2013年10月30日水曜日

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭および、ウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝のご案内[11/2-3]

今年度のルーテル学院大学愛(めぐみ)祭は11/2-3に行われます。是非皆様ご参加下さい。
また11/3(日)はウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります(聖餐式は行われません)。
(礼拝時間、場所は通常通りです。)

ウィークデイの集会について[10/31,11/1,11/13,11/20]

 週日の集会として、聖書の学びとして10/30(水)よりローマ書の学び(水11時)が集会所にて行われます。なお牧師所用のため11/13(水)、11/20(水)の聖書の学びはお休みいたします。
 また、小教理問答の学び(木・午前/午後、金・午後:時間はお問い合わせください)がいずれも集会所にて行われています。なお、10/31(木)、11/1(金)午後の小教理問答の学びは牧師所用のためお休みいたします。

[説教要旨]2013/10/27「自由と愛に生きる」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の礼拝ではルターの宗教改革の出来事を思い起こしている。世界史では1517年10月31日にルターが贖宥状販売を批判する文書「95箇条の提題」をヴィッテンベルクの城教会の扉に掲示したこととされ、この時から宗教改革が開始したとされている。しかし後の宗教改革の火種となった「神の義」の発見は、それに先立つこと数年前に起こっていた。1511年に開設間もないヴィッテンベルク大学の教員として赴任したルターは、1513年から詩編の講義を行う。しかし聖書に描かれる「義なる神」を前に、ただ裁きと罰に対する恐れを抱く事しかできなかったルターは深い苦悩に陥る。しかし、この詩編講義が行われた1513~1515年の間に、いわゆる「塔の体験」と呼ばれる、「義の神」から、「神の義」を発見するという経験をすることとなる。それは、「あなたの義によって私を解放して下さい」という詩編71編の言葉をどのように解釈するかをめぐって起こったようである。塔に引きこもって聖書を研究する中でルターは、それまでは、裁きと罰を下すためであった正しさの基準は、人を解き放ち、活かすための愛と恵みの出来事として理解したのだった。言うならばそれは、神の義とは、救いと解放をもたらされる主イエス・キリストそのものとして受け取られるようになるという経験であった。ルターを縛っていた恐れと不安、そして苦しみからの解放の体験は、世界を揺るがす出来事の序章であった。
 本日の福音書に登場する者達は、「真理はあなたがたを自由にする」と語られる主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、自由とは彼らが既に手にしているものであり、真理とは彼らが既に知っているものであった。それに対して主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。それは、十字架へと向かわれ、その絶望的な死から甦られた、この言葉を語られる主イエスご自身が、真理そのものであり、私たちに自由を与える存在であるからに他ならなかった。
 主イエスがご自身の弟子であることを、「わたしの言葉にとどまる」と語られる。主イエスの「言葉」、それは十字架の直前に弟子たちに語られた、「互いに愛し合いなさい」という言葉に他ならない。すなわち、人が主イエスの言葉に留まり、互いへの愛の内に生きる時、十字架へと歩まれる主イエスは常に共に歩みつづけてくださるのである。たとえこの地上において、愛に生きることがどれほど困難に見えたとしても、あるいは徒労にしか見えなかったとしても、十字架への道を歩まれる主イエスが共にいてくださるならば、それは決して失望に終わることはない。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならないからである。そして、その出来事は人の思いと経験を超えて、ただ神の愛からの恵みとして与えられるのである。十字架へと向かう主イエス・キリストの弟子として、私たちが自由なものとして生きるということ、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の愛と恵みの中を歩み続けることなのである。

[説教要旨]2013/10/20「絶えず祈るためにて」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 創世記 32:23-32 【旧約・ 56頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 絶えず「祈る」こと。それは現代に生きる私たちの信仰生活においても、私たちがキリスト者でありつづけるために非常に大きな意味を持っている。しかし、同時に、そこには私たちがどこまで祈ることができるのか、どこまで祈りつづければ、ふさわしい者とされるのか、それは測り、評価することができるのか、という問いかけもまた常につきまとっている。
 本日の福音書の場面は、弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは神の国の到来について語られたその続きの場面となっている。「神の国はいつ来るのか」という論敵から問いかけられ、主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられる。たとえ人の目には何の変化も無いように見える中にも、実は神の国は「ある」こと、そしてそれは特定の場所や時代に限定されるものではないことを教えられる。そしてこの「神の国」とともに人が生きるために「気を落とさずに祈らなければならない」ことを、本日の譬えを通して語られる。
 本日の譬えに登場する「やもめ」は、古代の地中海世界において経済的・社会的に特に弱い立場におかれていた。言うならば「とるに足りない者」「弱い者」として社会の片隅に追いやられ、その願いも叫びも無視されることが当然とされる存在であった。さらに、このやもめの訴えを聞くべき者が、神を畏れず、人を人とも思わない、不正な裁判官であるとされることで、このやもめを取り巻く状況が絶望的であることが語られる。そうした絶望的な現実の中で、やもめが出来る事は、それがいつ実現するのかという保障はどこにも無いままにただ訴え続けることだけであった。しかし、その訴えは聞き届けられることを主イエスは語られる。
 このたとえの中では、このやもめの訴えが聞き入れられたことについて、彼女が信仰深かったからだとか、正しい人だったからとか、そうした説明は何もなされていない。彼女にあったのは、自らのその絶望的な弱さだけであった。しかし、その弱さゆえに、彼女は訴え続け、その結果として、無いはずのものとして無視される声が、取り上げられることとなる。それは私たちの生きるこの世の価値からするならば、起こりえない非常識な結論である。しかし、私たちに間に起こる神の国は、そのような非常識な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵、弟子たち、そして現代の読者である私たちにも教えられるのである。絶望の中に希望が与えられるという非常識な逆転が起こるという、その言葉が真実であることを、この旅の目的地であるエルサレムで主イエスはその十字架と復活によって示された。たとえ人がその弱さの中で悩みと悲しみの中で生きなければならなかったとしても、その苦難と悲しみの中から挙げられた祈りの声は、十字架を通して、神に届けられている。その事実こそが、私たちに与えられた信仰であり希望である。私たちは、その主イエスの十字架の出来事を互いに伝え合うことによって、キリスト者でありつづける。教会であり続けるのである。

[説教要旨]2013/10/13「イエスのもとに戻って」ルカ17:11−19

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 列王記下 5:1-3、7-15b 【旧約・ 583頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 2:8-15 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

本日の福音書の冒頭ではこれが、十字架が待ち受けている都エルサレムへの旅の途中であることが思い起こされる。十字架への旅路が始まる前、洗礼者ヨハネが弟子達を通じて「来るべき方はあなたでしょうか」と問いかけた時、主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(7:22-23)と応えられた。さらに十字架への旅の途上でも、悪霊の癒しについて「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(11:20)と主イエスは語られる。すなわち、主イエスは福音の宣教と癒しの出来事が起こるところに神の国を来たらせるために来られたのであった。そしてその行き着く先が十字架の出来事であった。
本日の福音書では、村はずれで重い皮膚病の人々が主イエスに向かって「憐れんで下さい」と叫ぶ。彼が遠くから主イエスに叫んだのは、当時の社会では彼らはその病のゆえに差別され、共同体から排除され、人との接触を制限されていた。この叫びに主イエスは応えられるが、その様子はいささか奇妙に思われる。主イエスは既に5章でも重い皮膚病の人に触れて直接に「清くなるように」と言葉を与えている。そうであるのに、ここでは主イエスは離れたまま、また直接的な清めの言葉無しに応えられるからである。実はここから私たちは別の意味を見出すことができる。主イエスの力が働くのは、決して直接主イエスに触れることのできる、限られた時と場所のことではない。いかなる隔たりも主イエスの力を遮ることは出来ない。だからこそ、主イエスから遠く離れている私たちが今聖書を通してその言葉を聞くときもまた、そこで主イエスの力は私たちのうちに働くのである。
清められた十人のうち一人のサマリア人は自分が癒されたことを知る。「清くされた」という表現が、ここで「癒された」に変化していることは興味深い。つまりこの人は病気の治癒という外面的な出来事の背後に、もっと根源的な力が働いていること、つまり神の国が今自分のもとに到達したことを知ったのだった。まさに主イエスの言葉が伝えられるところに神の国が到達するということに他ならない。自らの内に起こったことを知り、この人はその出来事の始まりである、言葉と力の源、主イエスの元へと戻る。当時、サマリア人とユダヤ人は歴史の中で対立と憎悪を深めていた。しかし、この人はそうした地上での対立や憎悪を超えて、主イエスの元へと戻る。そのことは、この人の内に到達した神の国の力は、この地上の対立と憎悪を超えて働くものであることを示している。主イエスの元でこの人は、さらに「立ち上がりなさい」という言葉を与えられる。癒しを与える主イエスの言葉は、人を再びこの地上で立ち上がり、生き抜く力を与え、そしてさらにこの世へと派遣する力となる。主イエスの言葉こそが私たちが帰るところである。私たちは主イエスのもとへと戻り、その言葉によって癒され、満たされ、立ち上がる力を与えられ、そしてまたこの世に遣わされて行くのである。

[説教要旨]2013/10/06「たとえ取るに足りなくても」ルカ17:5−10

聖霊降臨後第20主日

初めの日課    ハバクク 1:1-4、2:1-4    【旧約・ 1464頁】
第二の日課    Ⅱテモテ 1:1-14    【新約・ 391頁】
福音の日課    ルカ 17:5-10    【新約・ 142頁】

 本日の福音書の冒頭では、使徒と呼ばれるイエスの直弟子たちが「わたしどもの信仰をましてください」と主イエスに願う。使徒達はその名に恥じないように、周囲の者から尊敬され、その言葉が聞かれるに値する者となる事が出来るために、より多くの信仰を強い思いで求めたのかもしれない。それに対して主イエスが使徒達だけに向かって応えられたのか、それともそこに集まっていた弟子達全員に向かって言われたのかは不明だが、いずれにしてもそこには使徒達を含んだ弟子たちの集団、キリスト教会の原型とも言える集団が聞き手を思い浮かべることができる。主イエスは、その彼らの願いに対して、あなたがたにはからし種ほどの信仰が果たしてあるだろうか、と肩透かしを喰らわせる。
 主イエスはさらに主人と奴隷の譬え話を語られる。今日の社会では、奴隷制は倫理的・道徳に認められるものではないので、こうした社会制度が無条件で語られることに、現代人の私たちはいささか戸惑いを憶える。しかし、この譬えは奴隷制度の善悪について語っているのではなく、当時の社会の中で生きる人の日常の生活の様子を通して、より自分自身に引きつけてこの言葉を聞くための題材として受け取ることが必要である。そうであるからこそ、現代人である私たちがこの題材を理解するには、その背景についてのある程度の知識が必要となる。当時の社会で奴隷は、戦争に敗北し占領された地域の捕虜や、重税のために生ずる負債のゆえに売られた者達であった。つまり奴隷とは、人間の弱さや負い目を象徴するものであった。そしてこの譬えではその奴隷(僕・しもべ)の働きによってどれほどの実りが出たとしても、それはただ主人から与えられたものを扱っているに過ぎないことが強調される。弱さと負い目を乗り越えることなど出来ない人間が、その人生のうちでどれだけの実りをもたらしたとしても、それは与えられた命を生きる上で決定的なことではない。また私たちの為し得るものがどれほど取るに足らないものであったとしても、それもまた問題ではない。ただ命の造り主である神だけが、私たちに命を与えられるのならば、私たちがどれほどの実りを獲得したか、どれほど人からの尊敬を勝ち得たか、ということは、その人の命の価値を決定するものとはなりえない。そうではなく、私たちはただその与えられた命を懸命に生き抜くことこそが、私たちに与えられた使命なのである。そのことを、この譬えは私たちに気付かせる。
 私たち自身のうちにあるものによって、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』というかのような、何か特別な大きなことを為すことなど不可能である。私たちに出来る事とは、ただ主イエスの言葉に信頼し、主イエスの言葉に希望をおくことに他ならない。あらゆる人の思いが敗北してしまった、あの人間としての弱さの極地である十字架の死か甦られた主イエスの言葉は、私たちに、私たちの命の進むべき道筋を、私たちの命の本当の価値を示される。そして、私たちが主イエスの言葉を信頼し、その言葉に希望を見出す時、私たちは、自分自身の背負う様々な敗北、失敗、負い目から赦されて生きることが出来るのである。

2013年10月9日水曜日

ルーテル学院大学「愛(めぐみ)祭」フリーマーケット出店募集[11/02-03]

今年のルーテル学院大学の学園祭「愛(めぐみ)祭」でのフリーマーケットへ出店してくださる方を募集しています。
以下チラシより転載。
<転載ここから>
第35回愛祭「フリーマーケット」開催のご案内
ルーテル学院大学では、11/2(土)~3(日)の2日間、学園祭(愛祭)を開催し、昨年に引き続き「フリーマーケット」を行うことになりました。フリーマーケット出店料は、チャイルド・ファンド・ジャパンに募金し、フィリピンの学校に通うことのできない子どもたちの学費などに充てられます。多くの皆様からのお力添えにより、たくさんの子どもたちの力になりたいと考えていますので、皆様のご出店を実行委員一同、お待ちしております。ご協力よろしくお願いいたします。

■開催日時
第1日目 11月2日(土)10:00~16:00
第2日目 11月3日(日)10:00~16:00
■出店場所
ルーテル学院大学・食堂内(12区画予定)
■区 画
1区画 縦1.5×横1.8 ※区画数、サイズ、場所については変更になる場合がございます。
机1台貸し出し可
■申込方法
出店マニュアルを必ずお読みいただき、メールにてお申し込み下さい。
尚、お申込みをいただいた時点で、出店マニュアルに記載してある事項に同意(誓約)したものと
みなします。
【申込期間】規定区画数に達し次第終了
【申込方法】メールのみ
※お電話、FAX、郵送での申し込みは一切受け付けておりません
大学HPの愛祭のページから「フリーマーケット出店マニュアル」をよくお読みいただき、メールにてお申し込みください。
■申込み後の流れ
●お申し込みを確認できましたら、こちらで出店審査を行い、申込完了(出店許可もしくはお断り)のご連絡をお知らせします(CFJ案内資料、当日参加者マニュアル同封)。
●開催当日会場にお越しいただき、出店料をお支払ください。
■注意事項
規定区画数の応募があり次第、終了とさせていただきますので予めご了承ください。
応募終了の場合は、HPにてお知らせいたします。
■出店資格 高校生以上
■出店料 1日1区画 ¥600(両日参加の場合1区画1,000円=1日あたり500円)
■お問合わせ メールのみ対応いたします (注:お電話、FAXでのお問い合わせ等は一切受け付けておりません)
愛祭実行委員会 バザー・フリーマーケット担当 gakuensai@@luther.ac.jp (メール送信の際は@を一つにしてご使用ください。)
受付時間 9:00~17:00(平日のみ)

2013年10月5日土曜日

[説教要旨]2013/09/29「耳を傾けて」ルカ16:19-31

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 アモス 6:1a、4-7 【旧約・ 1436頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 6:6-19 【新約・ 389頁】
福音の日課 ルカ 16:19-31 【新約・ 141頁】

 本日の譬えでは金持ちとラザロとは極めて絶妙なバランスで描かれている。もしこの物語の中心人物はどちらかを問えば、後半に向けてスポットライトがあたるのは金持ちの方であると言わざるをえないだろう。だとするならば、この譬え話を聞いている多くの者は、ラザロよりも金持ちの方に、自らを重ね合わせて聴いていたのではないだろうか。
 ルカが福音書を編纂した時代、キリスト教会はローマの属州の都市の中にその場所を移していた。そこでは、栄誉と名声を求めてより高い地位を目指し、そのために充分な財力を持つことは、人がその命を意味あるものとするために正しくふさわしい価値観であった。一方で、貧しく困窮した者は、その社会的な境遇が決して自分達自身の責任ではないにもかかわらず、犯罪の温床と見なされ、何事も成し遂げることのできなかったその命は、保護されるべき対象とは見なされなかった。
 全ての人間に平等に訪れる運命である「死」を境にして、地上での境遇と、死後の境遇が逆転するという、この譬えは、聴く者に対して、今の自らの歩みを振り返らさせる。たとえ、この地上において、正しくふさわしいものとして歩み、何事かを成し遂げたかのように思っていたとしても、自分の戸口の前にいる、苦悩し困窮する者が自分には見えていないという現実に目を向けさせるのである。そしてまた同時に、この地上においてはただ苦悩と悲嘆とを心に抱き続けるしかなかった者には、天の祝宴の喜び希望を語るのである。
 物語の後半、地上の名声を得るためではなく、戸口にいる困窮と悲嘆の内にある者のためにその富を用いることの意味を、この陰府において初めて知った金持ちの男は、ラザロを蘇らせて家族のところへ使わして欲しいと願うが、退けられる。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉は、聴く者に対して、この譬えを語っておられる、主イエスご自身の十字架と復活について思い起こさせる。そしてそうであるがゆえに、この譬えは、十字架と復活の主イエスが語られていることを知りつつ聖書を読む私達に向けて語られていると言える。このたとえの締め括りの部分に至って、その言葉に耳を傾けねばならないのは、まさに今、聖書を読む私達なのである。
 痛みと絶望の極みである、十字架の死から甦られた主イエスが、聖書を通して私たちに呼びかけておられる。そうであるからこそ、この主イエスの言葉は、ただ恐ろしい陰府のイメージによって、私たちを脅迫するためのものではなく、むしろ私たちへの励ましと招きの言葉なのである。この世においては何も成し遂げることが出来ず、ただ痛みと悲しみの中で嘆くしかなかった者にとって、地上の功績は決して命の全てではないことを、死から甦られた方が教えられるからである。そして同時に、この地上における名誉と力を得ることが命の価値の全てではないことを私たちに呼びかけている。それは、どうにもならない死と向き合う中で嘆き悲しむしかない私たちに、その命へ与えられる神の約束と希望について語る言葉にほかならない。そしてそれは、私たちが今生きているこの現実の在り様を、もういちど見つめ直させ、その希望に向かう生へと私たちを導く言葉なのである。