2009年7月8日水曜日

[説教要旨]2009/7/5「主イエスは群衆と共に」

聖霊降臨後第5主日

初めの日課    創世記 3:8-15         【旧約・4頁】
第二の日課    2コリント 5:11-15     【新約・330頁】
福音の日課    マルコ 3:20-30       【新約・66頁】

 主イエスが群衆と共にいることが語られた直後、同時に、主イエスに対する非難について触れられる。主イエスが共におられた人々とは、おそらく2:13-17で既に触れられているように、「徴税人や罪人」であり、彼らと共に食卓を囲んでいた。当時の社会における「敬虔さ」や「信心深さ」からするならば、そうした人々と食卓を囲むこと、それは恥ずべき事であり、非常識な事柄であった。だからこそ、主イエスは、「気が変になっている」という非難を受けることとなり、主イエスの血縁者らは、その身柄を取り押さえるためにその場へと向かうこととなった。さらに非難者の象徴として、都からやってきた宗教的権威が登場する。彼らは、主イエスをして「悪霊にとりつかれている」と主張する。それに対して、主イエスの第一の反論は、「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」というものであった。
 「都からの宗教的権威者達」は、日常生活の決まり事を守ることが出来ないがゆえに、汚らわしいとされていた「徴税人や罪人」と食卓を共にしなかった。それゆえに、まさに「正しい」人たちであり、真面目で敬虔な人たちであった。彼らの主張に間違ったところはなく、その為すところはまさに清く正しく、神への奉仕を厭うことはなかったと言える。しかし、そうした「正しい」言動が生み出したものが何であったかを歴史は語っている。「正しい」主張は、人々の間に分裂を起こさせ、戦争を引き起こし、大量の犠牲者と共にエルサレムを戦火のうちに崩壊させてしまった。一方で、決めたことを守れないような、だらしなく、汚らわしいと蔑まれた人々と共におられた主イエスの作られた共同体は、様々な試練に何度も出会いながらもそれらを乗り越えて、現在の私たちへと続いているのである。
 1:9-11では、主イエスの洗礼にあたって、聖霊が鳩のように下り、天から「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたことが記されている。その主イエスの地上での歩み、それは、まさに蔑まれた群衆と共におられることによって神の国の到来を宣べ伝えるものであった。そして、非難の末路としての十字架の死と、その死からの復活によって、その神の国への道を私たちに開かれたのであった。
実に、人々を分裂させ、そして自滅へと導くもの、それは決して、決まりをまもれないものや、汚らわしいもの、蔑まれているものと交わることによってではない。むしろ自らこそが正しいと主張することこそが、その原因となのである。「正しい」者は主イエスを必要としないからである。逆に、この世において非難され排除される者こそ、主イエスを求め、主イエスと共にあり、分裂と危機とを乗り越える力を与えられるのである。

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