2010年3月10日水曜日

[説教要旨]2010/2/28「わたしを憐れんでください」

四旬節第2主日

初めの日課 ​エレミヤ 26:7-19​​​【旧約・1225頁】
第二の日課​ フィリピ 3:17-4:1​​​​【新約・365頁】
福音の日課​ルカ 18:31-43​【新約・145頁】

本日の福音書で、主イエスはエリコの街へとやってこられる。マタイ・マルコ・ルカのいずれにおいてもエリコはエルサレムへと進むその直前に立ち寄る場所となっている。その意味で、エリコ到着は、弟子たちと共に続けてこられた主イエスのガリラヤからの旅が終わり、次の段階へと進むことを、私たちに示唆している。
このエリコのほど近くで主イエスは一人の目の不自由や者に出会い、そして癒される。主イエスは、その宣教を「目の見えない人に視力の回復を告げ」(4:18)ると語って始められた。そして、その働きは、洗礼者ヨハネに対して、このイエスという人物が来たるべき方であるかどうかを示す根拠でもあった(7:22)。したがって、主イエスがのこの働きは、その直前でエルサレムでの受難と復活について三度目の予告をしたこのイエスという人物が、「来るべき方」であることを明らかにする。
しかし、主イエスの受難予告を聞いた弟子たちは、その言葉を理解することが出来なかった。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」と書かれている。主イエスとの長い旅を続け、最も近いところでその働きを目にしてきたにもかかわらず、弟子たちにとって、十字架へと向かうイエスと来るべきメシアとは結びついてはいなかったのである。
しかし、「見えない」はずの者が主イエスに向かってメシアのことを意味する「ダビデの子よ」と叫ぶ。見えない彼にとって、エリコを通り、受難の地であるエルサレムへと向かおうとするイエスは、「ダビデの子」すなわち救い主メシアに他ならなかった。すなわち、主イエスの間近にいた弟子たちには隠されていたものが、この一人の目の見えない者にだけははっきりと「見えて」いたのである。救い主を見た彼の、「わたしを憐れんでください」という叫びは、周囲の者の怒りを引き起こす。つまり、周囲の者にとって、それはふさわしくない態度であるように見えたからである。しかし、周囲の制止を振り切って、救い主として主イエスをひたすらに求め続ける。ついに主イエスは、ご自身を救い主として呼び求めるこの叫びを肯定されるのである。その主イエスの言葉を聞いたとき、この目の見えない者は癒された(=救われた)のであった。
この人の「見えない」という痛みの中でこそ、エリコを通りエルサレムへと向かう主イエスを救い主とするということが、はっきりとその意味を明らかにした。弟子たちが、救い主として主イエスに再び出会い、その言葉を理解することが出来るのは、恐れのあまり主イエスを見捨てて逃げ去り、その痛みに向き合わされた後であった。わたしたちもまた、自らの弱さと痛みの中で救い主としての主イエスとその言葉に出会うのである。