2012年8月21日火曜日

[説教要旨]2012/08/19「キリストによって生きる」ヨハネ6:51-58

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 箴言 9:1-6 【旧約・ 1002頁】
第二の日課 エフェソ 5:15-20 【新約・ 358頁】
福音の日課 ヨハネ 6:51-58 【新約・ 176頁】

 先週8/15には67回目の終戦記念日を迎えた。戦争の恐ろしさとは、ただ戦闘と爆撃の恐怖にさらされることではない。思想統制や信仰弾圧など、権力による民衆の抑圧・弾圧こそ、戦争の恐怖の本質である。そこでは人間的な優しさや、情愛、喜びは正しくないものとして否定され、また病気、悲しみ、悩み、そうした人間にはあたりまえの「弱さ」は、無用な役に立たないものとして切り捨てられた。正しい答えが一つしか許されない時、それがどれほど魅力的で、理論的であったとしても、それはいとも簡単に暴力と結びつく。それが戦争の恐怖の本質である。そう考えるならば、その対局としての平和とは、多様な意見が認められ、人間としての「弱さ」が受け止められ、喜びも悲しみも分かち合われる世界、一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界であると言える。
 先週から引き続き主イエスが「命のパン」であるということを中心に福音書の日課が選ばれている。「イエス」という男が「パン」を与える、という事柄自体は、決して理解しがたいことではない。しかし、それだけでなく「わたしが命のパン」である、さらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得」ると主イエスは語られる。たしかにその言葉を文字通り受け取るならば、なんと恐ろしいことか思うであろう。主イエスの言葉を聞いた者たちは、その言葉は誤りであり、とんでもないものだと、非難する。しかし、もちろんそのような意味で主イエスが語られたのではない。それは、自分達の頭の中にある理想的な正しい答えではなく、この地上を生きた主イエスの命に結びつくことを意味した。福音書はこの後、政治犯として捕らえられ、苦しみ呻きながら処刑される、十字架へと向かう主イエスを描き出す。そのような人としての挫折と弱さの全てをさらけ出す男のうちに、なぜ永遠の命があるのか。それはヨハネ福音書が書かれた時代の多くの人にとって大きな疑問であった。しかし福音書は、弱さと苦しみの全てをさらけ出すこの方こそが、命の糧であることを伝える。
 戦時中に陸軍幼年学校にいたある牧師は、当時を振り返って「あの頃はどうやって死ぬかしか考えていなかった」と語る。しかし敗戦後キリスト教主義の九州学院で学んだ時、自分の命は死ぬためにあるのではなく、生きるためにあることを知ることとなる。いかに死ぬかしか考えることを許されない世に生きた少年の心に、主イエスがその命を私たちのために与えられたというメッセージは、新しい命の福音として響いたのである。嘲り、痛み、人の弱さをことごとく担われたキリストの命を受けて、私たちは今この世を生きるのである。だからこそ私たちは、人間としての「弱さ」が受け止められる世界、喜びも悲しみも分かち合われる世界。一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界、そのような世界を目指すことが出来るのである。命の糧である主イエスは、私たちの世界に新たな命を与え、その命は私たちを真の平和へと導く。

2012年8月14日火曜日

[説教要旨]2012/08/12「世を生かす恵み」ヨハネ6:35、41-51

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 列王記上 19:4-8 【旧約・ 565頁】
第二の日課 エフェソ 4:25-5:2 【新約・ 357頁】
福音の日課 ヨハネ 6:35、41-51 【新約・ 175頁】

 今週は67回目の終戦記念日を迎える。戦争という出来事から遠く離れるとき、それが誤りであることを語ることは難しくない。しかしその渦中にあった多くの者は正しいことであると信じて支え協力したのだった。戦争はいつも「正しさ」が支配している。自分の生きている世界と自分自身の正しさを失わないでいようとする時、私たちは、悲しみと苦悩の中にある者、弱く虐げられている者に対して、裁きを下し、拒否しようとしてしまう。しかしそのような姿は、あまりにも硬直化した正しさでしかない。そのような正しさを追求し、自分は正しいことを為していると信じて疑わない時、私たちは戦争に突き進むことを避けられない。
 私たちは自分が経験したことの無い事柄、あるいは自分がその価値観を共有したことのないものについて、受け入れがたい思い、拒絶し、排除しようとする思いを抱く。そうした拒否感・排除の欲求そのものは、現代の私たちだけに留まらない。本日の福音書では、主イエスが語られた「わたしは命のパンである」という言葉を聞いた者たちは、その言葉を理解することは出来なかった。主イエスの出自を知っていた彼らにとっては、自分達の経験の中で知っているイエスという男と、今主イエスが語られた言葉を結びつけることが出来なかった。彼らが知っているイエスという男、それがモーセという偉大な指導者・預言者を超えるもの、天から与えられた「命のパン」そのものであるということは、その言葉を聞く者たちにとっては、彼らの世界においては認められない、あり得るはずのない、誤った事柄であった。
 しかし、この地上に生きたイエスという男こそが、十字架にかけられ、しかしその死から甦られた方であることを、福音書は語る。人々からそんなことはあり得るはずがないと、嘲られているイエスという男が、その十字架に掛けられたからこそ、私たちはその命を分け与えられ、その復活の命をもまた生きることが出来るのである。そしてそれこそが、主イエスが語られた「わたしは命のパン」である「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と語られたことの真の意味であった。しかし主イエスの語られた言葉の真の意味を、自分達が正しいと考える硬直した世界の中に留まっていた人々は理解することが出来なかった。歴史をひもとくならば、ユダヤ社会は、強烈なナショナリズムの高まりの中で、ローマ帝国との戦争に向かい、都エルサレムは徹底的に破壊され、国は滅びてしまうこととなる。それはまさに、硬直した正しさが最終的にどこに行き着くのかということを示唆している。そしてまた、それはこの日本社会をはじめ、戦争に突き進んだ多くの国がかつて歩んだ道をも暗示している。
 命のパンである主イエスはその十字架と復活によって、硬直した正しさが支配するこの世界に平和の福音・新しい命をもたらされた。主イエスの十字架によって私達に与えられた平和と命の福音を憶えてこの8月の時を歩みたい。

2012年8月6日月曜日

[説教要旨]2012/08/05「命の糧」ヨハネ6:24-35

聖霊降臨後第10主日・平和の主日

初めの日課 出エジプト 16:2-4,9-15 【旧約・ 119頁】
第二の日課 エフェソ 4:1-16 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:24-35 【新約・ 175頁】

 8月第1日曜はルーテル平和主日である。8月は67年前第二次世界大戦において日本が敗戦し、戦争が終わったことを憶える月である。しかし、多くの犠牲者を生み出した戦争の出来事は日々忘れられつつあるようにすら思われる。その一方で昨年3月11日の東日本大震災以来明らかとなってきたことは、この社会で常に優先されるのは、命ではなく利益であること、共有よりも独占であること、未来の世代を守ることよりも現在の既得権益を守ることだという事実であった。進まない震災からの復興と原子力発電所事故への対応、そして世界になお起こり続ける戦争。一見関係のないように見える、これらの事柄に共通することは、今手にしているものを独占し続けようとする思いが支配していること、それこそまさに真の平和が失われていることであることに気付かされる。私達は、真の平和を一体どこに捜せばよいのか。
 本日の日課は5000人の飢えを満たす奇跡と湖の上を歩かれた奇跡という二つの「しるし」に続いている。人々は主イエスを執拗に捜し求めて湖を渡るが、それは主イエスがパンで自分達の空腹を満たしてくれたたためであった。無論空腹を満たすことは命を守る上で最低限必要な事であり、主イエスもまた「わたしたちに日ごとの糧を与えて下さい」と祈るように教えられている。しかしながらヨハネ福音書が伝える主イエスは、単に空腹を満たすためのパンだけではない何かをここで語ろうとされる。5000人の供食が一過性の事件に終わらず、過ぎゆかない事柄を示すものとなるために、主イエスは「わたしが命のパンである」と語られる。しかしそれは、群衆達が求めているものを超えた、群衆達にとって未知の事柄であった。群衆はあくまでも、彼らが期待するような物で彼らが満たされることを望んでいた。群衆のその姿は、奇しくもかつて奴隷の地から解放されたイスラエルの民が、荒れ野での放浪に疲れ、欠乏を恐れ、奴隷として抑圧と虐待のもとで「安全」に「満たされて」暮らしていた古い生き方を懐かしむことと同じであった。
 しかしこの地上に生きる私たちに向かって、主イエスは「わたしはある。怖れるな。私が命の糧である。」と語られた。私たちが生きているこの世界は嵐に襲われ、足下が崩れ去り、戦乱によって全てが破壊されることがある。そのような世界は死の力が全てを支配し、悪が正義を押しつぶそうとしているように思い、絶望することがある。けれども主イエスはご自身こそが新しい命・永遠の命の源であると語られる。その分け与えられ主イエスの命こそが、この世界を押しつぶそうとする死の力に抗う、私たちに与えられた、真の命の糧なのである。
 永遠の命を望み、地上の真の平和を望むということは、私達が既に手にしているものをさらに増やし、利益を確実にすることなのではない。それは十字架においてその命を分け与えられた主イエスのみを信頼し、今自分が手にしているものを誰かに、あるいは今はまだ知らない誰かのために与えること、分かち合うことなのである。たとえそれが、人の目には挫折・敗北であり、無駄・無意味であるように映ったとしても、十字架は死で終わることがないことを、主イエスはその復活において示された。その命の糧である主イエスを分け与えられ、主イエスと共に生きる時、人の思いと力を越えて私たちは真の平和へと導かれる。

2012年8月4日土曜日

[説教要旨]2012/07/29「キリストのしるし」ヨハネ6:1-21

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記下 4:42-44 【新約・ 583頁】
第二の日課 エフェソ 3:14-21 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:1-21 【新約・ 174頁】

福音書に描かれた奇跡物語は、現代人にとっては聖書を理解することを難しくさせているとも言える。しかし聖書が伝える主イエスの驚くべき業の本質とは、それが私たちに対する神の憐れみ・慈しみの業であり、欠乏や悲嘆などの人間の苦難の中に働くことなのである。主イエスは地上に生きる私たちの苦難のただ中に神の愛の業を実現されるのである。本日の福音書ではまず五千人の供食の奇跡が語られる。この奇跡は4つの福音書の全てにおいて触れられているが、ヨハネによる福音書では特にこの出来事が過ぎ越しの祭りの近づく時であることが報告される。それは、神がかつてモーセを遣わしてイスラエルの民を奴隷の地から解放されたように、今や主イエスが、この世の諸力すなわち経済や軍事力、憎悪や差別の支配の奴隷になっている私たちを導き救い出される方であることを示唆している。また他の福音書では、大量の群衆を前に弟子たちがどうすればよいか主イエスに訴える。しかしヨハネ福音書では、主イエスから弟子に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかける。問いかけられた弟子達は現実的な分析をし、全く手の打ちようが無いことを訴える。彼らに備えられたものは僅かパン5つと魚2匹であった。しかし、いわばその問いはこの困難な状況において、どこに頼るべきなのかを問いかけていたのである。そして既に聖書を繰り返し読んでいる読者は、そのパンは天から与えられる他はなく、そのパンは主なる神が世の救いのため与えられた独り子、この問いを発しておられる、主イエスそのものであることに気付く。主イエスはそこに集まった人々一人一人を、一人の人間としての尊厳を持った客として招き、草の上に座らせる。そして今あるものを感謝の祈りと共に「分け与えた」時、そこにいた全ての人が満たされたのだった。
この奇跡に続いてさらに湖の上をあるく主イエスについてヨハネ福音者は語る。湖の上を歩く姿を見て恐れおののく弟子たちに、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられる。「わたしだ」という言葉、それは逐語的に翻訳するならば「私はある」という意味にもなる。弟子たちに対して主イエスはまたもや「私は誰か」ということを問いかけている。そしてまた、読者は「『私はある』と答えられる方、それは救い主イエス・キリストである」と思い起こすこととなるのである。
聖書が語る奇跡は、一過性の驚きではなく、過ぎ去ることのない事柄を指し示す。そして過ぎ去らない事柄とは、主イエスを通して表された救い、神の国に生きる新しい永遠の命に他ならない。この世の救いのために与えられた神の独り子、主イエス・キリストは、十字架の死において、その命を私たちに分け与えられた。そして、その死から甦り、永遠の命に生きる道を開かれた。それこそ、過ぎ去ることのない神の救いの出来事にほかならない。主イエスが示された奇跡を、ヨハネ福音書は「しるし」と呼ぶ。キリストのしるしとはこの地上の暗闇を歩む私たちを救いへと導く道標なのである。