2009年10月5日月曜日

[説教要旨]2009/10/4「これらの小さな者の一人を」

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 民数記 11:24-30 【旧約・232頁】
第二の日課 ヤコブ 4:13-5:8  【新約・425頁】
福音の日課 マルコ 9:38-50   【新約・80頁】

 先週の日課から引き続き、主イエスの弟子であるということは、どういうことなのかについて聖書は語る。
 弟子ヨハネは、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者たちが「わたしたちに従わないので」やめさせようとした、と語る。「主イエスに従わない」のではなく、「わたしたちに従わない」ことが、ここでは問題になっている。弟子たちにとっては、自分たちの在り方こそが「ふさわしい」ものであり、その基準に合わないものは「やめさせるべき」ものであった。しかし、37節では、主イエスは「受け入れる」ことを繰り返されていた。それに対して、実際の弟子たちの反応は「やめさせ」ようとするものでしかなかったことを聖書は鋭く描き出す。それに対して主イエスは、弟子たちの考える基準が問題なのではなく、一杯の水を差しだすことであると語る。自分自身の正しさを主張し、他者を裁くことよりも、たとえ小さなことであったとしても、困窮するものに慰めと励ましを与えることが、「弟子たること」においては、はるかに重要なのである。
 そのような文脈の中では、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる」とは、いわば37節の「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる」ことの、全く反対の姿を示しているのである。「受け入れる」ことの対極として、「つまずかせる」ことがおかれている。その意味で、つまずきの原因は、「こどもようなもの」や「小さな者」自身の内にあるのではない。それらの人々が、未熟だから、小さい者であるから、引き起こされるというのではない。むしろその原因は、己の正しさを主張し、他者を裁こうとする、人間のその内にこそあることを、主イエスは厳しい調子で弟子たちに指摘する。小さな者を受け入れず、つまずかせることこそが、まさに「罪を犯す」ことなのである。小さなものを「受け入れる」ことなしに、人が神の国に「入る」ことはありえないのである。
 子どものような、小さな、弱く未熟な存在を受け入れること、それこそが、まさに、「主イエスの弟子たること」の本質であり、いわば、塩の塩味なのである。なぜならば、十字架において死なれた主イエスが、その死から蘇られたということ、私たちの救い主であるということが、まさに、弱さを通してこそ、神の国に私たちは招きいれられることに他ならないからである。
 私自身が、自らの弱さであり、未熟さに向き合うことは決して簡単ではない。しかし、無理解であった弟子たちもまた、主イエスと歩み、そしてその十字架と復活の出来事を通して、「塩味」を付けられていった。弱さの極みへと向かわれた主イエスを救い主として信じること。それが私たちに「塩味」を与え、そして「互いに平和に過ごす」ことを実現させるのである。

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