2010年8月27日金曜日

[説教要旨]2010/8/22「神の国の宴への招き」ルカ13:22-30

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 イザヤ 66:18-23 【旧約・ 1171頁】
第二の日課 ヘブライ 12:18-29 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 13:22-30 【新約・ 135頁】

本日の福音書の冒頭では、主イエスがエルサレムへの旅を続けていることが確認される。主イエスのエルサレムに向かう旅の目的地は十字架と復活に他ならない。そして、それこそが救済の出来事であるということは、福音書の最後になって示されている。しかし、旅の途上においては、エルサレムにおける主イエスの死と復活が救いと結びついていることを理解する者はまだいなかった。町や村を巡り歩いて教える主イエスに、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねる。救いの出来事は本来神の働きである以上、私たち人間が予め定義することなどは出来ない。しかしそれでも、救いの出来事を少しでも予め知っておきたいという欲求を人は抑えることが出来ない。一つの例として、人は「数」によってその出来事を具体的に描こうとする。そしてこの「数」についての問いに対して、主イエスは「狭い戸口」の譬えを示され、「入ろうとしても入れない人が多い」と答えられる。この答えは一見すると、質問者への直接の答えであるように思われる。しかし実際にはその視点はくい違っている。質問者は、客観的な数・割合を問うているにすぎないのに対して、主イエスは、「入るか入らないか」という主観的な視点に立って答えているからである。この「狭い戸口」は25節では「閉じられた戸」の譬えによって、その狭さは空間的だけでなく時間的な短さも示されることとなる。この狭さ・短さを前にして、救いの出来事においては失われる者は確かに多く、危機は小さくないことが明らかにされる。しかもそこでは第3者的に離れた場所からその出来事を観察することは出来ず、主体的な関わりを避けることは出来ないと主イエスは、この質問者に答え、そして同時に読者である私たちに呼びかけている。そこで同然のように私たちは、「では誰がその狭い戸口から入ることが出来るのか?」という不安と疑問を抱くこととなる。
開いた戸の狭さ・短さが強調され、「お前たちがどこの者か知らない」という厳しい拒絶の言葉が挙げられる一方で、29節には全く逆の、世界中からどこから来たのかわからない人々がやって来て、神の国の宴会の席に着く様子が描かれている。そこでは出自も身分も財産も問われることのない、徹底した開放性が示されている。果たして「戸」は狭いのだろうか、それとも開け放たれているのだろうか。
主イエスのエルサレムにおける十字架は、当時の社会の価値観に照らして客観的に見るならば、恥ずべき挫折に過ぎなかった。しかしそれこそが救いの出来事であることを聖書は語る。まさに救いの出来事は、私たちの思いと理解を超えた、神の業に他ならないのである。その神の業を、人が自らの手で確かなものにしようとする時、自分たちのための「宴の席」、招くに値すると私たちが判断した者のための宴席を作ろうとする。しかし実はそのことによって、人は自らその戸口を狭めてしまうのである。むしろ逆に、私たちが自らの「招かざる客」に出会うことを選ぶ時、私たちもまた東から西から、南から北から来る人々と共に、その宴の席へと向かっているのである。

2010年8月18日水曜日

[説教要旨]2010/8/15「分裂を越えて」ルカ12:49-53

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 12:1-13 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-53 【新約・  133頁】

 本日の福音書で主イエスは、前節に引き続いてまず弟子たちに向かって語られ、ついで54節以下では彼らを取り巻く群衆に向かって語られる。そして、弟子たちに向けられたこれらの言葉に、現代の読者は大きな戸惑いを憶えずにはいられない。
主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」、また「あなたがたがは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」と語られる。一読すると、それらは私たちが考える、主イエスのあるいはキリスト教のイメージを裏切るもののように思われるし、何よりもこれまで主イエスが語ってきたことと矛盾するように見える。さらに54節以下で群衆に向かって語られる部分に目を向けると、「時を見分ける」ことについての警告が語られた直後に和解の勧告が語られていることが、この困惑をさらに大きなものにする。一方で火と分裂をもたらすことを語りながら、なぜ和解を勧めるのだろうか。
 火が地上に投じられるという言葉は、たしかに創世記で語られるソドムとゴモラに起こった「滅び」あるいは黙示録で語られる「裁き」のイメージを私たちに呼び起こさせる。しかし、聖書の全体を通して見るならば、「火」とは神の臨在の徴でもあった。とりわけ出エジプト記では、燃える柴のうちに神はモーセの前に現れ、また「火の柱」によって夜の闇の中を歩む民を照らされた。またギリシアの影響を受けた地中海文化圏では、火は神から人間に与えられた知恵の象徴としても捉えられていた。その意味で、主イエスが地上に火を投ずると言うこと、それは救済であれ裁きであれ、主イエスが地上に来られたのは神の力をこの地上にもたらすためであることを示している。そしてその神の力は、主イエスが受けられる苦難と切り離すことは出来ないのである。
 主イエスの受難を通して、神の力がこの地上に現されること、それはまさにキリスト教会が伝える「福音」(良いメッセージ)に他ならない。そしてその福音は、神が平和と調和とをこの地上にもたらされることと切り離すことが出来ないはずである。にも関わらず、主イエスは地上に平和をもたらすために来たのではないと語られる。エレミヤ書では神の怒りを前にして、偽預言者が人々に平和が与えられ現状が維持されることを約束し、むしろ真の預言者エレミヤは、人々に苦難と分裂が襲うことを訴える。しかしそれは神の力がこの地上に及んで、うわべだけの偽りの平和ではなく、真の意味での平和が実現するために、通らなければならない道であった。
 現に、真の平和は未だこの地上に実現してはいない。私たちは闇の支配するこの地上において分裂と対立とに苦しみ悶えながら、神の国を待ち望むのである。しかし、私たちの歩む闇夜を主イエスの十字架と復活の出来事が照らされている。その福音(良いメッセージ)は、あらゆる分裂を超えて、真の和解と平和と調和をもたらすのである。平和について思いを向けるこの8月15日、真の平和とは何かということを私たちが聖書から聞くことが求められている。

[説教要旨]2010/8/8「神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 コヘレト 2:18-26 【旧約・ 1036頁】
第二の日課 コロサイ 3:5-17 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・  131頁】

「自分らしく生きる」ことは、今日の教育の商品価値でもある。しかし「自分らしさ」とは何であろうか。自分の思うままに、自分の人生をコントロールできること、そのために必要な資源を思うままに消費できることが、「自分らしく」生きることなのであろうか。もしそうであるならば、富むこと、力を持つこと、それを追求することのできる強いエゴを持つことこそが「自分らしく生きる」ためには不可欠であるということになる。そして、そのような者として生きることに価値を見いださせることが、「自分らしく生きる」教育の目的ということになる。
本日の福音書の日課は、主イエスが、大勢の群衆達を前にしつつ、「まず弟子たちに話し始められた」(12:1)中での出来事として語られている。それは、「主イエスの弟子であること」の本質を伝える重要な機会であった。しかし、この弟子たちへの教育は、群衆から遺産を巡る調停についての判断を求められたことによって中断する。この問いかけに対して主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と厳しく反応した後、「所有」に関する教えを34節まで語られる。従ってそれは直接には群衆からの問いかけに応えているが、それはあくまでも、弟子たちに対して「主イエスの弟子であること」の本質を伝える文脈の中にあると言える。それは、主イエスに直接したがった、2000年前の「弟子たち」に対して語られた言葉でありながら、同時に今聖書を前にしている、「読者」である私たちに対して向けらられた言葉でもある。主イエスは私たちに対して、「所有」すること、すなわち、富むこと、力を持つこと、それを追求することと、主イエスの弟子であることの関係を語っているのである。
「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。この金持ちは、自分の有り余る資産をどのように自分の手元に留めておくかについて腐心する。それは自らの所有する物によって、自分自身の人生を確かなものにし、自分自身の人生の行く末を自分でコントロールすることが出来るようになるためであった。それはいわば、この金持ちにとって、自分自身の思い描く未来を実現するために、彼が「自分らしく生きるため」の道筋であった。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ」という呼びかけが投げかけられる。「今夜、お前の命は取り上げられる」。つまりこの金持ちが、どれほど自分自身の人生をコントロールし、「自分らしく生きる」ことを求めたとしても、それは彼が自分の命をコントロール出来るということなのではないのである。人は誰一人、自分自身の命をコントロールすることなど出来ない。私たちはただ命の創造主である神から命を与えられて生かされている存在に過ぎないからである。
「お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」。神によって生かされている私たちにこの問いかけは投げかけられている。「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」(33節)と主イエスは語られる。主イエスはご自身の命を私たちの救いのために用いられた。その主イエスの弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが自らを他者のために用いていくことなのである。

2010年8月7日土曜日

[説教要旨]2010/8/1「和解をもとめて」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日・平和主日

初めの日課 創世記 18:16-33 【旧約・  24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・  127頁】

 本日の日課では私たちが毎週の礼拝の中で用いる「主の祈り」について語られる。主イエスが教えられたこの祈りは、私たちの生活の目に見える部分と、また私たちの目には見えない部分の全体にわたって、神の守りと恵みが満ちあふれることを願うものであった。その前半では、主なる神に関する祈願があり、「御国が来ますように」ということを私たちは祈る。「み国が来る」とは、神の力がこの地上を覆う、すなわち神の愛がこの地上に満ちあふれる、そのような世が来ることである。しかしこの願いを祈るとき、私たちは一つの疑問にぶつかる。「神の国」が来るということは、私たちの願いでどうこうできることなのだろうか、私たちの願いによって神の国が来るか来ないか、そのことを決することができるのか、そのようにそのような問いを前にすることとなる。しかし実は、そこにこそ、祈りの基本とも言うべき姿がある。祈りとは、私たちの思い通りに神を動かそうとすることなのではない。祈りを通じて、私たちが、神の守りのうちに生きることができるようになること、それこそが祈りの本質なのである。主なる神がそのみ国を来たらせてくださる、そのことに私たちが希望を置くことこそ、この祈りの本質なのである。
 後半では一貫して「わたしたち」が問題となる。そこでも前半同様、「自分に負い目のある人を皆赦しますから」、「わたしたちの罪を赦して下さい」という願いを前にして、問いにぶつかることとなる。果たして、私たちが本当に「皆赦す」ことができるのか。そしてさらに、それは「わたしたちの罪を許して下さい」という時の条件なのか。そうであるならば、私は永遠に赦すことも、赦されることも出来ないのではないか、そのような疑問を持たざるを得ない。しかしここにも、この祈りの本質がある。それはまさに、「神の国が来る」ことと同じく、「私」が赦すか、そしてそれは赦される条件に達しているのかということなのではなく、主なる神が私たちの間に働かれるからこそ、私たちの間に赦しが実現するのである。それは「神の国が来る」ということと同じく、神が働かれるならば、どのように不可能に見えるところであっても、そこに赦しと和解が生み出されること、そこに私たちが希望を起き続けることができるということこそが、この祈りの本質なのである。
 8月第1日曜はルーテル平和主日である。日本という場所を考える限り、たしかに半世紀以上に渡ってそこには戦争は起こっていない。しかし今日の世界では、平和は一つの国、一つの地域だけの問題ではないし、単に戦争状態に無いということだけの問題でもない。真の平和とは、憎悪と敵意とか、和解と赦しへと置き換えられてゆくプロセスの全体である。キリスト者は、そこに神の働きがあることを祈る。キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」た(エフェソ2:16)からである。だからこそ、人の目にはどれだけ絶望的に見えたとしても、私たちはそこに希望を見いだし続けることができるのである。