2009年11月5日木曜日

[説教要旨]2009/11/1「神の愛につながって」

全聖徒の日

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11  【新約・ 280頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-17 【新約・ 198頁】

この箇所は主イエスの「告別説教」と言われる、長い長い語りの中の一部分となっている。そこでは、主イエスは十字架の死を目前にしながら、ご自身がこれから弟子たちの元を離れなければならなくなることを予告し、同時に自分なしで弟子たちがこの世での生を歩むことができるように、様々なことを教えられている。十字架の死を間近に控えながら、主イエスの思いは、ご自身の苦しみよりも、残される弟子たちに向けられている。そこで語られるのはまさに、主イエスの「遺言」と言ってもよいものであった。通常私たちが考える「遺言」とは、財産を分与するための指示を思い浮かべる。しかし、ここで主イエスが語られるのは、そうした形ある財産についてではない。残されてゆく弟子たちに主イエスがのこしたもの、それは、富でも権力でもなく、ご自身の言葉そのものであった。主イエスの遺言そのものが、弟子たちにとっての宝であり財産の他ならなかった。
その中で、主イエスはご自身を「まことのブドウの木」とたとえられ、ご自身につながっていることを、弟子たちに命じられる。それは弟子たちが、豊かな実を結ぶようになるためであった。しかし、一見するとそれは全くの矛盾である。今から主イエスは、十字架の死によって、弟子たちのもとからいなくなるにもかかわらず、「わたしにつながっていなさい」と言われているのである。弟子たちにとってみれば、主イエスという存在が目の前にいるからこその、かれれは自分たちの「実り」を期待して、主イエスに従うのであった。目に見える絆が失われてしまえば、つながりつづけることなど無意味であり、不可能であった。しかし、たとえそうした目に見える絆が失われたとしても、いやむしろ、目に見える絆が失われるからこそ、主イエスは「わたしにつながっていなさい」「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られる。なぜならば、たとえ目に見える絆は失われたようにしか見えなかったとしても、神の愛・キリストの愛は、永遠に残るものだからである。主イエスが「わたしにつながっていなさい」と語る時、それは「主イエスの愛にとどまっている」ということに他ならない。主イエスの愛、それは私たち日常体験するような、私たちの内的な感情としての愛なのではない。それはむしろ「信頼関係」に近いものであった。主イエスとの信頼関係、それはこの地上にある、あらゆる障壁と断絶を突き抜けてゆくものなのである。
主イエスとの愛・信頼関係にある時、たとえ私たち自身が生と死へと引き裂かれたとしても、私たちはこの主イエスの愛を通してつながっているのである。



0 件のコメント: