2013年3月16日土曜日

[説教要旨]2013/03/10「失われた者を見出す」ルカ15:1-3、11b-32

四旬節第4主日

初めの日課 ヨシュア 5:9-12 【旧約・ 345頁】
第二の日課 2コリント 5:16-21 【新約・ 331頁】
福音の日課 ルカ 15:1-3、11b-32 【新約・ 138頁】

 四旬節の間、復活の朝を待つ私たちは自らの歩みを振り返る時を過ごしている。しかし、たとえ自分自身としては努力していたとしても、その結果はとうてい「清く正しく美しく」とはいえないものであったことを、私たちは認めざるをえない。ならば、そのような私たちは復活の朝を迎え、イースターを祝うことはできないのだろうか。しかし、復活の朝が私たちのところに近づくことをとどめることはできない。喜びのメッセージは、私たちの事情とは関係なく、私たちのもとへと届けられる。
 本日の福音書は、「放蕩息子のたとえ」として良く知られた箇所である。しかしこの15章全体を見ると、そこでは、「失われたものの回復」が主題となっていることに気付く。そうした意味では本日の福音書箇所は「失われた息子の生還」とも言うべきものである。
 主イエスは、さまざまな喩え物語をガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上で、弟子達にあるいは主イエスを非難する者たちに対して語られる。15章の冒頭では主イエスの話しを聞くために、徴税人や罪人たちが近づいて来る。彼らは当時の宗教心や敬虔さの基準からするならば、枠の外にあると見なされた人々であった。その様子を見た者たちが、主イエスを「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難する。この非難に応えて、主イエスは三つの「失われたものの回復のたとえ」を語られる。それは、私たち人間の価値間を逆転させるようなものであった。いうならば、私たちの価値基準を超えた神の愛がこの地上に働く時、私たちの世界はどのように変えられるのかを示すものであった。そしてまたそれは、主イエスがエルサレムへと旅する歩みのその目的である、十字架と復活とが、私たちに示すものでもあった。
 本日のたとえでは二人の息子とその父親が登場する。遠い国で財産を使い果たした弟息子が故郷に戻った時、父親は失われた息子の生還を喜び、何も求めはしないかった。また後半に搭乗する兄息子は弟の帰還を喜ぶことが出来ず、家に入ることを拒否する。そのような兄に対して父親はわざわざ家から出てきて「一緒に喜んで欲しい」と語りかける。注意するならば、家に入ろうとしない兄息子もある意味で弟息子と同じように、失われた息子であることに気付くこととなる。しかしいずれにしても、ここで注目すべきは父親の姿である。父親は弟の事件においても、兄の事件においても父親は怒ったり叱ったり裁いたりせず、常に受容的である。そして受容に際しては、父親はどちらの息子の求めも聞き入れていない。弟息子の謝罪も全てを聞かずに、非常識ともいえる寛容さを持って父親は迎え入れる。この父親の非常識な態度は兄に対しても変わることがない。父に対する侮蔑とも言える兄の態度に対して、父親は「なだめて」「語りかけ」そして宴へ「招く」のです。自分から家を出てくる父親、なだめ、慰め、招く父親。たとえ話の中で描き出されるのは、失われた息子達に対して、一方的に差し出される父親の非常識とも言える深い愛なのである。それはまさに、私たちのためにその独り子をこの世に与えられた神の愛を指し示すのである。
 四旬節も後半へと入る。四旬節は、私たちが主イエスの十字架と復活を通して私たちに既に注がれている神の愛に気づく時でもある。主の愛のあふれる復活の朝を憶えて残された四旬節の日々を歩みたい。