2013年7月25日木曜日

夏季の主日礼拝の場所について[07/14-08/31]

熱中症対策のため、夏季はチャペルではなく大学教室で礼拝を行う場合があります。
当日朝、礼拝堂にその日の礼拝堂の場所を掲示しておりますのでご確認下さい。
(今年度は原則として8月末までの間は105教室を利用する予定です。)

なお教会員の皆様への配布物は礼拝堂の週報ボックスをご確認ください。

[説教要旨]2013/07/21「しかし必要なことは」ルカ10:38-42

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 創世記 18:1-10a 【旧約・ 23頁】
第二の日課 コロサイ 1:15-28 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:38-42 【新約・ 127頁】

 本日の福音書を読む時、なぜ主イエスは、マルタの献身的な奉仕よりも、マリアの態度の方を評価したのかという疑問が浮かぶ。しかし主イエスは、本当にマルタの行為を価値の無いものと見なし、マリアを良しとしたのだろうか。先週の日課では、律法の専門家である男性に主イエスは「行って、実行するように」命じられた。一方で本日の箇所では、もてなしのために立ち働く女性に座って聞くように命じられる。確かにこの二つの戒めは矛盾するように思われる。しかし実は、ここではそのどちらもが主イエスに従う者、あるいは群れにとって重要な態度であり、むしろその双方をつなぐための根源を問いかけていると言える。
 マルタとマリアの二人の振る舞いは、その間に優劣を付けるべきものというよりも、主イエスに従う教会の様々な姿、福音のメッセージを聞き、そのために奉仕する教会の働きを象徴しているといえる。したがってここで問題となっていることは、奉仕をするべきか、そうではないのか、ということではない。そうではなく、もっとも重要なことはもっと根源的な「ただ一つ」のことである。すなわち、あらゆる奉仕の主体は主イエスご自身であり、消え去ることも取り去さられることもなく残るものは、主イエスの言葉だけだ、ということなのである。本日の箇所で問題となっているのは、二人の姉妹の行為の優劣ではない。むしろここで対比されているのは、全ての奉仕の主体と根源は「わたし」なのか、それとも「キリスト」なのか、ということに他ならない。
 主イエスではなく、行為する者自身がその奉仕の働きの中心にある時、私たちは自分が為す業が、計画通りに完成し、成果や結果を上げることを求める。しかしそうした期待は、たとえ一時的にはうまくいったとしても、遠くない将来には、必ず行き詰まることになることを私たちは知っている。なぜならば、私達が一時たとえどれほどのことを成し遂げたとしても、やがてそれはやがて古び、消え去るものでしかないことを知っているからである。そうした奉仕の一つ一つの本来の主体は、私たちではなく主イエスご自身なのである。そして同時に、それを完成させられるのもまた、私達ではなく、主イエスご自身なのである。だからこそ、不十分かつ未完で終わらざるを得ない業の全てを、私達は主イエスに委ねることが出来るのである。そして主イエスがそれらを完成して下さる時、それは決して古びることも消え去ることの無い、喜びを伝える業となる。
 奉仕の主体としてその完成を急ぐマルタは苛立ちを訴える。しかしマルタに主イエスは親しく語りかける。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」その言葉は、決してマルタを断罪するものではなかった。むしろマルタの心を癒し、満たし、彼女の為す業の全てを主イエスが引き受けられるための言葉であった。
 主イエスの言葉に聞き従うということを通してのみ、私たちは主イエスに結ばれ、主イエスによって私達が成し遂げられなかったこと、報いられなかったことその全てが完成され満たされる。そして、それこそが、私たちにとって必要なただ一つのことなのである。

夏季の週日の集会はお休みいたします[07/24-09/13]

7/24(水)-9/13(金)の間、週日の集会(聖書の学び、キリスト教入門)はお休みします。
9/18(水)より再開いたします。

2013年7月17日水曜日

[説教要旨]2013 /07/14「わたしの隣人とは」ルカ10:25-37

聖霊降臨後第8主日

初めの日課 申命記 30:9-14 【旧約・ 329頁】
第二の日課 コロサイ 1:1-14 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:25-37 【新約・ 126頁】

 本日の箇所は律法の専門家と主イエスとの対話である前半25-28節と、「善きサマリア人」の譬えを含む後半29-37節の二つの部分から成っている。前半の対話では、主イエスの知識を試そうと、律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけるが、逆に主イエスによって質問を投げかえされる。そこで「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」と彼が答えると、主イエスから「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と言葉を返される。主イエスを試そうとしたはずの律法の専門家が逆に試され、しかもさらにはそれを「実行」するように命じられる。つまりそれは彼がその教えを実践はしていないことを示唆するものであった。律法の専門家は食い下がり「わたしの隣人とはだれですか」と問い、それに応える形で主イエスは譬え話を語られる。
 この文脈を考慮すると、本日の譬え話は「永遠の命を受け継ぐ」ということは何かということ、また「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」とはどういうことかということ、そして「わたしの隣人とはだれか」という問いを結びつけていると言える。
 永遠の命を受け継ぐということは、決して不老不死のごとく今の私たちの状態がそのまま延長されていくことではない。そうではなく、私たちが神の国にふさわしいものとしての新しい命を創造され、その命を生きることを意味している。本日の前半の箇所はその新しく造られた命を生きることと、「神を愛する」ということは密接なつながりがあることを語る。私たちが神の国にふさわしいものとして新たに創造されるということ、それは私たちが地上の過ぎゆくいかなるものにも優って、私たちの命の源、私たちの喜びと希望の源である神を愛し、求めることなのである。
 そして神を愛し、求めるということは、他者との関係の中においてこそ実現することを、続く譬え話は語る。傷ついた旅人を見捨てていった者たちにとっては、自分の世界を守り、そこに留まることが神の国を求めることであった。しかし最後に登場したサマリア人は、民族的・政治的対立、自分自身の都合、そういったものを全て超え出て、目の前にいる傷ついた他者との間に関わろうとする。その姿こそが、永遠の命を受け継ぎ、永遠の命を生きる者の姿として私たちに示される。
 永遠の命を受け継ぐ者として、自分の世界を超えた神の愛へと開かれ、他者のために生きることを、私達は主イエスから求められる。それは何よりも、十字架の死によってご自分の命の全てを他者のために投げ出された、主イエス・キリストの姿を私たちが追い求め、そのみ後に従って行くことでもある。復活によって、十字架の先には永遠の命があることを、み後に従う私たちに主イエスは示された。
 キリストの教会がこの社会にあってその使命を果たすということは、他者のために生きる群れとなっていくことに他ならない。それはこの世の価値観から見るならば、何の利益にもならない、愚かな行為でしかない。しかし、あの主イエスの十字架がそうであったように、この世の価値観では計ることのできないような、大いなる恵み、永遠の命が約束されているのである。永遠の命へと向かう主イエスのみ後に従って歩みたい。