2014年3月22日土曜日

2014年イースター関連のご案内[04/18-04/20]

今年の復活祭(イースター)は4/20(日)です。

 イースターを迎える週の礼拝、諸行事は次の通りです。

 4/18(金)19時  受苦日礼拝 (チャペルにて)
 4/19(土)18時  イースターヴィジル(ルーテル学院大正面玄関前に集合、その後チャペルに移動します) 
 4/20(日)10時半 復活祭礼拝(チャペルにて) 礼拝後、各自一品持ち寄りによる祝会が行われます。

 また4/19(土)14時より、三鷹教会集会所にて教会学校を中心にイースターエッグ作りをします。

 皆様のご参加をお待ちしております。

2014年イースターヴィジルのご案内[04/19]

2001年より日本ルーテル神学校とルーテル三鷹教会の共催ではじめられましたイースターヴィジルを本年も下記の要領で行うこととなりました。
 皆様のご参加をお待ちしております。

  日時 2014年4月19日(土)18:00-20:00
  会場 ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャペル

イースターヴィジルは復活徹夜祭とも呼ばれ、古代の教会では元来の復活祭礼拝として年間を通して最も重要な礼拝でしたが、時代と共に限られた聖職者のみで執行されるようになってゆきました。
しかし1950年代に入り、カトリック典礼改革運動の盛り上がりとともに見直され、1960年代にはルーテル教会の式文にも採用されることとなりました。 いわば、現代の礼拝刷新運動の原点とも言える礼拝です。
 現在、日本ルーテル神学校・ルーテル三鷹教会で行われているイースターヴィジルの内容は、1.光の祝祭 2.み言葉 3.洗礼を憶えて 4.聖餐 5.派遣から構成されており、暗闇から光へと復活する主の御業を追想しながら、洗礼の恵みに感謝し、共に聖餐に与ります。

主の復活を迎えるイースターヴィジルに是非お越しください。

[説教要旨]2014/03/09「荒れ野に導かれて」マタイ4:1-11

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 2:15-17、3:1-7 【旧約・ 3頁】
第二の日課 ローマ 5:12-19 【新約・ 280頁】
福音の日課 マタイ 4:1-11 【新約・ 4頁】

 先週の水曜日からイースターまで四旬節が始まった。その最初の主日礼拝には主イエスの荒れ野での試練と誘惑の箇所が選ばれている。この40という数字は旧約聖書で度々荒野の記事とともに登場する。その意味で「荒野」を旅する40の時とは、危機に瀕し、将来に不安と恐れを抱えたまま彷徨う場所と時を象徴していると言える。現代の日本社会に生きる私たちは、常に不安と怖れの中で生きているとも言える。今年もまた3月11日が巡ってくる時、あの東日本大震災から既に3年の月日が経ちつつも、外見上の復興とは裏腹に、多くの傷と危機が私たちの生活の中に存在し続けていることに愕然とする。しかし私たちはそうした傷や危機の中で歩むことを、自分から遠く離れた一部の地域と人々に、もう過ぎ去った出来事として押しやることで、自らの不安と怖れから逃れようとしている。そのような中で、この四旬節、私たちの生活の日々に主イエスの荒れ野での時が結び付けられる。
 本日の日課で主イエスは「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とある。旧約においても、むしろ主なる神が預言者あるいは民を荒れ野へと導く。荒れ野での危機の時は、思い描いていたはずの、安定と成長が約束された未来とは相容れないものであっただろう。エジプトでの奴隷の生活から脱出した後、荒れ野での生活に不満をもったイスラエルの民がモーセを非難する様子はまさに、大きな危機が過ぎ去った後、なによりもまず自らが満たされることだけを求めてしまう、私たち人間の姿を浮き彫りにする。しかし荒野における試練の時とは、決して無意味な時ではなかった。イスラエルの民にとっての荒野での40年とは、エジプトの肉鍋を欲し、金の子牛を拝むことで安心を得ようとした者達が神の民となるために、神の救いの業の実現において不可欠なものであった。
 主イエスにおいてもまた、荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものとして描かれる。ヨルダン川での洗礼からこの荒れ野の試練が続いているということは、神の子が救いを宣べ伝え始めるにあたって、この荒野の時がなければならかったことを示している。本日の日課で登場する誘惑者は、主イエスに対する誘惑でありながら、同時に、今を生きる私たちにとっての誘惑・試練でもある。私たちの命は何によって支えられるのか。私たちの未来は何によって守られるのか。その問いはまさに現代を生きる私たち自身の問いでもある。一人の人としてこの地上を歩まれる主イエスは、そうした誘惑に対して徹底して聖書の言葉を持って応え、力によって自らの安定と反映を手にすることではなく、むしろ人としての自らの弱さに留まられる姿を示される。そしてやがて、この弱さの極みある、十字架へと主イエスは向かわれる。弱さの極みであるはずのこの十字架は、この地上のあらゆる力を圧倒する救いの出来事、新しい命を私たちもたらす出来事となった。
 主イエスの荒れ野での40日とその誘惑は、現代の荒れ野の中で様々な試みの中で生きる私たちに、弱さの中に留まる事の意味を示す。私たちに真の自由と解放を与えるのは、力による安定でも成功でもなく、この弱さの中で私たちを待つ主イエスの十字架に他ならない。私たちが自らの不安と怖れを自らのものとして、自らの荒れ野を歩む時、自由と解放に生きる新しい命を与える主イエスの十字架の出来事は、私たちに最も近づくのである。

2014年3月8日土曜日

[説教要旨]2014/03/02「神の心に適う者」マタイ17:1-9

変容主日

初めの日課 出エジプト記 24:12-18 【旧約・ 134頁】
第二の日課 2ペトロ 1:16-21 【新約・ 437頁】
福音の日課 マタイ 17:1-9 【新約・ 32頁】

教会の暦では本日は変容主日であり、顕現節は終わり、今週の水曜日から四旬節に入る。降誕節と顕現節の主題は光であったが、本日の福音書ではまさに主イエスが光り輝いたことが取り上げられる。主イエスの受難を憶える、悲惨で陰鬱な印象を受ける四旬節の直前に、主イエスが光り輝いたという、いわば栄光の出来事を憶えることの意味はどこにあるのだろうか。
マタイ福音書17:9でペトロ達は「今見たことを誰にも話してはならない」と命じられる。この「見たこと」という語は、ギリシア語に翻訳された旧約聖書での出エジプト記において、モーセが神と出会う、燃える柴の箇所で、「この不思議な光景を見届けよう」と語る時の「光景」という語として用いられている。その意味で、ペトロ達が「見たもの」とは神が現れ、働いた出来事であったことを示している。それはまさに、神の救いの業が、この地上で主イエスにおいて実現するということは、人間の理解を超えた、想像を絶する事柄であることを、この物語は示している。
この箇所にいたるまでの福音書の物語では、主イエスは人々に福音を伝え、そして癒し、命を救う業を行ってこられた。しかし本日の日課では主イエス自身が光り輝く。つまり神の業が、主イエスの体を通して実現することを示すものであった。主イエスの体を通して実現する、人知を超えた神の救いの業とは、主イエスの十字架とその死から復活された出来事に他ならない。本日の箇所において主イエスが光り輝くのは、この先に主イエスを待ち受ける、十字架と復活の出来事が放つ光の先取りに他ならない。
この後十字架の苦難の道を歩み始めることとなる主イエスに、光り輝く雲の中から神の声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。実に、主イエスがこの地上の世界へと届けられた光、そして示されたその栄光とは、伝統と権威の高みに留まり、手にした者を失うことなく、譲ることなく、保持し続けることではなかった。むしろ、その身をも用いて、世に生きる人々の苦しみを担い、喜びと恵みを分かち合うということこそが、主イエスがもたらされた光であり、主イエスご自身の栄光に他ならなかった。主イエスによって示される神の栄光と威光とは、権威の高みではなく、むしろ低きへと降り、苦難を共に担い、命を分かち合う姿を通してこそ現れるのである。
さらに、光り輝く主イエスは、そのままの姿で山に留まることはされず、再び人々のところへと戻られ、そして十字架への道を進んでゆかれる。それは、主イエスが私たち人から離れたところで、聖なる姿を保つためではなく、私たちのさまざまな苦しみと嘆きを共に担われるために、そしてその全てをもって十字架へと進まれるために、この世に来られたことを物語る。また山から下りるに際して、主イエスはペトロらに「起きなさい。恐れることはない」と語りかける。主イエスの十字架への道は、苦難の道であると同時に、新しい永遠の命への道、救いと喜びへの道であることを、御自分に従う者達に示されたのだった。
私たちは、まもなく主の受難とそして復活とに備える四旬節を迎える。私たち自身の恐れと不安を、主イエスがその受難と復活によって打ち破られたこと、主の栄光は、苦難と喜びとを分かち合う中にこそ現れることを覚え、この時を過ごしてゆきたい。