2009年9月29日火曜日

ルーテル三鷹教会 秋の親睦会

来たる10月最終日曜(宗教改革主日)には、恒例の秋の親睦会を、ルーテル学院のキャンパスで行ないます。
食事(バーバキューもしくは焼きそばの予定)を共にし、お二人の方からお話を伺います。
どなたでも参加できますので、是非ご参加下さい。

2009年10月25日(日) 10:30- 主日礼拝
12:30- 食事準備
13:00頃 食事と懇談
14:00頃 おはなし
       「ハンガリーの教会と暮らし」
       「病院ボランティアの体験から」
15:00終了・片付け





2009年9月15日火曜日

9/20(日)マルコス・ミラー師説教

9/20(日)の主日礼拝では、マルコス・ミラー師アメリカ・ルーテル・サザン神学校校長)より"Being the Greatest"と題して説教を担当いただきます(通訳あり)。また礼拝後、ミラー師を交えて昼食の時を持ちます。どなたでも是非ご参加下さい。


[説教要旨]2009/9/13「この方のなさったことは全て」

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    イザヤ 35:4-10       【旧約・1116頁】
第二の日課    ヤコブ 1:19-27       【新約・422頁】
福音の日課    マルコ 7:31-37       【新約・75頁】

 ティルスというフェニキアの街から、同じくフェニキアの大都市であるシドンを経て、デカポリス(ギリシア語で10の都市の意)というかつてのギリシアの植民都市群を抜けて、主イエスは再びガリラヤへと戻ってこられた、と聖書は告げる。実際には旅行不可能なこの記述は、ガリラヤの周辺のいわゆる「異邦人」の地の全てを挙げているようなものである。これら「異邦人」の地と、「イスラエル」の地を行き来する主イエスの動きは、神の福音の働きは、人の引いた境界線にはとらわれないことを、私たち読者に物語る。それは、直前の段落に描かれた、シリア・フェニキアの女性との出会いと相まって、主イエスと、自分たちを「清く」保とうとした者たちとの間に、鋭いコントラストを描き出している。
 そもそもガリラヤという土地そのものが、エルサレムから見たときに、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる程に辺境に位置する地域であり、むしろ「純粋さ」「純血性」を失っている地域であった。だからこそ、エルサレムから来た、「清さ」にこだわる人々は、ガリラヤ出身であった主イエスを非難せずにはいられなかったのである。彼らから見れば、このイエスという存在は、「清さ」と「汚れ」とのグレーゾーン、別の言い方をするならば、「我々」と「奴ら」との間のグレーゾーンに属する存在であった。その人物が神について語るということは、彼らには耐えられなかったのである。
 その一方で、境界線を踏み越え、そしてまた戻られた主イエスは、耳が聞こえず、舌のまわらない人を癒す。それは、イザヤ書35章に預言された救いの実現の出来事に他ならなかった。神の救いの出来事、つまり神の国の実現は、何者かが純血であることや中心にあることによるのではない。むしろ、私たちが周辺に追いやり、見向きもしないところにこそ起こるのである、ということを福音書は私たちに告げている。
 ご自身の奇跡の働きを誰にも言ってはならないと主イエスは命じられる。それは、十字架と復活の出来事に至って初めてその奇跡の業の真意が明かされるからであった。主イエスの十字架の死とは、主イエスの命が、人間の考えるあらゆる価値のうちから捨て置かれ、もっとも周縁に追いやられた出来事であり、復活とは、まさにそこにおいて、神の救いが実現した出来事であった。
 主イエスの命令にも関わらず、人々は「この方のなさったことはすべて、すばらしい」とほめたたえ、言い広める。それは、中心であるエルサレムから来た人々の態度と好対照をなしている。人々が、主イエスに近づくとき、それはいわば、もっとも「周縁との境界線」に近づいている。それは同時に「十字架に近づく」ということでもある。しかし、その時人はもっとも鮮やかに、神の救いの出来事を知ることができるのである。


2009年9月10日木曜日

[説教要旨]2009/9/6「食卓の下の小犬も」

聖霊降臨後第14主日

初めの日課    イザヤ 35:1-3        【旧約・1116頁】
第二の日課    ヤコブ 1:2-18        【新約・421頁】
福音の日課    マルコ 7:24-30       【新約・75頁】

 7:1以降の部分で、市場から帰った時には身を清めてからでないと食事をしない人たちが登場するが、これは市場においては「異邦人」と接触する可能性があり、さらにそれを「汚れ」として理解していたからであった。しかし、主イエスは、清いものと汚れたものとの区別についての言い伝えを「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と断じた後に、ティルスの地方へ行かれたと聖書は語る。ここで名前が挙げられているティルスという街は、フェニキア最古の重要な港湾都市であり、いわば「異邦人の地」であった。これによって主イエスの宣教活動は、イスラエルの領域を踏み越えて、展開していくこととなる。
 ティルス地方で人目を避けていた主イエスのもとを、その地方出身のギリシア人の女性が訪れ、自分の娘を癒してほしいと願う。しかし、それに対する主イエスの返答「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」は、驚くほど冷たいものであった。しかし、聖書は、主イエスが異邦人との交わりを「汚れ」とする人を厳しく断じられていた。またこれに続く箇所でも、「異邦人」と「イスラエル」との境界を横断しながら、教えと業とを示されたことを伝えている。だとするならば、主イエスのこの言葉は、むしろ、もともとは主イエスに対して投げかけられていた非難の言葉であったかもしれない。異邦人の土地へと足を踏み入れ、そこでも宣教をする主イエスに対して、「子供たちに十分食べさせないで、子供たちのパンを取って、小犬にやるような振る舞いだ」という批判の声が上がっていたことは想像に難くない。主イエスは、自分の振る舞いに対して、「私に対して、そのような批判と非難もあるが、あなたはどうしたいのか、あなたはどう思うのか」そのようにこのギリシア人の女性に問いかけているのである。
 このギリシア人の女性は、そうした批判をはねのけ、自分たちには、あなたの助けが必要なのである、ということを訴える。それは、この女性が直面している困難に打ち勝つことのできる力は、他のどこからでもなく、ただ主イエスから来ること、自分たちを救うのはただ主イエスであるということを、この女性が確信しているということであった。誰にも知られたくないはずの場所で、主イエスは異邦人の地において、異邦人の女性から、救い主として求められる。救いを求める魂には、何の区別も差別もない。むしろ、自らの清さを重視するものには、主イエスを理解することは出来ず、逆に自らを「食卓の下の小犬」としか呼ぶような、厳しい状況の中で生きている者だからこそ、他でもない主イエスを真の救い主として求めることができるのである。