2009年12月10日木曜日

[説教要旨]2009/12/6「荒れ野で叫ぶ者の声」

待降節第2主日

初めの日課 マラキ 3:1-3 【旧約・1499頁】
第二の日課 フィリピ 1:3-11 【新約・361頁】
福音の日課 ルカ 3:1-6【新約・105頁】

 12月に入り、クリスマス商戦に向けた街の中のイルミネーションはいっそう華やかになる。たしかに、クリスマスは「光の季節」であり、喜びの時である。しかし、キリストの光が届けられるのは、華やかな時と場なのではなかったそれは、この世の闇の最も深い時に、その闇の最も深いところへと届けられたのであった。
 主イエスの「先駆者」である洗礼者ヨハネは、荒れ野で神の言葉を受け、悔い改めを世に呼びかけた。洗礼者ヨハネが登場した時代、それは決して平穏でも豊かでもなかった。一部の権力者は私腹を肥やすことにのみ邁進し、多くの人は、生活の糧を得るための土地や財産を失い、奴隷や流浪の民となっていた時代であった。そのような中で、ヨハネは世に対して、差し迫った神の裁きを訴え、悔い改めを呼びかける。そして洗礼者ヨハネが悔い改めを呼びかけた荒れ野、それはかつて、イスラエルの民が40年にわたって彷徨し、その苦難を通して神の民へと変えられていった場所であった。洗礼者ヨハネは、その荒れ野から、神へと立ち返ることを呼び掛ける。荒れ野で叫ぶ者の声、それは私達に今一度原点へと立ち戻ること、すなわち、世の富や権力ではなく、主なる神へと立ち返ることを呼び掛ける。
 しかし、その洗礼者ヨハネが待ち望んだ方、主イエスは必ずしもヨハネの期待していたように、世を裁き、正義を打ち立てる存在ではなかった。むしろ、それはその期待をはるかに超える存在であった。ルカ7章では、獄中に捉えられたヨハネは使いのものを送って、「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせている。その問いに対して主イエスはこう応える。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
 主イエスがもたらされたもの、それは、人間が思う正しさをはるかに超えたものであった。主イエスがもたらされたもの、それは救いと命であった。主イエスにとって、誰が正しいか、誰が間違っているか、ということは全く問題ではなく、ただ、人が喜びのうちに生きることができることであった。まさに、主イエスによって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことが出来るのである。
 やがて主イエスは、十字架の死へと向かい、その死から甦られることによって、この世の最も深い闇に光を確実なものとされた。クリスマスに私たちが見上げる光、それはまさにこの十字架の光なのである。

0 件のコメント: