わずにはいられない時がある。
 私たちは神を見る事はできなとも、神が与えて下さった命があることはわかる。同様に、神がどこで働かれるのかを私たち自身は既に知っているのである。私たちが、誰かに優しくしたり、親切にしたり、困っている人を助けたりする時、神が私たちの心に働きかけて、私たちを動かして下さっているのである。そのような時、私たちは果たして憎悪と憤怒で、あるいは孤独と悲嘆に満たされることはない。自分に与えられたものを他者と分かち合うとき、皆が喜ぶことができる。分かち合うことによって、自分一人が手にするものは、たしかに少なくなるかもしれない。しかし驚くべき事に、自分だけで独占するよりも、誰かのために分かち合う時の方が、私たちは何倍もの喜びを得ることが出来るのである。それは、その時神が私たちの心に働いてくださっているからに他ならない。神が私たちの心に働いて下さる時、私たちは独占や憎悪、対立から解放され、もっと大事な事が何なのか、永遠の価値を持つものが何なのかを知るのである。
 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 誰かのために私たちが自分のもっているものを分かち合おうとする時、そこには神がおられる。聖書は私たちにそう教えている。
 来週から、クリスマスの準備を教会は始める。クリスマスは、神さまが私たちのために、イエス様を与えて下さったことを憶えて祝う時である。この世に降られた神・主イエスは、私たち一人一人の心の中をも訪れ、誰かのために、自分の持っているものを分かちあい、共に喜ぶ心で、私たちの心を満たして下さるのである。それは神の永遠の愛で、私たち自身が満たされることなのである。

2011年11月15日火曜日

成長感謝礼拝こども祝福式[11/20]

11/20(日)は成長感謝礼拝として、こどもと大人の合同礼拝(10:30)となります。
礼拝の中で子ども祝福式を行います。

教会から子ども達にプレゼントもあります。
祝福はどなたでも受ける事ができます。
是非ご家族で礼拝にお越し下さい。

[説教要旨]2011/11/13「天の国に生きる」マタイ5:1-12

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 26:1-13 【旧約・1099頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・ 479頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・6頁】

この秋の日、私たちは召天者記念礼拝として、ここに集っている。季節が秋から冬へと向かう中、私たちは様々なものが自分のまわりから失われていく事に気付かされる。冬が訪れた後には、命の枯れ果てた景色だけが私たちの目に映る。しかし、たとえ私たちの目にはそうは見えなかったとしても、私たちの目からは隠されたところで、新しい命は芽生え、やがて来る春の時を待っている。むしろ、命は私たちの目に見えるところからやってくることはない。
キリスト教の復活信仰は、私たちの命がそこから与えられるところの、私たちの目からは隠されている世界に、希望を確信することである。そもそも私たちは、自分自身の命ですらそれがどこからやってきたのかを我が目で確かめる事はできない。いわば私たちの命そのものは、目に見えないものによって創り出されている。
本日の福音書で主イエスは、弟子たちに向かって語る長い「山上の説教」の端緒として「神の民とはどのようなものであるか」を語る。そこでは語られるのは、神の民の「至福」であった。しかしそれらは実は皆、神の民が現に今この地上においては様々な悲しみ・痛み・窮乏・困惑のうちに置かれていることを前提としていることに気付く。痛みや苦しみ、悲しみや絶望、そうしたものの中に、現に今、神の民は生きなければならない。しかし、主イエスはそのような、苦境の中にある者に向かって「幸いである」「その人たちは慰められる」「満たされる」と断言される。論理的にはそんなことが起こるはずがない、希望の芽などどこに見出せない。この地上に生きる私たちは、自分の知りうる領域のみを見て、そのように語らずにはいられない。
しかし、主イエスは「天の国はその人たちのものである」と断言される。たしかに、私たちの見える領域においては、ただ全てが失われた、死の支配する冬の時だけしか見出せないかも知れない。しかし、私たちに隠されたところ、私たちの命がそこから与えられたところ、私たちの命の造り主である神がおられるところ、そこには新しい永遠の命がある。そこにこそ、神の民の希望がある。主イエスは、そう語られるのである。
そして、その言葉が真実である事を、主イエスはご自身の十字架からの復活によって私たちに示された。十字架の磔刑とは、まさに痛みと、悲しみ、絶望と困惑のその極みの中で、人として持てるその全てを失うということに他ならない。しかし全てを失われた主イエスは、新しい永遠の命において復活された。それは、私たちが現に今置かれている、あらゆる困窮・悲痛も、この主イエスの復活によって示された、新しい永遠の命に勝つ事ができないことを告げる。私たちの命を削り取っていく、悲しみ・絶望・困窮を圧倒する真の希望、それは、私たちの目には隠された、けれども私たちに約束されている、神の国、天の国から与えられる。
先に天に召された方々は、たしかに私たちの目からは隠されているかも知れない。しかし、命の源である神の国において、私たちは共に永遠の命に結びあわされている。今なお地上に残された私たちも、主イエスが語られる「幸いである」の言葉を受けつつ、地上での命を生き抜いてゆきたい。

2011年11月1日火曜日

[説教要旨]2011/10/30「神の言葉に立つ」ヨハネ2:13-22

宗教改革主日

初めの日課 列王記下 22:8-20 【旧約・617頁】
第二の日課 ガラテヤ 5:1-6 【新約・ 349頁】
福音の日課 ヨハネ 2:13-22 【新約・166頁】

 宗教改革主日である本日の福音書では、主イエスがエルサレムの神殿の境内で商いをしている者たちの屋台をひっくり返して回る衝撃的な場面が描かれている。主イエスのこの振る舞いは、やがて十字架刑を決定づける。その姿を単なる乱入者・破壊者として見るならば、主イエスの処刑は自業自得ということになる。けれども、主イエスがその命をかけて対決し、挑まねばならなかったものは何であったのかに思いを向ける時、この振る舞いはまた異なる姿を私たちに示すことになる。
 主イエスがその命をかけて挑み、対決されたもの。それは私たちを蝕む罪の力、私たちの心を虚ろなものとしてしまう死の力であった。罪と死によって私たちの命が蝕まれるとは、全ての造り主である神が私たちに命を与えられたことを私たちが忘れ、まるで自分自身が命の造り主であるかのうように振る舞い、そして多くの他者の命を、自分の欲望のための道具にしてしまうことである。そしてそうであるがゆえに、自分自身もまた常に、誰かによってその命が道具のように使い捨てにされてしまうことをただ怯えるしかなくなる。それこそが、私たちの命を蝕む罪と死の力である。しかしその力はあまりにも私たちの日常生活の中に深く根付いてしまっていて、私たちは一見平穏に見える自分の日常が、その背後で罪と死の力によって支配されていることに気付く事が出来ない。私たちは、自分にとって快適で心地良く、安心な世界を造り上げるために、他者の命をその道具として利用し、使い捨ててしまうことを正しいことと思いこみ、その罪に気付く事が出来ないでいる。しかし主イエスは、かつてエルサレムの神殿の境内において行われたように、私たちの日常の中に乱入し、そのような見かけだけの平穏を徹底的に破壊される。その主イエスの言葉が私たちのもとに届く時、私たちは自分が安全であるために他者に押しつけてきた多くの痛みを受け止めなければならない。けれども、痛みを分かち合うところ、悲しみを分かち合うところにこそ、希望が、そして永遠の命が分かち合われるということを、十字架の死から甦られた主イエスは私たちに示されたのである。
 ヘロデ大王がその威信をかけて改修した壮麗な神殿は、その後のローマとの戦争によって瞬く間に徹底的に破壊されてしまった。一方主イエスの福音は、私たちの生きる日常を根底から変える力となって今に伝えられている。私たちが主イエスの言葉を聞くとき、罪と死の力に支配された私たちの日常は砕かれる。そして同時に、永遠の命に生きる希望が私たちに与えられるのである。宗教改革者ルターがその命をかけて伝えなければならなかったものとは、この主イエスの福音の力に他ならなかった。この世のいかなる力も、神の言葉、主イエスの福音に打ち勝つ事はできないのである。

2011年10月26日水曜日

[説教要旨]2011/10/23「天の祝宴への招き」マタイ 22:1-14

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 エレミヤ 31:1-6 【旧約・1234頁】
第二の日課 フィリピ 3:12-16 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイ 22:1-14 【新約・ 42頁】

 本日の日課では、王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。しかし、そこで語られる婚宴は、普通に私たちが考えるような「王の宴会」とは大きく異なる姿を呈している。王子の婚宴であるならば、そこに招かれるべきは「ふさわしい」家柄、名声、権力を有していなければならないはずである。つまり、その宴席につくための条件があらかじめ決まっているはずなのである。そこで招かれる者たちは当然のように、婚宴のしきたりに通じており、予め立てられた計画通り、しめやかにつつがなく婚宴を進めることができる、そのような客達が選ばれているはずであった。しかし、選ばれていた者たちは王の呼びかけに応えない。なぜ「ふさわしく」選ばれたはずの者たちが、王の呼びかけに応えないのか。計画通りに宴を進めるにふさわいしい客であるはずの彼らにとって、王の呼びかけは、自分達が既に有している資産を管理する以上の優先順位を持ち得なかったことが語られる。彼らにとっては、自分自身の計画の方が遙かに重要だったのである。自分の計画を変えることを拒み続け、度重なる呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなるのである。
 一方で、宴席には予想外の者たちがやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、その中には悪人も善人もいたと語られる。それはおよそ計画も予定も立たないような集まりであり、「ふさわしい」という言葉がこれほど似つかわしくない集まりはありえない。このたとえが語る王の祝宴とは、まさに主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それが天の国における祝宴の先触れであることがここで思い起こされる事となる。主イエスのもとに集うということ、そこには、私たち人間が「ふさわしい」と考える基準とは全くことなる論理が働いている。それは、私たちからするならば、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないようなものでしかない。私たちは、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力もない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。何も持たざるものであるはずの私たちが天の祝宴に招かれているという事、それは私たちの思いと計画を超えて、私たちの生きている場所に起こる出来事であるということを、主イエスのこのたとえを通して私たちは知る。
 主イエスは、このエルサレムで、やがて権力者との対立を深め、十字架刑へと断ぜられる。それは、多くの人間の目から見るならば、このイエスという人物が、今の時代にはふさわしくない、計画を乱すまちがった存在であるということであった。けれども、主イエスは、その十字架の死から甦られた。それは、私たち人間が考える「ふさわしさ」や「計画」を超えて、神の力は働くということを私たちに示している。この地上で「ふさわしくない」と非難される時、十字架の主イエスは私たちの最も近くにおられ、私たちを支え、喜び溢れる天の祝宴へと導かれるのである。

2011年10月21日金曜日

[説教要旨]2011/10/16「捨てられた石から」マタイ21:33-44

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ 5:1-7 【旧約・1067頁】
第二の日課 フィリピ 2:12-18 【新約・ 363頁】
福音の日課 マタイ 21:33-44 【新約・ 42頁】

 この21章ではエルサレムの神殿に入り込んで人々に勝手に語るイエスという男に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と宗教的な権威者達は問い糾す。その詰問に応えて主イエスは神の国についての3つのたとえを語られる。その二つ目として主イエスが語られた本日の日課である「ぶどう園と農夫」のたとえは、もしこの箇所だけを取り出して読むならば、何を言いたいのか理解しがたいと言わざるを得ない。無防備に使いの者を派遣しつづけるぶどう園の主人はまるで無策としか言いようがない。それどころか、先の多くの使者に暴力がふるわれているにも関わらず、またしても何の対策も無しに跡取り息子を派遣する。その姿は、およそ危機管理というものを知らないのではないかと思わずにはいられない。そのようなことが出来る主人がもし存在するとするならば、使っても使っても減ることのない無尽蔵の資産を持っているか、あるいは、およそ人間ではありえないような寛容さを備えているかとしか考えられない。しかし、私たちは先の第1のたとえからの続きでこの第2のたとえを読むとき、これが私たち人間の価値観に基づいているのではなく、その根幹にあるものは神の国の基準であることを思い起こすこととなる。この地上において見える序列、権威とは相反する価値基準であった。
 本日のたとえは言うまでもなく、主なる神が民に遣わした預言者達の運命、そして最後に神の子である主イエスの派遣とその運命を象徴している。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問い糺されたことに対してこのたとえが語られている。主イエスの権威とは、この地上における序列でもなければ、人として有する知識や敬虔さの深さでもない。主イエスの権威とは、そのひとり子主イエスをこの地上に送られた主なる神のその無限の愛と寛容さに他ならないのである。
 42節で引用されている詩編の言葉は、人の目から見るならば捨てられるしかない石、十字架に死した主イエスこそが、逆に私たちを砕き、この主イエスを基礎の石として教会が造り上げられていることを語る。この地上においては、私たちが他者を序列化し裁くその同じ価値基準によって、自分自身もまた序列化され裁かれる。その繰り返しの中で私たちはいずれ「おまえにもはや価値など無い」と断じられる時を前にただ怯えるだけである。けれども、捨てられた石、十字架にかけられた主イエスを基として教会は建てられた。そこは、私たちを支配するこの世の価値を砕き、代わりに神の限りのないそしてはかり知れない神の愛が支配する場所なのである。この神の限りのない愛は、永遠に砕けることなく残り続けるのである。

2011年10月15日土曜日

[説教要旨]2011/10/09「この最後の者にも」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第17主日
初めの日課 イザヤ 55:6-9 【旧約・1152 頁】
第二の日課 フィリピ 1:12-30 【新約・ 361頁】
福音の日課 マタイ 20:1-16 【新約・38頁】

 本日の日課のたとえ話を一言で言うならば、「不公平な主人」とでも呼ぶべきであろうか。なぜならば、この主人は夜明けから働いた者にも、夕方の5時から働いた者にも、同じ賃金を支払うからである。この主人の態度は、私たちの価値観・世界観からするならば明らかに不平等であり不公平である。それゆえこのたとえ話は、私たちのいわば「正義感」に対して挑発をしかけてくる。私たちは、私たちの正義感と折り合いをつけるためにこのたとえに対して様々な解釈を試みようとするかもしれない。たとえば、同じ賃金が支払われたということは、同じだけの作業をしたということでなければおかしい。そうであれば、遅い時間から来た者たちは、早くから働いていた者よりも、短い時間でたくさんの仕事をしたのではないか。だからこの譬えは、後から来た者は、熱心に励まなければならないということなのではないか。あるいは、早くから来た者に優るほどの働きを見せれば、同等もしくはそれ以上に評価してもらえるということを語っているのではないか。たしかに実績や成果によって、人の働きは評価されるべきであるという論理の方が、主イエスの語るたとえよりも、私たちにははるかに理解しやすいのではないだろうか。しかし、そうであるからこそ、主イエスのたとえは、この地上の価値観に対して対決し、より一層強く私たちを挑発し揺さぶりをかけることとなる。主イエスのたとえの中では、その労働者たちはその働きの多寡、優劣によって比べられてなどいないからである。
 平均的な耕作労働者の年収200デナリオンで買うことの出来るパンの量は6人家族の場合一人あたり400個程度であった。一日あたりの熱量に換算すると1400カロリーであり、これは生きるために最低限度の食糧であった。つまり1デナリオンの報酬とは、一人の命が今日支えられるために必要なものであった。このたとえにおいて、報酬は働きに対してではなく、いわば一人一人の存在そのものに対して与えられているのである。
 働きへの評価ではなく、存在と命が支えられるために1デナリオンが与えられるその理由は、ただこの主人の気前の良さ、ただ与えようとするその深い愛ゆえであった。
 主イエスは、これらの教えを、エルサレムの十字架へと向かう道筋において弟子たちに語る。主なる神が、主イエスを与えられたのは、その後に従おうとする弟子たちの働きが他のだれかよりも優っていたからなのではない。ただ神の愛ゆえに、主イエスは地上に与えられ、そして私たちに救いを与えられたのである。命の源である神は私たち全ての存在、命を愛され、そのために主イエスを、そして十字架による救いを私たちに与えられ。その十字架のもとに私たちが集うとき、私たちはこの世の価値観から解き放たれ、ただ一つの命として主なる神に受け入れられていることを知るのである。

2011年10月5日水曜日

三鷹教会信徒協議会のお知らせ[10/23]

2011/10/23(日)礼拝後、三鷹教会信徒協議会が行われます。
今年の三鷹教会の歩みを振り返り、これからの三鷹教会について共に分かち合い、話し合う場です。

礼拝後、昼食をともにし、各会の活動報告の後、来年度に向けてのヴィジョンについて語り合います。
14時終了予定です。
教会員の皆様は是非ご参加下さい。

[説教要旨]2011/10/02「赦し合う群れ」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・ 92頁】
第二の日課 ローマ 14:1-18 【新約・293頁】
福音の日課 マタイ 18:21-35 【新約・35頁】

 本日の日課はこの18章のこれまでの教えに応答するようにペトロが主イエスに尋ねる。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」当時のユダヤ社会では「3回までは赦す。しかし4回目は赦さない」といわれていた。そうした世間一般の感覚に対して、ペトロは「7回までですか」と問いかける。それは世間の常識の倍以上の数字であり、ペトロは弟子の筆頭としてふさわしい、立派な決意をそこで表明したと言うことすら出来る。しかし、それに対して主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられる。それはもはや計算が、あるいは赦した回数を数え上げることそのものが、ばかばかしくなるような応えである。3回か、7回か、それはまだ私たちの生活の中で現実感のある数字であるが、7の70倍という応えは、そうした私たちの常識にゆさぶりをかけることとなる。
 主イエスはさらに、ある王と家来、そしてその仲間についての譬えを語られる。貸した金の決裁をしようとする王の前に、1万タラントンの借金を王に対して負っている家来が連れてこられる。1タラントンは、ギリシアの通貨としては6000ドラクメ、つまり聖書の通貨では6000デナリオンとされている。1デナリオンは1日の日当とされていたので、1タラントンですらおよそ20年分近い賃金に相当する。ヘロデ大王の年収が900タラントンであったとされていることから考えても、1万タラントンという数字が、およそ一人の人間の力ではどうにもならない負債であることが、ここで強調されることとなる。しかし、私たちには全く思い依らない仕方で、王はこの家来を憐れに思い、その負債を赦してやることとなる。その負債の額が私たちには想像も出来ないのと同様に、その憐れみもまた、私たちには想像も出来ないものであった。
 しかしこの負債赦された家来は、今度は自分の仲間から100デナリの借金をとりたてようとする。それは決して小さくはないが、私たちにとってはまだ現実的な金額である。この現実的な負債に対して自分の正統な権利を主張することは、その行為だけを取り上げるならば、彼の行為は正しいとすら言える。しかし、直前の王と家来との関係を前提にするとき、彼の主張する正しさは、あの無限の寛大さの前では全く空しいものとなってしまう。
 このたとえを私たちが聞くとき、私たち自身の姿を思い起こさせる無慈悲な家来の末路にのみ目が向いてしまう。しかし、このたとえにおけるもっとも重要な点は、互いに自らの正しさを言い争い傷つけあうその私たちの姿を空しくさせるような、無限の神の愛、憐れみ、そして赦しが私たちには与えられているということなのである。私たちはこの地上の世界で、自らの正しさを主張するがゆえに、対立し、憎み合い傷つけあう。しかし、そうせずには生きられない私たちの現実に対して、それを包み込み、その傷を癒し、再びつなぎあわせる神の愛を主イエスは示される。
 なによりも主イエスご自身が、私たち一人一人に神の赦しと憐れみを与えるために十字架につけられ、その死から甦られたのであった。だからこそ私たちは、神の愛によって癒され満たされて生きることが赦されているのである。私たちと共におられる十字架の主イエスは、私たちを赦された者の群れへ、そして赦し合う群れへと導かれる。

2011年10月1日土曜日

[説教要旨]2011/09/25「主の名によって集う」マタイ18:15-20

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 エゼキエル 33:7-9 【旧約・1350頁】
第二の日課 ローマ  12:19-13:10 【新約・292頁】
福音の日課 マタイ 18:15-20 【新約・35頁】

 ユダヤ地方つまりエルサレムに向かって旅発つにあたり、ガリラヤ宣教の締めくくりとして、マタイ18章では信仰の共同体についての教えを主イエスは弟子たちに向かって語る。本日の日課の前半では、過ちを犯した信仰者を断罪するための過程について触れられているのに対して、後半では、信仰者の一致と祝福について語られているのは、まるで相矛盾することであるように思われる。これらをつなぐ鍵は、18章の全体の文脈の中でこれらを受け取ることである。すなわちこの箇所の主題は、躓いたもの、迷い出たものをどのように断罪するかなのではなく、どのように和解と信頼とを獲得していくのか、ということにある。いわば、15-17節は、迷い出た羊を取り戻すための具体的な方法について語っていると受け取ることすら出来る。実に、ここで重要なことは、罪の重さとそれに対する罰の正当性を語ることなのではない。むしろ、どのようにして躓き迷い出た一人を取り戻すことができるのか、失われた信頼と絆を回復し、和解を築き上げることが出来るのか。そのことがここで問われているのである。
 聖書は第一に対話を求める。対話無しに、信頼と和解はありえないからである。しかし同時に、個人的な関係だけにそれを留めず、複数の者による関わりを聖書は求める。忠告をする者もまた一人の限界ある人間である以上、的外れな思い込みをしていたり、不適切な語りかけをしてしまうことは当然起こりえるからである。たった一人による働きかけが潰えただけで、兄弟を失ってしまってはならないことを聖書は語るのである。そしてさらに、その働きは信仰の共同体としての教会によって担われなければならないことが語られる。そこには、特定の指導的な役職については一切記されていない。それどころか、かつて16:19でペトロに対して語られた18節の言葉は今度は主イエスに従う弟子の群れ全体に対して語られる。今や信仰の共同体の一人一人は、同じく主イエスに従う群れにいる一人一人に対して、信頼と和解とを築き上げるための職務を与えられているのである。
 しかし、果たしてそのようなことが可能なのであろうか。私たち一人一人は、それだけの責務を担うだけの意志も能力も無いことを、自分自身がよく知っている。そうであるからこそ、主イエスは語られる。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」私たち自身には、全く不可能に見えるような時でも、そこには、それは私たちの全ての不信と絶望を担い、十字架においてそれらに勝利された主イエスが共におられるのである。自分自身の力によるのではなく、不信と絶望の極限である十字架の死から甦られた主イエスが共におられるからこそ、私たちは失われた信頼と絆を取り戻すことが出来るのである。主の名によって集まるところ、それは不信の中に信頼が、そして絶望の中に希望が与えられるのである。

[説教要旨]2011/09/18「自分を低くして」マタイ18:1-14

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマ  12:9-18 【新約・292頁】
福音の日課 マタイ  18:1-14 【新約・34頁】

 本日の日課の前段落で舞台は再びカファルナウムであることが語られる。カファルナウムは、主イエスがガリラヤ伝道の拠点とされた町であった。続く19章の始めでは、主イエスはこの地を発ってユダヤ地方つまり宗教的・政治的権威とのこれまで以上に厳しい対立が待ち受けているエルサレムに向かって南下することが告げられる。それは受難の道のりの最後の段階へと主イエスが歩みを進められることでもあった。十字架の陰がより一層濃くなる中、ガリラヤでの宣教活動の締めくくりとして、本日の日課を含む18章では教会生活のあり方について語られる。
 冒頭で弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに問う。これに対して、主イエスが示したものは一人の子どもの存在であった。古代のユダヤ社会において、「子ども」が象徴するものは、未成熟・貧しい知識と判断力・無秩序・無思慮・非力、こうした概ね消極的・否定的なものであった。「天の国でいちばん偉い」ということは、権威と栄光の至高の極みを問うものであったのに、それに対して主イエスが示されたものは、この地上においては、弱く不完全で持たざる者の姿であった。
 それを補足するように主イエスは「これらの小さなものの一人のつまづき」について警告する。小さなものは、弱いゆえに、足らざるがゆえに、躓く。しかし、その弱いこと、小さいことを主イエスは責めることをしない。むしろその弱さと小ささを受け止めることが出来ない者をこそ、主イエスは厳しく糾弾する。ついで、よく知られた「迷い出た1匹の羊」の譬えを主イエスは語られる。ルカ福音書では「見失った」と語られている羊は、マタイでは「迷い出た」と語られる。つまり、この羊が群れからはぐれてしまったのはは、私たち人間の価値基準で計るならば、自業自得、自己責任と呼ばれる結果であることが示唆されている。主イエスに従う者の群れから迷い出てしまう時、それは自分自身の意志の弱さ、知識の貧しさ、そして言うならば信仰の薄さであると、私たちは考える。けれども、主イエスが弟子たちに語られるのは、そうした、その迷い出た者自身の不足・弱さを問い責め立てることなではない。むしろ、迷い出た者をどこまでも求めてゆく態度なのである。
 これらの事柄を貫いているのは、弱さ、不完全さへの、神の愛と慈しみに満ちた主イエスの眼差しであり、その弱さ・不完全さを共に担おうとする姿なのである。それは、この後の福音書の物語において、十字架への道筋を歩まれることによってより一層明らかとなってゆく。十字架においてまさに主イエスは、この世における最も低いところへと向かわれた。そこで主イエスが、この世の弱さ・貧しさ・痛み・苦しみ、そうしたものを全て担って下さったことによって、弱い者、持たざる者、迷い出る者への神の愛と慈しみは全ての民に与えられることとなったのであった。主イエスに従う群れである私たちは、自らを低くする時こそ、主イエス・キリストは最も私たちの近くにおられることを、十字架を通して知るのである。

2011年9月13日火曜日

[説教要旨]2011/09/11「生ける神の子」マタイ16:13−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 出エジプト 6:2−8 【旧約・101頁】
第二の日課 ローマ 12:1−8 【新約・291頁】
福音の日課 マタイ 16:13−20 【新約・31頁】

 本日の日課の舞台フィリポ・カイサリアは、ギリシアの牧羊神の神殿で知られていたが、ローマ皇帝アウグストゥスからユダヤのヘロデ大王へと譲られた後、ヘロデ大王によって皇帝の像を安置した神殿が建設された。さらにヘロデ大王の子フィリポは、皇帝(カエサル)にちなんで「カイサリア」と改称し、加えて自分自身の名を付した。いわばこの地は、ギリシアの神々への崇拝と、時の支配者たちの権力欲と権謀術数が交錯する都市であった。その場所で、主イエスは弟子たちに、ご自身について「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」問いかけられる。「人の子」とは、本来は一人一人の個人を指す言葉であるが、マタイ福音書においては特に、主イエスが全世界の終末の審判者として、御使いを引き連れ、栄光の座において多いなる力をもって支配する、偉大な存在として描き出される。しかしながら、地上を放浪し、人々から嘲笑され、そして裏切りと挫折の中で苦難の死を迎える主イエスの姿の中には、来るべき栄光は未だ明らかとはなっていない。そのような中で、主イエスは、ご自身に従う弟子たちに向かって問いかける。
  この約2000年前のフィリポ・カイサリアにおいて弟子をとりまく状況は、現代の私たちが生きるこの社会とよく似ている。私たちは、今見えるものの中には来るべき主の栄光を見出すことは出来ずにいる。私たちの目に映るのは、さまざまなこの世界の闇と、この世を支配する力に対抗することの出来ない自らの弱さ、不十分さばかりである。しかし、かつて主イエスに問われたペトロは決然と「あなたはメシア、生ける神の子です」と答える。主イエスがメシアすなわち救い主キリストであり、「生ける神」の子であるということ、それはいかなるこの世の力、権力も死の力ですらも、主イエスは打ち砕かれるということに他ならない。その主イエスがこの地上において、その最も低く、闇の深いところ、すなわち挫折と裏切りの結果としての十字架の死へと向かわれたのは、人間の生きるこの地上のその闇のただ中に踏み込み、命をと希望を打ち立てるために他ならなかった。
  福音書の物語の中に登場するペトロの姿は、思慮浅く、主イエスの言葉を理解できず、信仰薄く、あまつさえ主イエスを捨てることすらしでかす人物でしかない。ペトロの言動をみるならば、この信仰告白がペトロ自身の意志の強さや思惑によるものではないことは明かである。むしろ、主イエスとの出会いこそが、ペトロをして、主イエスへの信仰を告白せしめるのである。
  そして、そのペトロの告白は、やがて主イエスに従うあらゆる者たちの礎の岩となることが語られる。時の権力者たちが造り上げたものは、今はただ過去の遺物としてその姿を留めるのみである。それに対して、ただ主イエスによって動かされただけであるペトロに続く教会は今も生きていることを、現に礼拝に集う私たちは知っている。それはまさに、この地上の世界においては、その一人一人は弱く貧しい存在でしかなった信仰の先達者達が、死から命を生み出される生ける神の子主イエスに出会い続けてきたことの証なのである。先を見通すことが出来ず、不安と失望の中で生きなければならない私たちもまた、主イエスに出会い、新たに生かされ、動かされてゆくのである。

2011年9月10日土曜日

[説教要旨]2011/09/04「わたしを憐れんでください」マタイ15:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 イザヤ 56:1-8 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 11:25-36【新約・291頁】
福音の日課 マタイ 15:21-28 【新約・30頁】

 本日の福音書の日課の直前では、食物と清浄についての昔の人の言い伝えに関して、ユダヤの指導者たちが主イエスとその弟子たちに対して非難を向ける様子が描かれている。聖書の預言の実現として、イスラエルに遣わされたはずの主イエスを、当のイスラエルの中枢にある者たちは受け入れることが出来ない、その様子が描かれる一方で、本日の日課では「カナンの女」が登場する。「カナン人」という表現は、この女性がユダヤ人ではないことを示している。
 娘を癒して欲しいというこの女性の願いに対する主イエスの態度は、あまりに素っ気なく、現代の読者である私たちにとっては、驚きと不快すら感じずにはいられない。しかし注意深く読み直すならば、むしろ弟子たちが、この女性に関わることを疎んじて斥けるように主イエスに進言しているのである。それに対して、この女性と主イエスとの対話に集中していくならば、やや異なる印象を受けることとなる。
 この女性は、3度にわたって主イエスを呼び求める。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください。」「主よ、ごもっともです。」その呼びかけの中には、癒しを受ける条件としての、彼女自身の属性や能力に関わる事柄は一つもない。彼女に出来ること、それはただ主イエスを救い主として呼びかけ求め、そしてその言葉に打ち砕かれ、その言葉を肯定し受け止めるしかないのである。
 この女性の呼びかけに対して、主イエスは最初は沈黙し、そして次いでその求めを打ち砕くかのように振る舞われる。それは、まるで私たち自身が、その人生の歩みの中で主を呼び求める時と同じであるように思われる。私たちの叫びと求めに、主は沈黙し答えられないようにしか見えないことがある。そして、主の言葉によって、自分自身が打ち砕かれる時がある。けれども、自らを打ち砕くその主の言葉を受け止める時、そこにこそ信仰と救いがあることを、私たちは知る。このカナンの女性の信仰の本質とは、彼女には何もないこと、何も出来ないこと、ただ主イエスを求めるしかない、ということに他ならなかった。
 ユダヤの指導者達は、自らの正統性と正義を誇るがゆえに、主イエスを受け入れることができない。しかし、そうした人間の価値観に基づく正統性と正義を、メシアである主イエスによって示された神の義、神の憐れみは打ち砕く。
  福音書の物語において主イエスはさらに権威と権力との対立を深め、やがてその十字架の死へとたどり着く。常識的に考えるならば、それはこの世の正義と正統性に楯突くものの末路として当然のものであった。けれども、その敗北と死から主イエスは甦り、その墓を打ち砕かれた。神の言葉が、人の正義と正統性を打ち砕くところ、そこにこそ神の義と憐れみ、そして救いは実現する。
 私たちは、毎週の礼拝の中で「主よ憐れんでください」「キリストよ憐れんでください」と願う。主を求めるしかない私たちのその叫びと求めは、主イエスの十字架を通してのみ聞き届けられるのである。

2011年8月31日水曜日

[説教要旨]2011/08/28「恐れることはない」マタイ14:22-33

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 列王記上 19:1-21 【旧約・565頁】
第二の日課 ローマ 11:13-24 【新約・290頁】
福音の日課 マタイ 14:22-33 【新約・28頁】

 5000人以上の大群衆の飢えを満たすという奇跡の後、主イエスは弟子たちを湖の向こう岸へ強いて渡らせる。その後、山で一人祈られる主イエス姿は、十字架の直前の出来事を読者である私たちに再び連想させる。一方、弟子たちが沖にこぎ出す様子は、まるでこの世における信仰者の集まりとしての教会の姿を思い起こさせる。命じられたまま沖に漕ぎ出した舟は、進むことも戻ることもできないまま、暗い一夜を過ごさねばならなくなる。彼らのうちには漁師達もいたのであるから、そうした難に際しての経験と知識そして技術を有していたはずである。しかしいまや、彼らはそうした人間的な経験・知識・技術では太刀打ちできない危機の中に陥ってしまう。彼らの人間的な能力や、これまで積み重ねてきたもの、それらは今や全く役に立たない。むしろ、そうしたものがかえって、彼らの恐れと不安そして疑いを増大させることとなった。舟の上での弟子たちの会話について聖書は語らない。しかし、おそらく舟上では、このような事態になったのは誰のせいであるかと互いを非難しあい、誰の言うことが正しいか、どうやって自分だけは助かろうか、と言い争っていたのではないだろうか。舟を揺さぶる波風は、同時に舟の中にある弟子たちの内面をも強く揺さぶる。その危機の中で、弟子たちは水の上を歩く人影が近づいてくるのを目撃し、さらなる恐怖に襲われることとなる。動揺と混乱の極みにある弟子たちに、主イエスは語りかける。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。かつて主イエスは嵐を静められた時(8:23-27)、弟子たちは「この方はどういう方なのだろう」と問うだけであった。しかし、十字架への道筋が際立ってくるに至って、弟子たちは目の前におられる方こそが、救い主キリストであることを知る。今や弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」とその信仰を告白する。
 救い主の呼びかけによって、ペトロもまた湖の上を歩み出す。しかしすぐに風に恐れをなし波に飲み込まれてしまい、すぐに主イエスによってすくい上げられなければならなくなる。波風を前にペトロは、自分の持てる力は何一つ、この事態の中で役に立たないこと、自分はただ主イエスを呼び求めるしかないことを知る。けれどもその危機の中で、主イエスはペトロに最も近くおられることを知ることとなる。そして主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに問いかける。しかし、ここには一つの逆説がある。主イエスは信仰者ではないものに対して、「信仰の薄い者よ」と呼びかけ、問いかけることはされない。その意味で、主イエスのこの問いかけは信仰の不足を咎め立てているのではない。それはむしろ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という呼びかけと対になって、この世の波風の中を史砕くことなど出来ず、溺れゆくしかない私たちを、すくい上げ力づける言葉なのである。
 主イエスは、十字架の死というあらゆる危機のただ中へと決然と歩まれる。それは、私たち一人一人の迎える危機のただ中に、救い主キリストが共におられるためであった。だからこそ私たちが、「主よ、助けて下さい」と叫びを上げるとき、主イエスは私たちの最も近くあって、私たちをすくい上げてくださるのである。

2011年8月23日火曜日

[説教要旨]2011/08/21「全ての人を満たす」マタイ14:13−21

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 イザヤ 55:1−5 【旧約・1152頁】
第二の日課 ローマ 9:1−5 【新約・286頁】
福音の日課 マタイ 14:13−21 【新約・28頁】

 主イエスの道を備える者である洗礼者ヨハネが権力者によって処刑されたことは、主イエス自身の辿る運命を暗示している。これ以降、主イエスの十字架がいよいよ迫ってくることとなる。十字架へと近づく主イエスは、群衆の中へと入ってゆき、救い主メシアとしての働きをなす。その一方でユダヤ社会の宗教的指導者・権力者達との対立を深めてゆく。
 十字架への道を歩まれる主イエスを群衆たちは追いかける。その大勢の群衆を見て、主イエスは「深く憐れまれた」。それは単に、個人的な感情として同情するとか、かわいそうに思うということなのではない。人々の困窮と苦悩を共に担い、そしてそこからの解放をもたらされる救い主として、人々へと関わるあり方を表している。「その中の病人をいやされた」という記述は、まさにそうした救い主と人との関わりを物語っている。それは等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観によるものではない。それはただ、困難の内にある命と共にあり、その苦しみと悲しみを共に担うという、神の愛と慈しみに基づいている。
 夕刻における大群衆(男だけで五千人)へ食事を与える奇跡がそれに続く。現代人としては、「どのようにして」この奇跡を合理的に説明できるかにとらわれてしまいがちであるが、それは空しい試みに過ぎない。なぜならばここで重要であることは、救い主である主イエスにおいて神の愛と慈しみは実現するということ、そしてその主イエスが共におられるところで、空腹の大群衆が全て満たされたということに尽きるからである。そこで実現したことはまさに、等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観・合理性を無視した天の国の論理であった。そしてまたそれは、聖書において繰り返し語られてきた神の慈しみの業であった。聖書が語る歴史の中、弱り果てた民を主なる神が見捨てることはなかったのである。
 神の愛と慈しみの深さが示される一方で、主イエスに命じられた弟子たち自身が用意出来たものは、わずかにパン5つと魚2匹でしかなかったことが語られる。それは空腹を抱えた群衆の数から見れば、およそ無に等しいものに過ぎなかった。この対比によって、合理的に見ればここでの弟子たちの働きが、現実の要求に対していかに僅かで不十分なものであるかが際立たせられることとなる。しかし、その人の目から見れば不十分に過ぎない働きを、主イエスは拒否されることも叱責されることもなく受け取られる。そして主イエスによってそれが用いられる時、それは全ての人を満たして余りあるほどとなったのであった。
 十字架への道を歩まれる主イエスが分け与えられるもの、それはご自身の命に他ならない。主イエスの命が分かち合われるところでは、私たちは自らの力の弱さ・不十分さを嘆く必要はない。主イエスは私たちのその不十分な業を用いて、私たちの思いと力とを超えた未来へと私たちを導くのである。

2011年8月18日木曜日

[説教要旨]2011/08/14「隠された宝」マタイ13:44-52

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 3:4−15 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマ 8:31−39 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:44−52 【新約・26頁】

 本日の聖書のたとえが語ることは、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということである。それは私たちの間に既に与えられている。それを私たちはただ「発見」することが出来るだけである。そしてさらに、自分の働きの成果ではないはずの、この天の国と出会う時、私たちの生の歩みは根底から、その立っている基準・基盤を変えられてしまうことを、これらの譬えは私たちに気付かせる。
 本日の最初のたとえの中に登場する農夫は、自分自身の畑を耕しているわけではなく、おそらくその日雇いの労働者として働かせられている。しかし、その労働の中で、偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、彼の人生をその根底から変えてしまうこととなる。彼は持てる全てを売り払ってしまう。つまり、彼の生きてきた全てに、この一瞬の出会いは優っている。二番目の商人は、市場で偶然に高価な真珠を発見する。この真珠との出会いはこの商人の価値観・優先順位を根底から変えてしまう。この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。彼の生きてきた全てに対して、この真珠は優るものであった。いわば、この二人はの人生は、宝と真珠に敗北していると言える。彼らがその人生の中で築き上げてきたこと、成し遂げてきたこと、それら全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことが出来ず、彼らの人生は敗北してしまった。けれども、彼らは大いなる喜びに満たされたと聖書は語る。
 この二つのたとえの中で能動的・主体的な働きを担っているのは、人ではなく、宝であり真珠の方である。私が、宝・真珠を作るのでもなければ、私が自らを宝・真珠にふさわしく造り上げるのでもない。それらとの出会いによって、私たちは打ち負かされ、変えられて行くのである。まさにその意味で、キリストの弟子であるということは、神の国との出会いによって日々打ち負かされ、変えられてゆくことに他ならない。自分の知る正しさを貫き通し、純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると私たちは時として誤解する。しかし、主イエスが語ることはむしろ、私たち自身が、天の国との出会いによって、私が打ち負かされ、変えられてゆくことを喜ぶことなのである。
 キリストは、十字架という、この地上におけるもっとも悲惨な敗北へと向かわれた。しかし、その敗北こそが、新しい時、神の愛と平和がこの世界に満ちる真の神の国・天の国が実現する時の始まりであった。私たちの目には敗北としか見えないこと、自分自身が打ち負かされることの向こう側にこそ、真の平和と希望があることを主イエスの十字架は私たちに伝えている。平和を生み出す働き、それは私たちが自らの正しさ・理想・純粋さを貫き通すことではない。むしろ、そうした私たちの有り様が、神の国との出会いを通して根底から変えられることによって、初めてこの世界に、神の愛を伝えることが、平和をもたらすことができるのである。

2011年8月9日火曜日

[説教要旨]2011/8/7「平和の種」マタイ13:24-35

聖霊降臨後第8主日・平和の主日

初めの日課 イザヤ 44:6-8 【旧約・1133頁】
第二の日課 ローマ 8:26-30 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:24-35 【新約・25頁】

 先週の日課に引き続き、天の国のたとえを主イエスは語られる。「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」がここでは語られている。そのいずれも、わかりやすいとは言えないものばかりである。主イエスはこれらのたとえを群衆に対して語られたことが34節で確認されるが、同時にそれらは「隠されている」ことであると35節で示唆されている。
 私達人間は、何が神のみこころであり、何が神の計画であるのかということを、知ることが出来ない。それにもかかわらず、時として、「どこに神はいるのか」「神がおられるならば、なぜこのような悪が存在するのか」と自分に問い、「このような悪が存在するのなら、神はおられない」と結論し、ただ絶望へと向かう。まさにその意味で、主イエスにおいて実現している天の国は、私達の目からは隠されているのである。
 しかし、主イエスは、そのような世界のただ中にこそ、平和の福音を告げられた。そして、その十字架によって、敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにされた。主イエスの平和の福音は、私達が守るべきと思っていた私達の常識と価値観を守るのではなく、むしろ揺さぶり、破壊する。
 毒麦のたとえが語るものは、私達人間の目に見えるところのものによって断罪することは出来ないということである。そしてからし種・パン種のたとえは、その最初の姿の中には、最終的な姿を見出すことは出来ないということが語られている。
 神の働きはいつでも私達が望むような姿で私達の前に現れる訳ではない。しかし、それは私達の間で確実に存在していることを主イエスは語られる。
 天の国に望みをおき、地上の平和を望むということ、それは決して単に今私が思い描く安全・安心を願うことなのではない。それはむしろ、この地上において、見えない神の働きを信頼することなのである。それは、人の思い描く純粋さや豊かさを一部断念することでもある。しかし、それこそがまさに、自分の十字架を背負って、主イエスの後に私達が従うことであり、それこそが平和の種をまき続ける働きなのである。
 その平和の種はからし種のように小さく空しいものであるように私達の目には映る。しかし、主イエスにおいて始まっている神の働きは、私達の思いと理解を超えた結末を準備へと私達を導く。

2011年8月4日木曜日

[説教要旨]2011/07/31「希望の種をまく」マタイ13:1-9

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 イザヤ 55:10-11 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 8:18-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイ 13:1-9 【新約・24頁】

 マタイ福音書のなかでもこの13章には「たとえ」という言葉が集中して用いられている。それは、この13章の主題が天の国について、主イエスがこの地上に宣べ伝えたことであることと深い関係がある。天の国について語るためには、この「たとえ」という方法が、最もふさわしかったのである。そしてまた、12章では主イエスに従う者と敵対する者とのコントラストが鋭く描き出されていたが、この天の国についてのたとえが語られるに至って、そのコントラストはさらに強調されることとなる。
 本日の福音書では、「種まきのたとえ」が語られている。このたとえにおいて注目すべき場、失われる種の割合の多さである。実に蒔かれた種の4分の3は失われてしまうことになる。小麦の収穫倍率は現在でこそ15~20倍であるが、中世まではせいぜい3倍程度に過ぎなかった。したがって、実際にこのたとえの通りであれば4分の1減収する結果にしかならない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけ、種まきなど無意味である、そのように通常であれば考えることとなる。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
 もし私たちが、自分の目に見える領域、世の常識で予想することのできる領域の中で考えるらならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかに期待される収穫の取り分を少しでも多くしようと奪い合うしかない。あるいは、その働きの空しさに倦み疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。
 しかし、主イエスは、種を蒔き続けられた。この地上での主イエスの歩みは、たしかに十字架の死という結末を迎えた。それはまさに、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語っている。けれども、主イエスの歩みは、十字架の死では終わらなかった。たとえ失われるものが多かったとしても、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示しているのである。
 私たちが、自分の意志や知識そして思いのみによって未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスが語られる天の国は私たちにとって未知の領域、神の働かれる領域である。見える・予想できる領域ではなく、見えない・未知の領域にこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがある。

2011年7月28日木曜日

[説教要旨]2011/07/24「共にある安らぎ」マタイ11:25-30

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 イザヤ 40:26-31 【旧約・1125頁】
第二の日課 ローマ 7:15-25 【新約・283頁】
福音の日課 マタイ 11:25-30 【新約・20頁】

 本日の福音書において主イエスは、ご自身が救い主であることは「知恵ある者や賢い者」には隠されている、と語られる。ここでいう「知恵ある者や賢い者」とは、主イエスを受け入れることのできなかった、ユダヤ社会の指導者達を示唆している。正しくあることのために、そして救いにふさわしくあるために、ユダヤの指導者達は様々に律法を解釈し、その遵守を人々に課していた。彼らにとってみれば、何が正しく、何が間違っているかを判断するのは、自分達をおいて他ならなかった。自分たちの主張こそが、神の言葉を正しく伝える唯一の正解であると確信していた。そして、そうであるからこそ、彼らのその立場を批判し、自分達の正しさを否定する主イエスを、彼らは受け入れることが出来なかったのである。
 主イエスは、「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密は、「幼子のような者」に示されたと語られる。「幼子のような者」、それは知恵も賢さもない者、未熟で弱々しい存在である。自分の力だけでは正しいことも十分な働きも出来ないような者のことである。しかし、主イエスが救い主であるということ、この主イエスにおいて神の国は始まっているということは、この「幼子のような者」に示されていると主イエスは語られる。それはまさに、世の人々の価値観とは真っ向から対立するものであった。
 十字架の直前となる23:4では、神殿の境内で主イエスは「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と語られる。これに対して、主イエスは本日の福音書で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と語られる。実に、主イエスは、私たちに重荷を課すのでも、重荷を担うことが出来ないことを責めるのでもなく、私たちと共にその荷を担って下さるのである。これこそが「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密に他ならなかった。担えないこと、応えることができないことを責め立てるのではなく、主イエスが共に担ってくださるのだということ。それはまさに、幼子のように弱く、足らざる者だけが知ることの出来る安らぎの意味なのである。そして、そのような者だけが、主イエスに学び、主イエスに従うことが出来るのである。
 主イエスに従い、主イエスに学ぶということ。それは自らの考える正しさを人に課し、その重荷を背負いきれないことを責め、断ずる事なのではない。そうではなく、主イエスが示されたその柔和と謙遜を学び、私たちもまた、誰かと共にその重荷を分かち合うことに他ならない。そしてその時まさに、主イエスは私たちと共におられるのであり、その時まさに私達自身救いと安らぎを得るのである。

ルーテルとなりびと: 支援活動報告会を7月30日(三鷹)と7月31日(千葉)で行います![7/30]

7/30(土)14時より、ルーテル学院大学ブラウンホール152教室を会場に、ルーテルとなびとスタッフ遠藤さんをお迎えして震災支援活動の報告会を行います。
是非ご参加下さい!

詳細は下記サイトをご覧下さい。

ルーテルとなりびと: 支援活動報告会を7月30日(三鷹)と7月31日(千葉)で行います!: "急遽、首都圏にて、現地スタッフの遠藤による報告会を開催することになりました。 ぜひ、お集まりください。"

2011年7月26日火曜日

8-9月の週日の集会について[8/1-9/8]

水曜11時からの聖書の学び、木曜15時からのキリスト教入門は、8/1から9/8までお休みとさせていただきます。
9/14(水)11時の聖書の学びから再開いたします。

2011年7月22日金曜日

[説教要旨]2011/07/17「命を得る」マタイ10:34−42

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 28:5−9 【旧約・1229頁】
第二の日課 ローマ 6:15−23 【新約・281頁】
福音の日課 マタイ 10:34−42 【新約・19頁】

 本日の福音書において、主イエスは派遣される弟子達に向かって語られるその文脈の中で、ご自身について「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と語られる。その言葉は、限られた12人にのみ向けられたのではなく、聖書を通して、私たちに対しても向けられた言葉である。そして、主イエスはまさに厳しく私たちの心を貫く言葉「わたしは敵対させるために来たからである」「こうして、自分の家族の者が敵となる」を語られる。
 「家族が敵となる」ということに、私たちは大きな戸惑いを憶え、それはむしろ、私たちが信仰を通して願うことと逆なのではないか、家族が信頼の絆で結ばれることこそ、私たちが信仰に望むことなのではないか、と考えるそのように考えると、たしかにこの主イエスの言葉は、私たちにとっての大きな躓きとなる。しかし一方では古代社会において、家族は単に親子の情愛のつながりだけを意味するのではなく、社会における経済活動・生産活動の拠点であり、資産の保有の主体であった。そしてそれは、当然のように最も重視され、守られるべきものであることは、あたりまえのことであった。そしてそれゆえに、経済・生産活動を保全し、資産の保有を脅かすことを避けるためには、持てる者への持たざる者の隷属、役に立たない者の排除、他者を利用し奪い取ること、そうしたもの全ては「当然」で「あたりまえ」のこととして、見えないままとなるのであった。
 主イエスは、「預言者」、「正しい者」、そして「この小さな者」を同じ価値あるものとして、弟子達に、そして私たちに語られる。預言者・正しい者が、その働きと資質に応じて評価されることは私たちの価値基準に照らしても、決して理解に苦しむものではない。しかし「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちの価値を揺るがす。ここで語られていることは、私たちの基準によって誰かの働きと資質をその大きさ・功績によって評価することなしに、それらを全て超えて、「受け入れる」ことの重要さを物語っているのである。
 主イエスを愛するということは、疑いもせずに私たちが「当然」「あたりまえ」と思って押し隠しているものを切り裂き、明らかにする。隷属、抑圧、排除、他者を利用し奪い取ること。それらはまさにこの地上を蝕む闇であり、主イエスに従うことが真っ向から敵対するものである。まさにその意味で、私たちが自分の十字架を担うということ、それは私たちが、この地上においては「当然」「あたりまえ」として隠され見えなくされているものに対して、私たちが主なる神への信仰に支えられて対決していくことなのである。それはまさに、十字架を通して、私たちが真の命を得ることに他ならないのである。
 自らの十字架を担うということ、それは私たちが、私たち自身の「当然」「あたりまえ」を超え出て、この地上において価値無きものと見なされるものをこそ受け入れることであり、それによってはじめて私たちはい、真の命を得るのである。

2011年7月13日水曜日

[説教要旨]2011/07/10「だから、恐れるな」マタイ10:16-33

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 20:7-13 【旧約・1214頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11 【新約・280頁】
福音の日課 マタイ 10:16-33 【新約・18頁】

 本日の福音書では、主イエスは、宣教のためにご自身の代理として派遣する弟子たちに向かって励ましの言葉を語る。その主イエスの言葉は直接には弟子たちに向けられているが、同時に、今聖書を読む私たち一人一人にもまた向けられている。けれども、私たちは自分自身のなせる事の小ささに嘆くしかない存在でしかない。主イエスの代理である使徒たちへの励ましは、そのような私たちにふさわしいものと言えるのだろうか。
 この世界に生きる私たちは、好む好まざるに関わらず、様々な対立・憎悪によって取り囲まれることがある。無理矢理にせき立てられ、問い詰められ、非難される。そのような中では私たちは自分が何を語ればよいのか、言葉を失ってしまう。そして自分自身など価値無きものであると思うしかなくなってしまう。それは、主イエスの弟子たちと変わることのない、私たちがおかれた現実である。まさにその意味では、狼の群れに取り残された羊のように罵られ追い詰められる全ての者に対して、主イエスはこの言葉を語られている。
 主イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語る。しかし、それはかならずしも非難と対立の攻撃の中で留まり続けるだけなのではない。なぜならば、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」という言葉が続けられているからである。したがって「耐え忍ぶ」とはむしろ、自分に向けられた憎しみに対して、自分達がされた通りに仕返しすることを拒むことなのである。そのためには、時にその憎悪から逃げ出してしまうことがあったとしても、そのことで、私たちは自らの尊厳を失う必要はない。なぜならば、それがむしろ主イエスの言葉に従うことであると、この箇所は私たちに告げているからなのである。
 自分に非難を向ける相手が、たとえどれほど権威と権力を持っていたとしても、どれほど自分自身の弱さに嘆いたとしても、「恐れてはならない」と主イエスは語られる。なぜならば、魂を滅ぼすことが出来るのはただ主なる神だけだからである。二羽で1アサリオンの雀の一羽でさえ、神の許し無しに命を落とすことはない。一羽の雀の市場価値は、現代的に言えば数百円というところであろうか。たとえ私たちが、いかに自分に価値が無いように思えたとしても、その私たちを神は見守って下さることを主イエスは語られる。
 主イエスの励ましの言葉、それは罵られ傷つけられるばかりで、弱く価値無き者と自分を思うしかない私たちに対して向けられた言葉である。そしてその言葉が真実であることが、主イエスご自身が、傷つけられ、罵られ、十字架においてその命を失ったにも関わらず、その死から甦られたことによって明らかにされたのであった。私たちが傷つき、弱り果てる時、主イエスは私たちの最も近くにおられる。だから、弱く小さい私たちは、恐れることはないのである。

2011年7月8日金曜日

ボランティアバス第3弾!宮戸島応援障子貼りとバーベキュー大会 まだ空席あります[7/10-12]

震災支援センター・ルーテルとなりびとでは「ボランティアバスツアー」第3弾を7/10-12に企画しています。
これは海苔加工場の清掃をさせていただいた東松島市宮戸島の西部漁業組合さんからの、震災からまだ一度もしていないバーベキュー大会を開いてみんなで楽しみたいとの声を受け、企画されました。障子貼りや津波が襲来した浜辺の清掃も行います。
まだバスには数名分の空席があります。是非奮ってご参加下さい!


詳細はこちら

2011年6月30日木曜日

[説教要旨]2011/06/26「キリストについてゆくと」マタイ9:9−13

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 ホセア 5:15−6:6 【新約1409頁】
第二の日課 ローマ 5:6—11 【新約・279頁】
福音の日課 マタイ 9:9−13 【新約・ 15頁】

 新約に登場する徴税人はおそらく、道ばたで通行税・関税を徴収する者のことを意味していた。その多くは、ローマ帝国から徴税の職務を請負った元締めの下請けによって集められたその日雇いの労働者のような立場であったと考えられる。彼らは、日雇いの仕事であれ、無いよりはましであると思わざるをえないような、不安定な生活を余儀なくされていた。
 徴税人マタイは、収税所にいたところを、主イエスに呼び出され、その後に従ってゆく。その動きはダイナミックで感動的ですらある。なぜ彼は立ち上がって、主イエスの後をついてゆくことを決断できたのか。その理由について聖書は沈黙し、ただそこで起こった出来事だけが語られる。
 徴税人マタイが主イエスの弟子となったことは、ただ彼一人の出来事では終わらなかった。主イエスが彼と共に食卓を囲んでいる時、徴税人や罪人も大勢やってきて同席していたと聖書は語る。マタイの決断の結果は彼一人だけではなく、彼と同じ徴税人たち、そして「罪人」と呼ばれた人々が、主イエスのもとに集うことのできる道筋を創り出したのであった。罪人と呼ばれた人々は、言葉通り「犯罪者」を意味すると言うよりも、債務のために土地を失い生活の糧を求めて都市へと流れてきた人々が多かったと思われる。街の中に生活の基盤を持ってはいない彼らは、人々から「罪人の仕事」として厭がられる仕事であっても生きてゆくためにはせざるを得ない者たちであった。人々から蔑まれ、厭まれていた彼らを、主イエスは共に食卓の席に招かれる。マタイがなした決断は、彼と同じように社会の周辺へと追いやられ、厭まれ、蔑まれた者たちに、共に食卓を囲む絆を回復することとなった。それはまさに、主イエスが何のためにこの地上に与えられたのかということを物語っていた。
 一方、その様子を見て非難する者たちもいた。宗教的な指導者が、徴税人・罪人と食卓を囲むということは彼らが体験したことのないことであった。彼らにとっては、その規範を守ることこそが、神の民にふさわしいことであった。自分達の体験の中で正しいとされてきたことを保持することこそが、信仰的な生活をおくることに他ならなかった。そのような彼らにとって、徴税人と罪人と食卓を囲む主イエスは、およそ指導者にはふさわしくない、間違った存在であり、その食卓の交わりもまた考えられないようなものでしかなかった。それゆえに、自分達の体験と正しさを守ろうとした者たちは、マタイのように、主イエスに従ってゆくことが出来なかった。
 キリストについてゆくと、私たちは、自分の体験の中で受け取ってきた様々な常識から、出て行かなくてはならない。それは私たちにとって、深い困惑をもたらす。しかしもし立ち上がって、キリストの後に従うならば、私たちはもはや孤独の中で絶望に沈む存在ではなく、喜びと希望を分かち合う絆へと導かれるのである。

2011年6月20日月曜日

ルーテル三鷹教会バザーのご案内(再掲)[06/26]

ルーテル三鷹教会の今年度のバザーは

6/26(日)12-14時 ルーテル学院大学学生食堂にて


に行われます。
なお、この日の礼拝は10時より子どもと大人の合同礼拝となります。

みなさまのお越しをお待ちしております。

送信者 JELC-MITAKA

[説教要旨]2011/06/19「いつもあなたがたと共に」マタイ28:16-20

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【新約・1069頁】
第二の日課 2コリント 13:11-13 【新約・341頁】
福音の日課 マタイ 28:16-20 【新約・60頁】

 本日の福音書は主イエスの大宣教命令とも呼ばれている箇所である。この全世界の人々をキリストの弟子とするために、使徒たちが派遣されたことが記されている。
 使徒達が最初に主イエスについて来た時には、自分達がそのようにどこかの誰かのために派遣されるということなど予想してはいなかったと思われる。ある者はイエスの人格にふれ、ある者はイエスの力にあこがれ、ある者は自分自身の将来計画のために、イエスという人物と共に旅を続けたのであった。しかし、十字架において主イエスが処刑されたことで、弟子たちのそれぞれの期待も思いも全て断絶することとなってしまった。いわば、主イエスの地上での歩みが終わると同時に、弟子たちが思い描いていたそれぞれのストーリーはそこで終わってしまったのである。
 しかし復活の出来事を福音書が語る時、弟子たちの物語には続きがあることが示される。復活そして顕現の出来事を経て、今度は主イエスの物語を弟子たちが受け継いでゆくのである。主イエスのストーリーは弟子たち自身のストーリーとなってゆくのである。
 もちろん、弟子たちの中には「疑う」ものもいたと福音書は告げている。物語が未来へと続いていくことよりも、現に今断絶することの方が、私たちに迫ってくる現実として遙かに大きな力をもっているからである。目の前にある様々な喪失・断絶・困窮は、自らの力ではどうにも抗うことの出来ない程の力をもって、私たち疑いへと追いやる。
 疑いの中で、私たちはあらゆるものを、自分をその困難から救い出すことの出来るものではないかと試すものの、どれ一つとして、そもそも願っていたように自分の物語を作り出すことが出来ないことに私たちはやがて気付かざるを得ない。そのように全て疑い尽くす時、疑いは絶望へと変わる。
 しかし、そうであるからこそ、復活の主イエスは語られる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」。私たちの目の前に迫る現実を凌駕するほどの権能・力をもって、主イエスは弟子たちを派遣する。自分の思いと計画のために生きてきた弟子たちは、復活の主によって、ここにはいない「誰か」のために押し出されてゆく。そしてその時、弟子たちはもはや、自らの力の小ささに絶望することはない。なぜならば主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られるからである。
 自分の思いと計画を超えて誰かのために生きる時、主イエスの物語は、私たち自身の物語へと引き継がれてゆく。それは私たちと共に、主イエスが共におられることなのである。

2011年6月14日火曜日

被災地清掃軽作業短期ボランティアツアーのご案内[6/20-22]

軽作業のボランティアツアーが企画されました。
海苔工場の雑巾がけなどの作業をし、また被災地の視察、そして松島の温泉旅館に宿泊するボランティアです。
  東京より、マイクロバスで往復します。
  6月20日~22日
  参加費18,000円(2泊5食、交通費込み)

詳細はこちらから