2012年5月24日木曜日

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝のご案内

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝
2012年5月27日(日)10:30より

礼拝の中で三鷹教会聖歌隊による賛美が行われます。

[説教要旨]2012/05/20「キリストの喜びに満たされて」ヨハネ17:6-19

復活節第7主日

初めの日課 使徒 1:15-17、21-26【新約・ 214頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:9-13【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 17:6-19【新約・ 202頁】

 先日の木曜日は、主イエスの復活後、40日目に天に昇られたと聖書にあることから、主の昇天日となっている。それは、主イエスの十字架と復活の出来事、つまりイースターから、その50日後に弟子たちが聖霊を受けて、この世に福音を告げるために遣わされるようになった、聖霊降臨・ペンテコステの出来事へと、私たちは確実に歩みを進めていることを思い起こさせる。
 また本日はアジア祈祷日でもある。これは現在のアジア・キリスト教協議会(CCA)の前身EACCが1959年のペンテコステの一週間前の日曜日に誕生したことに由来している。今年のアジア祈祷日の主題は「神さま、私たちを和解を実現する者にしてください」である。今私たちをとりまくこの世の現実は、対立と憎しみ、暴力で支配し、奪い取ることがひしめいている。特に私たちが生きているこのアジア地域の中には、富める者と貧しい者、暴力的に支配する者とされる者、奪い取る者と奪われる者とが、隣り合わせになって生きている。こうした私たちの現実の中で、キリスト教会が世に証し出来ることを願い、アジアの諸教会は祈りを合わせる。しかしながら私たちはどこに、和解を実現する、その方法を、その原動力を見出していくことができるのだろうか。
 本日の福音書では主イエスとの別れの後にこの世の力によって脅かされることになる弟子たちのため、主イエスが長い祈りを捧げられている。十字架を前にして、主イエスは、弟子たちが神によって守られることを祈る。十字架・復活・昇天を通して、主イエスはこの地上での姿から、天つまり神の領域へとその有り様を移されるが、この世は主イエスに従う者に対してその猛威をふるおうとしているからである。しかし弟子たちには、この世において福音を分かち合う使命を与えられている。神は、その愛の故に、神に背くこの世を捨て去ることができず、主イエスをこの世に遣わし、新しい命への道を示された。主イエスに従う弟子たちは、その主イエスによって示された神の愛を、その新しい命の道を、この世に伝えるために残らなければならないのである。
 神が愛されたこの世に、主イエスが愛された者たちが派遣され、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛の偉大さ、その福音を伝える時、世はもはや神に背いたままではなくなる。この世の闇によって引き裂かれ、奪われ、絶望に突き落とされた者たちも、主イエスの祈りによって、喜びと希望に満たされ、そしてその喜びと希望をこの世に分かち合うことで、この世は変えられて行く。むろんそれは決して平坦な道のりではない。しかし主イエスは、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られる。主イエスによって示された神の限りのない愛の力は、その険しい道を、新しい命へと続く道とされるのである。
 たしかに私たちは、アジアの諸教会とその地域の直面している問題について、直接のつながりもなく、これまで全く知らなかったかもしれない。しかしたとえ私たちの間に大きな裂け目があったとしても、主イエスの喜びによって、その裂け目を満たされることを、そして引き裂かれたこの世において主イエスの証人として、和解を実現するものとして歩むことを祈り求めるのである。

2012年5月16日水曜日

[説教要旨]2012/5/13「キリストが友となられる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日

初めの日課 使徒 10:44-48 【新約・ 234頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:1-6 【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 15:9-17 【新約・ 198頁】

 本日の福音書は、主イエスとの密接な関係の中に置かれた私たちの生き方について語る。9節では「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」、つまり父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、たしかに父なる神は愛すべき方として御子イエス・キリストを愛されたが、その主イエスが私たちを愛されるということとは、同じ次元の事柄とは言えない。というのも、主イエスが私たちを愛されるのは、決して私たちが愛するに足る資格や力を持つからではないからである。その意味で、私たちが主イエスの愛の中にいるということは、決して当然のことではない。
 主イエスはさらに「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」という命令を語られる。しかし、それは主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら、主イエスの愛は、愛するに足らない存在である私たちのために、十字架においてその命を捨てて下さった、そのような愛だからである。いうなれば、それは条件など無い、無条件・無制限の愛である。だからむしろここで「わたしの掟を守るなら」とあることは、わたしたちが、窓を開いて太陽の光を受け止めるように、私たちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。
 主イエスの友となるということ、それは私たちがなにか人間以上の存在になるということではなく、私たちがキリストというまことのぶどうの木につながることで、人の目から見たならばたとえどんなにそれが不足し不十分であったとしても、その実を結ぶことを抜きにしてはありえないことなのである。その成果がたとえどんなに不十分であったとしても、私たち一人一人がこの世に主イエスの愛を伝える時、その成果の如何に関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛は主イエスにつながる私たちへと注がれているのである。
 かつて弟子たちに語られた主イエスの愛の戒めは、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちは自己中心的な、満たされることのない欲望の誘惑としての、この闇の力に取り囲まれている。その中で新しい永遠の命に留まり、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるためには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし、その道は主イエスが歩まれた今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが互いに愛し合うということであり、神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

2012年5月8日火曜日

[説教要旨]2012/05/06 「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

復活節第5主日

初めの日課 8:26-40 【新約・ 228頁】
第二の日課 4:7-21 【新約・ 445頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-8 【新約・ 198頁】

 若葉が生い茂っていく様子を目の当たりにする時、自然の生命力というものの偉大さを思わずにはいられない。翻って自らを省みるならば、あふれ出る命の循環の一部であることを拒み、私たちは、自分だけを満たし保とうとしているのではないか。その結果として、つながりと絆を見失い、また希望をも見失ってしまう者が溢れているのではないか、と思わずにいられない。
 本日の福音書で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語る。ぶどうの木につながっていなければぶどうの枝は実を結ぶことは出来ない。各部分がつながっているところでしか、命は循環しない。従って、主イエスがぶどうの木であるならば、枝である弟子たちは、自己完結することは出来ない。主イエスに連帯してつながることによってのみ、主イエスに従う者は命を得る。
 一方で、十字架での死は目前に迫っている。まだ自覚していないが、弟子たちはやがて主イエスを失うこととなる。死によって、弟子たちと決定的に引き離されるというのに、主イエスはなぜ「わたしにつながっていなさい」などと語ることが出来るのだろうか。いやむしろ、十字架の死があるからこそ、主イエスは敢えて「わたしにつながっていなさい」と語るのである。それは、現に今目の前にあるものだけではなく、見えない部分で続いていく、そのようなつながり、信頼と連帯の関係を主イエスは弟子たちに伝えようとしている。この世の価値基準においては、主イエスの生涯とは、志半ばで倒れ、挫折し敗北したものである、そのような評価しか与えられない。この地上での結果と成果だけに目を向ける限り、足りないもの、失われてしまったもの、それらのものを人はただ嘆き、恨み、その満たされない思いを誰かを攻撃することでしかはらすことが出来ない。しかし、十字架の主イエスは、復活の主イエスでもあることを聖書は語る。人の目には失われたとしか見えないもの、不完全なままのものであったとしても、実はその先には新しい永遠の命が続いていること、神のもとでの完成があることを、主イエス・キリストの復活の出来事は私たちに語る。
 主イエスにつながるということ。それは私たちが、主イエスの愛のうちに留まるということである。聖書がかたる神の愛とは、現代人が考えるような、個人の好悪の感情ではない。それは、つながりであり、信頼関係のことであると言える。新しい命のうちへと他者を受け入れ、支え、生かす結びつき、それが主イエスの愛である。主イエスの愛によって結びつけられる時、わたしたちは命の意味を知る。すなわち、私たちの命とは、自分をただ満たすため、自分自身を守るためだけにあるのではない。他者を受け入れ、支え、生かす。それこそが、主イエスにつながる私たちに与えられた命の意味なのである。「わたしにつながっていなさい」。この主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会う。その新しい命は、古い、自分のために生きる自分が、他者のためにその命を紡ぎだすものとして変えられる力となる。

2012年 三鷹教会バザーのご案内

いつもルーテル三鷹教会バザーへのご支援をありがとうございます。
今年も教会バザーを開催することにいたしました。
2012年6月24日(日)12:00~14:00
また献品のご協力をお願い申し上げます。
ご家庭でご使用にならないものがありましたらバザーのためにお寄せください。
献品の受付 :6/10まで
☆会場の都合上、誠に勝手ながら家具・家電・書籍などはお受けできません。
☆衣類は、新品または新品同様・洗濯済みのお品をお願いいいたします。
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JELC三鷹教会バザーのお知らせ