2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/3/29「光として世に来た」

初めの日課    エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課    エフェソ 3:14-21 【新約・355頁】
福音の日課    ヨハネ 12:36b-50 【新約・193頁】

 「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と37節は語る。ヨハネ福音書において、主イエスはご自身の神の子としてのさまざまな「しるし」を示される。しかしそれによって多くの人の心が動かされるものの、人々に対して主イエスを救い主として信じることを公にさせるには至らない。常識的に考えればそのことは、それらのしるしは主イエスを救い主と信じる根拠として不足であった、ということを意味するであろう。しかし実はむしろ、そのようにして人々から受け入れられない道を主イエスが歩むこそが、主イエスが救い主であることの証左であることを聖書は語る。なぜならば、その道は、十字架の受難へと続くものであり、この十字架を通して、救いは実現するからである。そこには、主イエスを信じることとは、受難への道の中に、真の栄光と救いとを見出すことであるということ、受難への道こそが、暗闇に光がもたらされる道筋であることを、私たちに証している。
  「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」(41節)。イザヤが見た主イエスの栄光とは何だったのか。それはまさに、十字架の死と、そこからの復活に他ならない。通常私たちは、栄光とは他を圧倒するような力であり、勝利とは他を蹴散らし滅ぼすことであると考える。そして、それら栄光と勝利とを手にすることで、闇のうちにあって光を得ることが出来ると考える。しかし、聖書が語る主イエスの栄光と勝利は、この世の力によって他を圧倒するのではない。むしろそれは、この世の力を前にして、敗北と挫折へと向かって進むことであると語る。それは、あまりにも荒唐無稽であるように、私たちには思われる。しかし、この世の力によって手にした栄光と勝利、それらはいずれは失われてしまうものでしかない。この世において、永遠に続く栄光と勝利は存在しえない。その意味で、勝利と栄光とは、それを手にした瞬間から、それが失われ、朽ちてしまうことに怯え続けなければならないものなのである。しかし、主なる神が主イエスの敗北と挫折とを通して示された、真の栄光と勝利、それは永遠のものであることを、神は主イエスの復活の出来事によって示された。主イエスの受難と復活は、この世における弱さ・敗北・挫折の中に、朽ちることのない永遠の命があることを私たちに示しているのである。

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