2011年2月23日水曜日

LAOS講座の学び#1[02/27]

2/27(日)礼拝後、LAOS講座の学びを行います(30分程の予定です)。
テキストは第6号「いなご豆の木-信仰の継承-」を用います(1冊200円、9巻セット1500円)。
この機会に是非お求め下さい。
LAOS講座第6号「いなご豆の木」 

[説教要旨]2011/02/20「野の花、空の鳥」マタイ6:24−34

顕現節第8主日

初めの日課 イザヤ 49:13−18 【旧約・1143頁】
第二の日課 1コリント 4:1−13 【新約・ 303頁】
福音の日課 マタイ 6:24−34 【新約・ 10頁】

 本日の福音書では、先週から続いて、主イエスの「山上の説教」が取り上げられる。主イエスは、身近な弟子たちを集めてこれらの言葉を語られている。しかしそれは限られた弟子たちだけに向けられているのではなく、その背後に主イエスに従おうとする多くの民衆の存在が示唆されている。その意味で、山上の説教は、全てのキリスト者に対して語られた言葉でもある。
 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(24節)という言葉を聞く時、私達はその正しさをと同時に困難さを思い起こさずにはいられない。たしかに私達は、富への執着が人間にとってどれほど恐ろしい不正、対立そして憎悪、いわば人間の罪と闇を生み出すかということを実体験として知っている。だからこそ、そのような罪と闇の原因としての「富」と、「神」とが対比されていることに率直に納得することができる。罪と分裂をもたらす「富」に対して、神はむしろ公正さ、寛容そして和解とをもたらされることを私達は思い起こすからである。しかし同時に、富無しにこの社会の中を生きていくことは、ほとんど不可能であることもまた私達は実感として理解している。現実の生活においては、富無しに健康で安全な日々を生きることは出来ないからである。したがって、「神と富とに仕えることはできない」という言葉を前にする時私達は、公正さとより道徳的な生き方の実践と引き替えに、自分自身の生命の存続を断念しなければならないという決断を迫られているように感じるのである。
 しかし、実は主イエスは、そのような事を語られているわけではないことが、次の段落を読み進むことで明らかとなる。なぜならば、空の鳥も、野の花も、自分の生命を断念などしていないからである。むしろ、空の鳥も野の花も、自らの命を最大限謳歌しているのである。野の花は、イスラエルの歴史の中でもっとも栄えた王の一人であるソロモンと比較してすら、自らの命を咲き誇っていることが比喩的に語られるのである。したがって、「富」によって指し示されているものは、私達が自分自身の命を喜び生きることなのではない。神によって与えられた命は無価値であると、主イエスは語ってはいない。そうであるならば、「神」に対立するところの「富」とは何なのだろうか。
 「富」とはいわば「生産性」の所産である。「生産性」とは、人の命を、その能力、資産などの基準によって価値を現すことでもある。そしてまた、あらゆる偶然性や突発性を排除して、計画通りに全てをコントロールできることに大きな価値を見出すことでもある。その意味で、富を人生における第一の価値があるものとして求めるということ、それは、人をその生産性によってランク付けし、全てを自らの思い通りにコントロールしようとする姿なのである。そして、それはまさに、この世に命を与え、限りのない恵みと憐れみとを注ぎ続ける神の姿と対極をなすものであった。神は、この世界を作られた時、その全てをみて「極めて良かった」とされた。そして、その世の救いのために、ひとり子を遣わされた。そして、そのひとり子主イエスは、あらゆる絶望と挫折の極みである十字架の死へと向かわれ、その死の向こうにある永遠の命をその復活によって示されたのであった。
 富によって象徴されるもの、それは私達に与えられた命を、私達が喜び感謝することを妨げるものであった。「思い悩むな」と主イエスは語られる。私達には、私達の思いを遙かに超えた、神の愛が注がれているのである。

2011年2月15日火曜日

[説教要旨]2011/2/13「与え、祈り、愛する」マタイ5:38-48

顕現節第7主日

初めの日課  レビ記 19:17-18 【旧約・ 192頁】
第二の日課 1コリント 3:10-23 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:38-48 【新約・ 8頁】

 本日の福音書は、引き続き「山上の説教」と呼ばれているマタイ5-7章の部分が取り上げられている。もし私たちが、その語られる言葉を、単なる文字面だけをおって理解するならば、それは本来の主イエスの思いとは異なるものとなってしまうだろう。そもそも、そこに書かれたことを言葉通り遵守することは、人間の日常の生活ではおよそ不可能なことばかりである。しかしここで語られている事柄の共通点を探るならば、そこではそのいずれもが、「(あなたがたも聞いているとおり、)〜と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という主イエスの言葉によって語られている。「あなたがたも聞いているとおり」に続いて語られる、現に運用されている掟は、いずれも決して間違っているとは思えないものばかりである。むしろ、その後の「しかし、わたしは言っておく」に続く主イエスの教えの方が、私達の常識や正しさというものの基準を無視したようなとんでもないものばかりである。だからこそ、この主イエスの言葉をどのように受け取るべきか、どのように守ればよいのか、ということが教会の歴史の中で問題となってきたのである。むしろ、この主イエスの「しかし」という言葉、それは、私たち自身が信じている常識や正義に対して、その常識や正義を超える何かを示そうとしているのである。それは、私達人間が創り上げてしまっている思いこみ、いつのまにか人を裁いてしまう私たちの思いに対して発せられている。「たしかにあなたはそのように教えられ、そのように考えている。しかし、わたしは言っておく」主イエスはそう語られている。実に、この「しかし」において、私達が生きているこの日常の中では疑いもなく用いられている「正義」「正しさ」というものに対して、他ならならぬ主イエスによって、神の「正しさ」「正義」が示されているのである。
 罪無くして、しかし罪人として裁かれ、十字架において処刑され、しかしその死から蘇られた、主イエス。主イエスの歩みはまさに無数の「しかし」を貫いて、その向こう側にある神の愛と憐れみに満ちた領域への道筋を私達に開いているのである。私達は、たしかに不完全で、自らの正しさによって人を裁き、断じ、人と人との間に隔ての壁を作り上げてしまう。しかし、十字架の死から甦られた主イエスの言葉は、私達のそうした現実を揺るがし、穴をうがち、神の愛と憐れみによって私達を満たし、私達に、与え、愛し、祈ることを可能とさせるのである。

[説教要旨]2011/2/6「ひとつの体、多くの部分」1コリント12:27

顕現節第6主日・定期教会総会

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
(1コリント12:27)
[2011年三鷹教会主題聖句]

 人間社会における全体と個との一致の比喩としての「からだ」は、古代地中海世界ではストア派の哲学者によって好んで用いられ、広く知られるようになっていた。しかししばしばそれは、階級社会を維持し、下層に属する者が、上層に属するものに従属し、反逆することなくおとなしくその地位に留まることによって、社会の常識と秩序を維持することを意図した。いわばそこで語られる「からだ」とは人間社会の縮図であり、強い力を持つ者が弱い者を支配することを正当化するために用いられていた。それに対してパウロは、同じ「からだ」でありながら、「キリスト」による一致を語る。たしかに信仰者の群れもまた、この地上における人間の集団であり、「からだ」として全体と個とが一致しなくてはならない。しかし、それは単なる「からだ」であるだけでなく、「キリストの体」であると語るのである。そこには強い者も弱い者も、持てる者も持たざる者もいながら、その多様性をもったままでありながら互いにかけがえのない価値を持つものとして、一つの体として組み合わされる姿である。
 実に、教会がキリストの体となるためには、そこに集う者の人間的な能力の高さや家柄や財産などが問題なのではない。あるいは異言といった霊的な賜物ですら必須のものではない。もちろんそれぞれには様々な賜物が与えられている。しかしそこで本当に必要とされているもの、それは「愛」であるとパウロは続く13章で語る。「愛」こそが、この地上において私達を引き裂き、支配と従属の関係の中へと押しやる力に対抗できる力なのである。
 しかし、パウロの語る「愛」を私という一人の人間の愛する意志として受け取るならば、それはおよそ自分には実現不可能なことにしか思われない。だがパウロが語る愛は、単に人間が「・・・であらねばならない」と思い、それを実現しようとする意志を指してはいない。むしろそこで問題となるのは、神の愛なのである。神は、この世を愛された。だからこそ、愛するひとり子をこの地上に与えられ、そしてその十字架とその死からの復活によって、私たちを取り囲み引き裂こうとするこの世の力に打ち勝たれたのであった。
 教会がキリストの体であるということ、それは教会につらなる私達が、十字架につけられ、その死からよみがえられたキリストと結びあわされることに他ならない。それこそまさに、この地上で私達を引き裂く様々な力に優る、神の愛が私達を満たし、慰め、そして押し出す力なのである。

2011年2月3日木曜日

[説教要旨]2011/1/30「地の塩、世の光」マタイ5:13-16

顕現節第5主日

初めの日課 イザヤ 58:1-10 【旧約・ 1156頁】
第二の日課 1コリント 2:1-5 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:13-16 【新約・ 6頁】

降誕から顕現にいたる教会の暦は光を主題の一つとして、「世の光、神の子キリスト」のこの世界への到来ということが語られてきた。神の光が、この世界に与えられ、この世界を満たしていく。それはまさに私達の間に与えられた福音(良い知らせ)の出来事に他ならない。しかし、本日の福音書では主イエスが弟子たちにそして群衆へと投げかけられた言葉は、「あなたがたは世の光である」という言葉であった。
本日の福音書は、5章から始まる「山上の説教」の中で有名な8つの祝福に続く文脈で語られている。大勢の群衆が既に主イエスに従っていたことが5章の直前で語られた直後、弟子たちが主イエスの近くに寄ってきたところで、主イエスはこの祝福の言葉をもって語り始められる。いわば主イエスを中心に、弟子たちが集い、そしてさらにその背後には大勢の群衆がいたことが、そこでは考えられている。その意味で、ここで語られている、近くの弟子たちに向かって語られた言葉は、さらに主イエスに従う者全体に対して向けられていると言える。
主イエスは、「地の塩」「世の光」になるべきであるとか、「地の塩」「世の光」にならなければ、祝福を受けるに値しないという言い方をしていない。主イエスは、ご自身について「わたしは世の光である」と語られるのと同じように、実に率直に「あなたがたは・・である」と語られる。「わたしは世の光である」という主イエスの言葉、それは闇に覆われたこの世界に射し込み、世界を変える力であった。その同じ言葉が、この世界の中で自分自身の弱さに呻き苦しむ私達に対して投げかけられる。私達は、この世界が、なによりも自分自身が闇に閉ざされていること、その闇を自分の力で打ち破ることが出来ないことを知っており、そしてその事実に失望し絶望している。しかし、主イエスは、そしてその言葉は、そのような世界と私達の有り様を変える力なのである。それはなによりも、主イエスがご自身の十字架と復活によって世界を変えられたのである。だからこそ、「悲しむ人々は、幸いである。」主イエスのこの言葉を聞くとき、私達はもはや悲しまなくて良いのである。そして、さらに主イエスは語られる。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。主イエスの言葉は、この世界と私達の存在を変えてゆくのである。
主イエスは「あなたは」ではなく「あなたがたは」と語られる。それは、祝福を受け、「地の塩」「世の光」であるものは、もはや孤独な存在ではないことを私達に告げている。主イエスの言葉は、私達をひとつにする。それこそまさに、神の愛がこの地上に実現してゆく、その出来事が私達の間に起こる姿なのである。

[説教要旨]2011/1/23「光の後を追って」マタイ4:18-25

顕現節第4主日

初めの日課 イザヤ 43:10-13 【旧約・ 1131頁】
第二の日課 1コリント 1:26-31 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 4:18-25 【新約・ 5頁】

「天の国は近づいた」と語られた主イエスは、その後には「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。本日の福音書は、これらの活動の間に、四人の漁師を弟子にする物語を語っている。主イエスが神の国の実現を語ることは、教えを宣べ、病を癒すことと切り離す事が出来ないものであった。そしてまた、そのことは「弟子を召し出す」ことと密接に結びついていることを、本日の物語は私たちに語る。この後、弟子たちは主イエスと共に各地を回り、そしてやがて主イエスの十字架と復活の出来事を経て、弟子たちは全ての民を弟子とするために派遣される。そしてマタイ福音書は「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」という言葉で締めくくられるのである。その意味で、主イエスの物語は、同時に主イエスによって弟子とされた者の物語でもある。
むろん主イエスに限らず、古代では律法学者も弟子を従えていた。しかし通常は弟子になりたい者が、師となる人物のところを訪ね、弟子入りを願うものであった。しかし、主イエスの場合は逆に、師が弟子を呼び出しに来るのである。マタイ福音書が描き出す、主イエスと弟子たちの関係、それは主イエスの側の主体的な関わりによって創り出されるものなのである。
そしてまた、ある者が主イエスの弟子とされたのは、特別に恵まれた環境の中にいたからでも、何らかの異能があったからでもなかった。彼らはいわば普通の、むしろ社会の下層に属する民衆であった。彼らが主イエスの弟子となったのは、彼らの能力や資産がそれにふさわしいものであったからではないのである。むしろ彼らは、主イエスに呼び出され、主イエスと共に歩み、そして主イエスの言葉に押し出されて、主イエスと共に世界へと派遣されるからこそ、弟子であることができるのである。人間が主イエスの弟子である事、その根拠は、人間としての能力や育ちの良さなどではなく、主イエスから投げかけられる声に動かされることなのである。
降誕から顕現の出来事は光を主題の一つとしている。主イエスが弟子たちに投げかけられた言葉、それは彼らの生の中に投げかけられた光であった。かつて、東方の学者たちを旅立たせた光は、今度はガリラヤの漁師達を動かし、彼らはその光の後を追い始める。その歩みは決して平坦なものではなく、主イエスの十字架の出来事において、その光は闇に覆われ消え去ってしまったかに思われたに違いない。しかし復活の出来事を通して、自分達に投げかけられた光の本当の意味を知るのである。それは、私たちを覆う闇は、決して究極の力、最後のものではないということ、真に究極のもの、それは主イエスを通して投げかけられた神の国の光であることであった。彼らはやがて、その光を伝えるものとなる。その光は、今や全ての民に対して投げかけられている。