2009年5月13日水曜日

[説教要旨]2009/5/3「わたしに従いなさい」

復活後第3主日

 初めの日課    使徒言行録 4:23-33    【新約・220頁】
 第二の日課    1ヨハネ 3:1-2       【新約・443頁】
 福音の日課    ヨハネ福 21:15-19    【新約・211頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第3主日には、詩編66編1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」からとられた“Jubilate”(ユビラーテ「喜び祝え」)という名前が付けられている。この名は、主イエスの復活を憶えるこの季節、古いものは過ぎ去り、今やすべては新しいものとされた、ということ、つまり、主なる神の新しい創造の働きの中に、私達が生きていることを思い起こさせる。私たちのこの日比は、喜び祝うべき時なのである。
 現代人である私たちを常に悩ますものの一つに、「本当の自分はこんなものではないはず」という思いがある。さまざまな束縛と制約の中で、自分は、本当に自由な自分ではなくなってしまっている。あらゆるものから自由で、自分の思うままに振舞うことの出来る本当の自分はどこにいるのか。どこに行けば、その本当の自分を見つけだすことができるのか。そうした問いを、年齢性別を問わず多くの人々が抱えている。しかし、それは逆に言うならば「本当の自分」という名の制約を自分自身に課しているのである。その「本当の自分」というものによって、自分自身を束縛し、今生きている場で出会う人々・出来事に向かい合うことを妨げることも少なくない。実のところ、自分の思うままに振舞うということ、「自分らしさ」を徹底的に追及することは、決して本当の「自分の生きる道」を獲得することにはならない。なぜならば、人間とは、つながりと絆の中でのみ、人として生きることのできる存在だからである。「私」という存在は、他者との関わりと絆を欠いては存在しえない。その意味で「本当の自分」とは、「自分のものではない意志」に応えてこそ、そこに存在意義を見出すことの出来るものなのである。
 甦られた主イエスは、ご自身のもとから逃げ出した弟子たちを故郷ガリラヤに訪ね、一番弟子と言えるペトロに、3度「わたしを愛しているか」と問いかけられる。どれほどペトロが真摯に答えたとしても、3度にわたってイエスの弟子であることを否認したという事実は、客観的には彼のその言葉に信頼をおくことは困難であると言わざるを得ない。彼自身の意思と能力だけでは、つまり「本当のペトロ自身」だけでは、彼は主イエスを再び否認することにしかならないのである。しかし、主イエスの言葉に従い、その命じられたとおり、他者のためにその命を紡ぎだそうとする時、彼は真の「自分の生きる道」を与えられる。
 主イエスに従うということ、そしてその命を他者のために紡ぎだすこと、それは主イエスの復活を通して私たちに示された、神の新しい創造の業が、私たちのうちに働くことなのである。


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