2009年3月5日木曜日

[説教要旨]2009/2/8「あなたの罪は赦される」

顕現節第6主日

初めの日課    ミカ 7:14-20      【旧約・ 1458頁】
第二の日課    1コリント 9:24-27    【新約・ 311頁】
福音の日課    マルコ 2:1-12      【新約・ 63頁】

 罪とは何かということは、キリスト教に留まらず、多くの文化にとって大きな問題である。罪とは何かという問いは、その社会の枠組みを形作っている。罪を犯した者、それはその社会の内側には居られない者、ということだからである。しかし、それは往々にして逆にもあてはめられる。ある社会において、排除されている者は、無条件で「罪の存在」とされるのである。人間は、何かを「罪」として、自分の世界から排除することによって、自らの属する領域を清く保とうとする。弱い者や数少ない者は、しばしばこうした排除の対象とされ、この排除の働きによって、人は自らが健康で清潔であることを確認しようとする。

 聖書の物語の時代、病気によって体が動かないこと、それは社会から排除されることを意味した。そして、その人は罪の存在であるとみなされた。人はそのことを通して、病気ではない自分が社会の中に留まる「清く正しいもの」であることを確認しようとしたのである。社会から排除されているこの病人は、主イエスがおられる家にもまた、入ることができなかった。しかしこの病人は「屋根をはがして」つり下ろされる。それはいわば、罪ある外側の存在が、清いとされる内側に無理矢理に入り込んでくる出来事であった。それは、清い内側にいる者たちにとっては、「いかにも罪の存在がやりそうな愚かな行為」であり、本来、断固として拒否されなければならないような振る舞いであった。しかし、主イエスは「あなたの罪は赦される」と語られる。「罪が赦される」ということ、それはこの人が排除される理由がなくなってしまうということであり、同時に、社会の内側を清く正しく保つことを無意味であるということと同じであった。

 主イエスを批判する人々は、主イエスは「神を冒瀆している」と考える。彼らにとって主イエスの行いは、自分たちを清く正しくしてくださっている神の業に真っ向から反対するものであった。しかし主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と語られる。主イエスに命じられた病人の男は、自らの足で立ち起き上がって家を出てゆく。それは、「罪の存在」としてその命に価値を見出されていなかった男が再び一人の人間として生きることができた瞬間であった。主イエスが父なる神から与えられた権威、それは内と外とを隔てる壁を取り壊し、人に生きる喜びを与えられるものであった。


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