2009年3月5日木曜日

[説教要旨]2009/3/1「荒れ野に送り出される」

四旬節第1主日

初めの日課    創世記 9:8-17       【旧約・11頁】
第二の日課    1ペトロ 3:18-22     【新約・432頁】
福音の日課    マルコ 1:12-13      【新約・61頁】

 本日の聖書箇所に先立つ4節では、洗礼者ヨハネが荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。そこでは「荒れ野」とは、人々が神に立ち帰るきっかけを与えられる場所として捉えられている。一方で、洗礼を受けた主イエスが霊によって送り出された「荒れ野」とは、サタンが支配する試練の場であった。すなわち「荒れ野」とは、神へと向かう新しい命と生き方が示される希望の場所でありながら、同時に、闇と悪の力の支配する場所、いわば光と闇とが相半ばする場所なのである。主イエスは、その荒れ野へと霊によって導かれる。

 闇の支配と光への希望が相半ばする場所に、主イエスは40日間留まられる。「40」という数字と、「荒れ野」という場所は、40年間荒れ野を彷徨したイスラエルの民の歴史を思い起こさせる。40年の荒れ野での彷徨は、イスラエルの民が真の意味で神に従うものとなるために必要な試練の時であった。40年という数字は人間にとって決して短い年月ではない。それ程の年月が荒れ野で過ごされたとするならば、普通であれば私たちはその無為な時間のあまりの長さに打ちのめされてしまうであろう。たしかに、個人の生活の尺度でみるならば、そこに意味を見出すことは難しい。しかし、個人に留まらない、人類全体の救済という視点で見るならば、その40年は動かしがたい意義を有している。主イエスの荒れ野での40日間が、福音書の冒頭で、洗礼の出来事と宣教開始という極めて重要な事柄の間で描かれているということは、それがやはり、救済の歴史の中で欠くべからざる出来事であるということを如実に示している。天使が仕え、野獣が主イエスを傷つけることなく、ともにいるという様子は、神の国が既にそこに実現しつつあるということ、つまり荒れ野において主イエスはすでにサタンに打ち勝たれたということを物語っている。今や荒れ野は、光が勝利した場所、神の救いの希望が始まる場所となった。だからこそ、主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られるのである。闇の支配する場所は、今や主イエスによって救いの始まる場所へと変えられたのである。

 私たちは、イスラエルの民が荒れ野を彷徨した時と同じように、人生の中で、無為としか思えないような不毛な「荒れ野の時」を過ごさなくてはならない時がある。しかし、その荒れ野は主イエスによって、既に「希望の生まれる場」へと変えられているのである。イースターまでの四旬(40日間)を過ごす季節を教会の暦は迎えている。それは私たちが、私たち自身の荒れ野において、主イエスと出会い、その希望を見出す時でもある。


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