2014年11月30日日曜日

ルーテル三鷹教会2014年クリスマスのご案内[12/07-1/1]

12/7(日)    14:00より やかまし村のクリスマス チャペルにて
にんぎょうげきや歌でたのしくすごしましょう!ご家族でおこしください。

12/21(日)    10:30より 主日礼拝 チャペルにて
メッセージ「主があなたと共におられる」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます。

12/24(水)    19:00より クリスマス・キャンドルサービス チャペルにて
昨年に引き続き、今年も12/24の礼拝はルーテル学院大学との合同で行われます。
メッセージ「まことの光-あなたのために」石居基夫牧師(ルーテル学院大学教授・日本ルーテル神学校校長)
音楽による賛美 間垣健二氏(ヴァイオリン)・ラウス・アンジェリカ(ルーテル学院大ハンドベル)
12/24(水)     21:00より 聖餐礼拝 チャペルにて

2015/1/1(木)11:00より 元旦礼拝 チャペルにて

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。

みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

2014年11月19日水曜日

やかまし村のクリスマスのお知らせ[12/07]

やかまし村のクリスマス2014
人形劇とうた
もうすぐクリスマス!
にんぎょうげきや歌でたのしくすごしましょう
☆おともだちをさそってきてね☆
ゲスト
ほんわかマミーズ
人形劇「こぐまちゃんのてじな」他

2014年12月7日(日)ごご2時から
ルーテル学院大学チャペルにて
(181-0015 三鷹市大沢3-10-20)
主催:日本福音ルーテル三鷹教会 文庫やかまし村・教会学校

2014年10月18日土曜日

ルーテル三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内[2014/11/02]

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭が行われる11/2(日)はルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります。

2014年11月2日(日)10:30より ルーテル学院大学チャペルにて

お気軽野ご参加下さい。

[説教要旨]2014/10/12「全ての人への招き」マタイ22:1-14

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ書 25:1-9 【旧約・1097頁】
第二の日課 フィリピの信徒への手紙 4:1-9 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイによる福音書 22:1-14 【新約・ 42頁】

21:23以下で祭司長や長老達たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と、神殿の境内で人々を教える主イエスに問い糾したのに対して、主イエスは3つの「天の国についてのたとえ」によって応えられ、本日の日課はその3つめにあたっている。一つ目のたとえでは洗礼者ヨハネについて、二つ目では主イエスご自身の受難について触れられている。そして本日の日課である3つめでは、使徒達の働き、教会の在り方について触れられることとなる。
譬えではしばしば神は王の姿で物語られるが、ここでは王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。王は、王子の婚宴に招かれていた者たちに、使いのものを派遣して呼びに行かせるが、彼らは王の呼びかけに応えない。王の呼びかけを無視した後の行動としてここで語られているのは、彼らの日常生活であった。彼らにとって、王の呼びかけは自分達が既に手にしている財産を保持する以上には、重要性をを持ってはいなかった。彼らにとっては、自分自身の思い通りに計画が進むことの方が遙かに重要であった。しかし、自分の計画を変えることを拒み、呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなった。
一方で、宴席には予想外の者たち、すなわち「招かれなかった者たち」がやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、それはおよそ、雑多な、まとまりのない、集まりであった。しかし、その雑多な人々と共に祝宴は始まることとなる。このたとえが語る祝宴とは、主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それはまた天の国における祝宴の先触れとして、教会とはそのような場とであるはずということが、ここで問いかけられている。たしかに今、教会に集う私たちは、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないような、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力も無いものでしかない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。
たとえの終わりでは、礼服を着ていない者が宴の席から放り出される様子が描かれるが、通りを歩いていたところ呼び集められたのに、礼服を着ていないといって咎められるというのは、あまりにも理不尽で不可解な話である。しかし敢えてその意味を問うならば、神の宴に招かれた者、その先触れとしての教会に集う者は、そのその雑多でまとまりのない宴を、その全存在をもって喜び祝わなければならない、ということなのである。この雑多な集まりの中にこそ、天の祝宴の先触れがあることを、私たちは希望とし続けなければならないのである。パウロは語る。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:4?7)
私たちは今、世界のいたるところで、キリストのもとで教会に集まっている。この教会という雑多な祝宴を私たちが喜び祝うとき、神の平和は私たちに与えられるのである。

[説教要旨]2014/10/05「捨てられた石が」マタイ21:33-46

聖霊降臨後第17主日

初めの日課    イザヤ書 5:1-7    【旧約・ 1067頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14    【新約・364頁】
福音の日課    マタイによる福音書 21:33-46    【新約・ 41頁】

本日の福音書では、先週につづいて、エルサレム入城後に、神殿を舞台にして主イエスとユダヤの宗教的権威を持つもの達との間でのやりとりが続いている。本日のたとえでは「石」と共に、旧約に登場する「ぶどう園」のモチーフが用いられる。それは本日の旧約の日課であるイザヤ5章を彷彿とさせる。旧約では、ぶどう園とは神の国を受け継ぐ民イスラエルの象徴でもあった。いのちと愛の源である神は、その民の間で、不正ではなく正義が支配し、すべての人々の、とくに最も貧しく弱い人々の命と尊厳と権利が守られることを望まれる。正義と命の尊厳こそが、主が植え育てたぶどう園がもたらさなければならなかった実であった。言うならば、預言者が語る「ぶどうが良い実を結ぶ」ということは、公正な世が確立すること、つまり弱い者が虐げられ排除されることなくその命が守られる世界、人としての尊厳が貶められることなく、互いに尊重される世界が実現することであった。
本日の福音書のたとえでは、ぶどう園を借りた農夫たちは正義を実践せず、命の尊厳を守ろうともしてはいない。そこではただ、自らが手にしているものをいかにして一時の間失わないでいるか、だけが最優先事項となっている。短期的な利益を追求するのであれば、農夫達の判断は合理的である。しかし、神の救いの歴史が実現してゆくその長い長い道筋の中で彼らの価値基準を見るならば、今あるものを失うことを恐れ、不正義と抑圧を選び取ることはあまりにも愚かである。主イエスと対峙する宗教的権威者たちは、自らの正義を疑わなかった。しかし、彼らの正義は、一時の彼らの面目と権益を固守するものであることを、この一連の問答の中で主イエスは厳しく問い詰めてゆく。権威を持つ者達と、主イエスとの間の決別は決定的となってゆく。
この後マタイ福音書では、過ぎ越祭の直前の箇所(25:31−46)で、貧しい人に食べ物を与えないことはキリスト自身を否定することである、という譬えが語られることとなる。そこでは、キリストを受け入れ、キリストに従う者になることは、キリストからいのちを受け、そしてその命を分かち合い、与え合うことに他ならないことが語られる。
神殿で宗教的権威を持つ者達と対決する主イエスは、この後に続く、十字架と復活の出来事によって、その命を私たちと分かち合われた。だからこそ、主イエスの命を与えられ、主イエスの後に続く私たちは、この地上において、新しい永遠の命に向かって、正義と命の尊厳を実現する道を既に歩んでいる。それは確かに、今は報われることもなく、失うことを余儀なくされるかもしれない。けれども、まさにその時、主イエスは私たちと共に歩まれているのである。
本日の使徒書であるフィリピ書3章でパウロはこう語る。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
私たちもまた、既に主イエス・キリストに捕らえられ、十字架の道を歩んでいる。それはまた、復活の命、新しい永遠の命、正義と愛とが支配する神の国に生きる命への道でもある。

[説教要旨]2014/09/21「この最後の者にもあなたと同じように」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    ヨナ書 3:10-4:11    【旧約・ 1447頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 1:21-30    【新約・362頁】
福音の日課    マタイによる福音書 20:1-16    【新約・ 38頁】

本日の福音であるたとえ話では人の思いと業に対して、神の思いと業が鋭いコントラストによって語られている。本日の福音書の日課である譬えでは、あるぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために広場へと出て行く。彼は「ふさわしい」賃金を支払う約束で、夜明け頃(おそらく朝6時頃)から3時間おきに夕方5時にいたるまで労働者を雇い、ぶどう園へと送る。日没の頃(おそらく夕方6時頃)、賃金を支払う際に主人は全ての人に同じように1デナリオンを支払うが、これに対して朝一番から働いていた者たちは不平を言う。しかし主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と語る。ここで展開されている事柄は、私たち人間の考える正論からは大きくかけ離れている。同じ種類の仕事であるのに、1時間の労働と丸一日の労働が同じ報酬であるということは正しいものとは考えられない。もちろん、今日の社会において、それぞれの生活を守るために、労働に対する不当な扱いに抗議することは必要であることは言うまでもない。しかし、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉によって始められるこの譬え話は、私たちに人の思いを超えた、天の国の在り様を垣間見せる。
当時の一人の日雇い労働者の平均年収は約200デナリオンと考えられ、それは6人の家族が生存していく最低限の金額であったと言われている。したがってこの1デナリオンという金額は、単に一日の労働の対価であるだけでなく、家族の命を支える値でもあった。すなわち、ぶどう園の主人が依拠する正しさの基準、それは「全ての者の命が救われる」ことにあった。救いの恵み、それは何よりも、後へと追いやられ、他に先んじることが出来なかった者、持っていたはずのものを失ってしまった者、失意と悲しみの中にある者にとって、なによりも大きな喜びとなる。この譬えで語られる、天の国の「正しさ」の基準とは神の限りのない恵みに基づくものであった。一方で、不平をつぶやくものたちに、ぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と語りかける。ここで「友」とされている言葉は同労者への呼びかけに近い表現である。しかしこの表現はこの後、22:12では礼服を着ないで婚宴に参加した者への呼びかけとして、また26:50では主イエスを逮捕しようと近づくユダに対する呼びかけとして用いられている。言うならば、主イエスの呼びかけを受け入れることの出来ない者に対して、それでもなお呼びかけ続けるという思いが込められている。「不当なこと」とはつまり「ふさわしい賃金」と語られた、その「ふさわしい」ことではないことであり、つまり神がその限りのない慈しみをもって「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」というのはむしろふさわしい、正しいことではないか、と呼びかけている。私たちが、主イエスの「友よ」という呼びかけに応える時、私たちは、後へと追いやられ、奪い取られた者へと思いを合わせ連帯する事が出来る。そしてその時、私たちは限りの無い恵みと救いの喜びを共に分かち合う者とされるのである。

[説教要旨]2014/09/14「赦されて生きる」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・92頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 14:1-12 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイによる福音書 18:21-35 【新約・ 35頁】

本日の日課では、「罪を犯したものを、何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」とまずペトロが主イエスに問いかける。ペトロにしてみればこの7回というのは常識的な限度を大きく超えていると、誇るべき数字であっただろう。しかし、それは赦しというものの本質を問うものになっていないことを、主イエスは「7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」と答えによって示される。それはもはや数値が問題ではなく、いわば数え上げることの出来る、自分の生きている世界の範囲で自らの正しさを証明しようとする、人間の発想とその限界に対して、限界など無い天の国の価値観が示されていると言える。それは続く譬えにおいてより際立たせられる。
このたとえでは、ある王の家来に1万タラントンの負債があるということが発覚する。1万タラントンとは国家予算の何年か分にも相当するような途方もない金額であった。それはもうこの金額が、現在の価値に換算することそのものが、無意味となるほどの負債であった。ここで最も重要なことは、この負債が赦される・免除されるということにある。人間の常識と発想を遙かに越えた負債が、人間の常識をやはり遙かに越える神の憐れみ、神の無制限の愛によって赦されることをこのたとえの前半部分は語る。
たとえの後半部分で、非常識な額の負債を免除された家来は、100デナリオンの貸しのある仲間を見つける。100デナリとはおよそ3ヶ月分の給与に相当すると考えられる。それはたしかに決して小さい金額ではない。したがって、この家来がこの仲間の返済を迫って訴えることは、正当な権利であると言うことができるだろう。その意味で、この家来の態度は「正しい」態度だと言える。しかし、前半部分からの続きで、この後半部分を読む私たちには、この家来の「正しい」態度の持つ限界が見えてしまう。彼の態度は「正しい」にも関わらず、その正しさによって生み出されたものは不和と対立だけであり、弱い者がさらに弱い者を叩く、負の連鎖でしかないことを、このたとえ話は私たちに厳しく訴えかける。
マタイ18章は、教会がこの地上において表れた天の国の先触れであるためには、どのようにあるべきかを語る。教会という、弱い人間の集まりに過ぎない存在がそのようなものとなること、それはまさに人間の常識と発想を遙かに超え出たものに他ならない。人間の思いにすぎない「正しさ」が生み出す不和と対立が、神の国の先触れとして神の赦しと和解の業に取って代えられるような場所に教会がなりうるとするならば、それはまさに、そこに集う者達の中心に主イエスが共におられるからに他ならない。主イエスが共におられる時、私たちは自らの思い描く「正しい」世界にしがみつくことから逃れ出ることができるのである。
神は、この神の赦しが私たちに満ち溢れるために主イエスとその十字架を送られた。まさにその意味で、教会が主イエスによって建てられるということ、その十字架を基とするということ、それは3回か7回かと問うような人の思いではなく、無制限の神の愛こそが教会を作り上げるのだということに他ならないのである。

[説教要旨]2014/09/07「キリストと共にある群れ」マタイ18:15−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課    エゼキエル書 33:7-11    【旧約・ 1350頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 13:8-14    【新約・293頁】
福音の日課    マタイによる福音書 18:15-20    【新約・ 35頁】

マタイ福音書は二度目と三度目の受難予告とに挟まれた部分で教会の在り方について触れることで、教会の本質を十字架へと向かう道にある主イエスと結びつけて理解しようとしている。現在の教会は確かにこの地上にある人間の集まりに過ぎない。しかし同時に、来たるべき天の国の先触れでもあり、そのようなものとしての教会はこの地上のさまざまな制約と抑圧の力をはねのけ、そこに集う私たちを新しい永遠の命が約束された天の国へと結びつける場である。その事を伝えるためにマタイ福音書は、私たちの生きるこの地上と天の国とを結びつける道筋と、主イエスが十字架と復活へと歩む道を重ね合わせて物語る。地上の集団としての教会は確かに様々な制約、限界があり、またこの世の抑圧や憎悪から決して完全に解放されているわけではない。しかし十字架へ歩む主イエスの後に従う弟子の集団である時、教会は天の国の先触れとなることをマタイ福音書は伝えようとしている。
そこでは様々な課題も描かれる。18:1では弟子達が主イエスに天の国で一番偉いのは誰かと問う。それは天の国の先触れとしての教会の中での権威がどここにあるかを問うことでもある。しかし、主イエスはその問いに対して、子どもという、権威とは無縁の小さく弱い存在を示す。それは、教会という場において小さく弱いことは決して誤りではなく、むしろそれを尊ぶことこそが、天の国の先触れである教会の本質であることを示すものであった。続いて、これらの小さな者の一人をつまずかせる者についての警告、そしてこれらの小さな者を一人でも軽んじないようにという戒めが語られる。それらは、強さと正しさをこそ求めるこの地上にあって、弱さを自らの内に包摂し続けることの中に信仰の共同体としての教会の本質があることを伝えている。
そうした、弱さを包摂する共同体の在り方を語る中で、本日の日課が語られる。前半の15-17節は、宗教団体にはよくある、意見の異なるものを処分するために作られた掟とも言える。しかし、ここではそれだけでは終わらずに18節以下が続いていることにむしろ注目しなければならない。紀元2世紀ごろにまとめられた、ミシュナーと呼ばれるユダヤの教師達の教え集には、この18節以下とよく似た文言が納められている。「ふたりの者が同席し、両者の間に律法の言葉が話題になるときには、両者の間には偏在者(神の臨在)がある」というものである。これらはたしかに非常によく似ているが、一点、決定的に異なる部分がある。それは、律法ではなく、「わたし」すなわち「主イエス」が間におられるということである。この地上にある限界にもかかわらず祈りが合わせられる教会の場には、様々な弱さと限界を抱えた私たち人間を結び合わせられる主イエスが共におられることを福音書は語る。
傷つけ憎み合わずにはいられない私たちを結び合わせるために、主イエスは世に与えられた。そしてその主イエスは、私たちを結び合わせるために、その弱さと絶望の極みである十字架へと進み、そして、そこから新しい永遠の命への道を開かれた。教会もまた人間の集団である以上、そこには不信、裏切り、過ちがある。しかしたとえそうであったとしても、その弱い人間の集まりに過ぎない私たちの群れのただ中に、絶望と不信の中から甦られた主は共におられ、私たちを結び併せてくださるのである。

[説教要旨]2014/08/31「イエスの後に従って」マタイ16:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21 【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 12:9-21 【新約・ 292頁】
福音の日課 マタイによる福音書 16:21-28 【新約・ 32頁】

4:17-16:20では主イエスがメシアとして広く群衆に対して教えと活動を展開する様子が描かれてきた。その教えと業が人々の間で様々な思いを引き起こす中、主イエスは弟子達にご自身について問いかけ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるペトロはに対し、祝福と共に教会の権威を託す。しかし、その直後である本日の箇所では、そのペトロに対して厳しい叱責を加えている。この落差の原因はいったいどこにあるのかだろうか。その原因は、21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」ことにあると言える。マタイ福音書では、この箇所から20章でエルサレムへと入られるまでの部分で、主イエスが十字架において苦難を受けられる存在であることを語られ始められること、主イエスの歩みが次の段階へと展開していることをを強調している。
マルコ福音書に準じてマタイ福音書も、3度に渡ってご自身の受難と復活について弟子達に語られているが、興味深いことに、2回目と3回目の受難と復活の予告の間では、マルコ福音書には無い「教会」の在り方についての教えが語られている。福音書の中で「教会」という言葉は、マタイ福音書においてしか使われていない。マタイ福音書は、教会の在り方について、敢えて、十字架において苦難を受けられるキリストに結びつけてその物語を編纂したと言える。それは、この福音書の著者が、十字架へと向かわれた主イエスにこそ教会の本質を見出していたからに他ならない。
おそらくペトロにとって、主イエスがメシアすなわち世の救い主であるということは、主イエスが語るような、世の権威を持った者達から否定され、その計画が全て挫折し、悲惨な運命を辿ることであってはならなかった。だからこそ、主イエスが、ご自身の挫折と死の運命について語られ始められた時、主イエスを連れ出して諫めずにはいられなかったのであろう。しかし、そのようなペトロに対して主イエスは厳しく叱責する。この叱責は直訳するならば、「私の後へと退け、サタン」というものである。主イエスが諫めたのは、人の思いを十字架に向かう主イエス後へと退けられるためであった。その意味で、十字架について語り始められた主イエスは、ペトロの信仰告白を取り消そうとしているのではなく、むしろその信仰告白を受けたからこそ、ペトロに対して「後に退け」という言葉を与えられることで、ペトロに託した教会に対して、その本質を示したと言うことが出来る。ペトロへの叱責を通して示される教会の本質とは、人が自らの思いと正しさを最優先するような在り方ではない。むしろそれは、自分の十字架を背負って「主イエスの後に従う」ことなのである。自分の十字架を担うということ。それは、自分が中心の心地よい場所ではなく、むしろ不快であり、避けたいもの、自らの挫折と失望の中を歩むことに他ならない。しかし、主イエスは、その十字架を通して、新しい永遠の命への道を私たちに開かれたのである。私たちが、自らの十字架を背負って、失望と悲嘆の道を歩む時、その道は主イエスが先立ち、私たちと共に歩まれる道なのである。

[説教要旨]2014/08/10「逆風の中で」マタイ14:22-33

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 19:9-18 【旧約・566頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 10:5-15 【新約・ 288頁】
福音の日課 マタイによる福音書 14:22-33 【新約・ 28頁】

本日の福音書の直前で、弟子達と共に5000人の供食の奇跡をなしたで主イエスは、そのまま弟子達と共にいることをせず、ただちに弟子たちを真夜中の湖で、向こう岸へ強いて渡らせる。主イエスが一人山で祈りに集中する一方で、弟子たちの舟は湖上で逆風に翻弄されることとなる。弟子達の内には漁師もいたはずだが、彼らがその人生の中で培ってきた経験と能力は、逆風の中で今や全く役に立たない。おそらく舟上の弟子たちの間では、責任を互いになすりつけて非難しあっていたのではないだろうか。舟を揺さぶる波風は同時に舟の中にある弟子たちの内面をも強く揺さぶっていたであろう。
その逆風の中で、弟子たちは湖上を歩く人影が近づいてくるのを目撃し、さらなる恐怖に襲われる。しかしその人影は語りかける。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。神が民に呼び掛ける際の「わたしだ」という語りかけそのままの言葉を聞いて、それが主イエスであることを弟子たちは知る。まさに逆風のただ中で、弟子たちは目の前におられる方こそが、神の子救い主キリストであることを知る。
主の呼びかけによって、ペトロもまた湖の上を歩み出す。しかしペトロはすぐに波に飲まれて溺れてしまう。しかしそうであるがゆえにペトロは主イエスに向かって「主よ助け手下さい」と叫ぶ。その意味でペトロは、いわばあらゆる信仰者の姿を示していると言える。主の言葉に応える事は湖の上に歩み出すがごとく私たちを危機へと追いやる。しかもその危機の中では、自分の持てる力は何一つ役に立たないこと、自分はただ主イエスを呼び求めるしかないことを知るのである。けれどもその叫び求める中で、主イエスは最も近くおられること、そして必ずすくい上げられることを私たちは知る。
溺れたペトロに向かって、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスは呼びかける。この「信仰の薄い者よ」(直訳すると「小さな信仰の者」)という呼び掛けは、マタイ福音書では主イエスの言葉に聞くものに向かって語りかけられているものである。その意味で、この言葉決して溺れるペトロを見捨てるための言葉なのではない。それはむしろ、逆風の中で溺れそうになり、自らの信仰の小ささをただ嘆くしかない者を勇気づける言葉なのである。たしかに私たちは、逆風の中で漕ぎ悩み、波に飲まれるだけの小さな信仰の者でしかない。しかし、その小さな信仰の者の叫びを、主イエスは聞き取り、救いの手をさしのべられることを伝えるからである。
逆風の中での救い主との出会いは、舟の中の弟子達の有り様をも変えていったであろう。順風の中、自らに最適化された世界の中を生きる時、私たちは自らの体験・価値観こそが、最も正しいものであることを疑うことがない。しかしその正しさの行き着く先は、互いが自己を正当化し、互いの正しさをもって裁き合い、残された席を奪い合うことにしかならない。しかし、逆風の中で主イエスに出会い、その言葉を聞き、救い上げられる時、私たちは自らの弱さと小ささを知る。そしてそれでもなお私たちに投げかけられた、救いの言葉、慰めと励ましの言葉を、互いに伝えあうことができるのである。キリスト者としてこの社会の中で生きる私たちは、自らに最適化されないの世界を生きる中で救い主に出会う。そしてそれは、私たち相互の有り様をも変えてゆく出会いなのである。

[説教要旨]2014/08/03「愛と和解の道を歩む」ヨハネ15:9-12

平和の主日

初めの日課 ミカ書 4:1-5 【旧約・ 1452頁】
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 【新約・354頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12 【新約・ 198頁】

本日はルーテル教会平和の主日である。8月は日本社会において平和に思いを寄せる時である。戦争という暴力によって命と尊厳が蹂躙され憎しみが生み出されてきた。歴史を振り返るならば、憎しみと暴力は命と世界を破壊し深い傷跡を残すことしか出来なかったことを私たちは知る。だからこそ、憎しみと暴力を超える道筋を探し続けることこそ、歴史の責任を担うことであるはずである。しかし今日、その歴史の責任は風化しつつあるように見える。現代の日本社会では再び、暴力を求める雰囲気が育ちつつあるようにすら思う。その背後にあるものは、誰かを貶め傷つけなければ自分を肯定することが出来ないという、現代社会が抱えている深い闇ではないだろうか。私たちはこの深い闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。
ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエス・キリストは、残されてゆく弟子達に向かって長い別れの言葉を述べる。主イエスはその言葉によって、弟子達がこの世の様々な力に屈することなく、信仰を保ち続けるための励ましと慰めを語られる。本日の福音書はまさにその別れの言葉のただ中に位置している。そこでは主イエスと結ばれた者の生き方について語られている。
9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とある。つまり父なる神の主イエスへの愛と、主イエスの私たちへの愛が、同じように語られている。しかし、私たち自身を振り返るならば、その二つが等しい価値を持つということは出来ない。主イエスが私たちを愛されるのは、私たちが主イエスに匹敵する何かを成し得る者だからではなく、それがただ値無しに与える愛だからに他ならないからである。だとするならば「わたしの掟を守るなら」とあるのは、条件付けをして私たちを切り捨てるための言葉なのではなく、私たちが主イエスの愛を受けるならば、ということに他ならない。私たち自身の中から出て来る愛といえば、暴力を求め憎しみをもたらす自らへの愛でしかない。しかし主イエスは、値無しに与える愛よって私たちを満たし、憎しみと暴力から私たちを解き放たれる。キリストの愛の言葉は、私たちが愛と和解への道、暴力ではなく、対話への道を歩むための力の源に他ならない。
現実にはちっぽけでしかない自分の支配欲求と万能感を満足させるために、ひたすら他者支配しつづける先には破綻した未来しかない。そのことを対話を通じて後の世代に伝えることこそ私たちが担うべき歴史責任であった。しかし今私たちは、再び対話無き「他者の絶滅」を求める時代を生きなければならないのだろうか。私たちは闇の力に打ち倒されるしかもう道は残されていないのでだろうか。
しかし今もキリストの愛の言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の闇、満たされることのない自己中心的な欲望に抗う力を、私たちはこのキリストの言葉から与えられている。たとえ私たち自身の力は小さく弱いものしかかなったとしても、たとえ私たちの前にある闇がどれほど深いものであったとしても、私たちの希望の光は消えることはありません。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の死を超えて輝くものだからである。主イエスの愛の言葉はこの地上に生きる私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。

[説教要旨]2014/07/27「どんな種よりも小さいのに」マタイ13:31-33、44-52

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 列王記上 3:5?12 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:26?39 【新約・ 285頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:31?33、44?52 【新約・ 25頁】

本日の日課もマタイ13章の天の国のたとえがとりあげられている。最初の「からしだねのたとえ」そして「パン種のたとえ」はいずれも、始まりの時の小ささにもかかわらず、時が来れば予想を超えて大きくなるというその対比が印象的である。「天の国」は「天の支配」と翻訳することも出来る。天におられる神の支配の働きは、今地上に生きる者の目には確かに見えないかもしれない。しかし時が来れば確実に大きくなるということをこれらのたとえは語る。始まって数十年というキリストの教会は、近づきつつある帝国の迫害に脅えつつ、また一方でユダヤの会堂との対立の中にあった。教会は、そのような緊張に絶えられず、行き場のない不安を互いにぶつあい、互いに裁き合う中を生きなければならないこともあったと思われる。そのような中で、天の国の支配はたしかにまだ見えないけれども、そのことを不安に思うことはない、むしろそれは私たちの見えないところでますます大きくなってゆくものなのだというたとえは、恐れと不安の中に生きるキリスト者達を大いに慰め励ますものだっただろう。
後半のたとえではさらに、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということが語られる。それは私たちの間に既に与えられており、それを私たちはただ「発見」することが出来るだけなのである。後半の最初のたとえの中に登場する人物は、おそらく他人の土地を耕しているにすぎ無かったのであろう。しかし、そこで偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、この人の人生のあり方をその根底から変えてしまうこととなる。この人は自分の生きてきた全てを用いて、この宝を得ようとするのである。二番目の商人は、おそらく市場で偶然に高価な真珠を発見したのであろう。あるいは他にも、同じ真珠を見ている人たちはたくさんいたかもしれない。しかし、この真珠との出会いによって、この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。つまりこの真珠との出会い、彼の積み重ねてきた蓄えの全てに優るものであったのである。いわば、この二人が積み重ねてきたもの、成し遂げてきたものの全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことは出来なかったのである。その意味では、彼らのそれまでの人生は敗北に終わってしまったとすら言えるであろう。けれども彼らは喜びに満たされる。
さらに最後の漁師のたとえでは世の終わりにおける裁きについて取り上げられる。しかしそこで語られるのは、裁きの主体は人間ではなく、神の側にあるということであった。私たちに出来ることは、その終わりの時を希望を持って待ち望むことでしかない。
教会とは、天の国との出会いによって、自らの成し遂げてきたこと、成せることを相対化してゆく存在である。時として私たちは、意志を貫き純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると誤解する。しかしそこに生み出されるのは、互いを裁き合い、対立し合うことでしかない。主イエスはむしろ逆に、そうした一切を終わりの時の神の手に委ねることを語られる。天の国との出会いを前にするとき、私たち自身が成し遂げたこと、成し得る事は確かにごくわずかなものでしかないことを知る。しかしその一方で、天の国は確実に大きくなってゆく。私たちは、ただその天の国との出会うことを喜ぶのである。

[説教要旨]2014/07/20「刈り入れの時を待つ」マタイ13:24−30、36-43

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 イザヤ書 44:6-8 【旧約・ 1133頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:12-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:24-30、36-43 【新約・ 24頁】

先週から引き続き、本日の箇所も「天の国」のたとえについて語られている。本日の前半部分でも「毒麦のたとえ」と呼ばれる「譬え話」が語られ、後半部分で「たとえの説明」が語られる。先週と同様に、この後半の説明の箇所は、主イエスの言葉としてたとえを受け取った初期の教会が、過去のものとしてではなく、今を生きる自分たちに向けられた言葉として受け取った証しとして聖書に収められたと考えられる。この後半の説明の部分は「終わりの日に備えて、私たちは、毒麦ではなく、良い麦にならなければならない」、あるいは「良い麦の群れとして毒麦に警戒せよ」という教えとして受け取られて来た。しかしこの説明部分には「ドクムギをすみやかに排除せよ」とは書かれてはいない。そこにはただ、むしろ前半のたとえで語られている「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という言葉を受けて、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」という励ましと慰めの言葉が語られ、それに続いて「耳のある者は聞きなさい」と書かれているだけなのである。私たちが成すべきことはただ、希望を持ち続けること、そしてみ言葉に聞くということだけなのである。
そのことに留意しつつ、再び「たとえ」に目を向けるとき、そこにはまた新しい側面が見えてくる。そこで主イエスが語られることは、人間には何が小麦で何がドクムギかを見分けることは出来ないし、それを選り分けて排除する事も出来ない、ということなのである。刈り入れの時、言い換えるならば、世の終わりの裁きの時に裁き手となるのは私たち自身では無い。人に出来る事はただ、刈り入れの時を希望を抱いて待つことだけなのである。主イエスはこのたとえを通じて、人間が善悪を性急に区別し裁き合うことがいかに危いことであるか、むしろそこにこそ人間の弱さ、罪の本質があることを示されたのである。しかしその一方で、そうした人間の弱さと罪を、天の国は圧倒していくということもまた語られている。なぜなら、このたとえでは、たとえ小麦と毒麦とが一緒であったとしても、麦は刻一刻と成長し、確実に実りの時に近づくからである。確かに、この世に「悪」は存在し、私たちは自らの弱さのゆえに、その悪の力にあらがえず、互いに憎悪し命を奪い合う。けれども、どれほどこの世界の現実が絶望的であったとしても、天の国は確実に近づき、神は実りの時をもたらして下さる。その深い信頼をこのたとえは伝えている。
主イエスの語られた天の国は、人が自らの正しさによって他者を裁くことによってもたらされるのではない。それはただ神からもたらされる。天の国は、人が主張するそれぞれの正しさを補強するのではない。主イエスの語られた天の国は私たちの思いと予断を超えて、私たちが共に生きる時をもたらす。たとえこの地上では絶望的な弱さの中で嘆かなければならかったとしても、そこには神の備えられた永遠の命への道があることを、主イエスは十字架の死と、その死から甦りによって私たちに示された。だからこそ、私たちは今、互いに裁き合うのではなく、他者と共に生きることの中にこそ、私たちは、主イエスが死から甦られたことを、天の国が私たちに近づいていることを確信することが出来るのである。

[説教要旨]2014/07/13「種が実を結ぶには」マタイ13:1-9,18-23

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 イザヤ書 55:10-13 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:1-11 【新約・ 283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:1-9、18-23 【新約・ 24頁】

本日の福音書では、前半では、まず種まきのたとえが語られ、後半ではその解釈が語られている。よく読むと、この二つの間にはそれぞれを語る主体の立場が異なることに気付く。前半のたとえそのものは、種を蒔くという行為を行う人の視点で始まり、その行為の結果、蒔かれた種がどうなるか、という顛末が描かれている。しかし、後半のたとえの説明になると、むしろ蒔かれた種を受けるそれぞれの地が主体として語られる。この種まきの譬えについては多くの研究がなされているが、概してこの前半の「たとえ」そのものと後半の「たとえの解釈」は、時代が降ってから組み合わせられたのではないかと考えられている。つまり、主イエスの教えとして「たとえ」を受け取った者達が、それを自分自身に語られた神の言葉として受け取ったという歴史が、この組み合わせの背後にあったのではないかということである。多くの人々の間で信仰が受け継がれる中で、聖書は一つの文書となってきた。主イエスの言葉を良き知らせ・福音として受け取り、さらに次へと伝えずにはいられなかった、その中で、形作られてきた。いわば神の言葉が、人々を動かしてきた歴史そのものでもある。そうした意味で、この前半と後半の立場の不整合は、初期の教会が、主イエスの言葉を自らのものとした証しである、ということが出来る。そうであるならばなおのこと、今この「たとえ」を読む私たちは、それをどうやって自分のものとするのか、ということが問われている。
前半で語られる、このたとえにおいて注目すべきなのは、失われる種の割合の多さである。このたとえで紹介されたケースの4分の3は実りにつながらない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけである。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
もし私たちがこのたとえで語られている場面に私たちが立つならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかな収穫を奪い合うしかない。あるいは、互いに失敗を非難し、ついには、その働きの空しさに疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。しかし、主イエスは、種を蒔き続けられる。十字架の死という結末を迎えた、地上での主イエスの歩みは、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語る。けれども、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示している。
たとえの解釈における良い地とは耕される地である。耕されるということは、元の形を残さない程に砕かれることである。私たちが自分の思いのみによって、未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスがたとえを通して語られる天の国は、私たちの思いも力も全く及び得ない領域である。そこにこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがあることを私たちが自分のこととして受け取るには、私たちは徹底的に砕かれ、耕されねばならないのである。私たちが砕かれ、蒔かれた種を受け入れる時、私たちはこの世の挫折を超えた主イエスの十字架に希望を見いだすことができるのである。

[説教要旨]2014/07/06「重荷を負う者はだれでも」マタイによる11:16-19、25-30

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9-12 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 7:15-25a 【新約・283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 11:16-19、25-30 【新約・ 20頁】

本日の福音書の前半では、主イエスに対して「徴税人や罪人の仲間だ」と言って非難する声が少なくなかったことが伝えられている。徴税人や罪人とは、彼らの生きる糧を得るための働きが、当時の社会規範から逸脱するものとして白眼視されていた者達であった。主イエスは、この世の価値観と対立しつつ、そうした人々と共に食卓を囲まれる。そして本日の後半においてさらに主イエスは、ご自身が救い主であることは「知恵ある者や賢い者」には隠されていると語られる。おそらく、自分たちこそが何が正しいかを判断出来ると主張する人々こそが、徴税人や罪人と共に食卓を囲む主イエスを非難したことであろう。ここではそうした人々をして「知恵ある者や賢い者」としていると思われる。一方で主イエスは、この「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密は、「幼子のような者」に示されたと語られる。「幼子のような者」とは、自分の力では期待されるような正しいことも、十分な働きも出来ないような弱い存在である。それは「知恵ある物や賢い者」が自らの正しさと理想を実現するためには、厳しく責め立て、排除すべき存在であった。しかし主イエスは、ご自身において神の救いが始まっているということは、この「幼子のような者」にこそ示されると語られる。それはまさに、世の人々の価値観とは真っ向から対立するものであった。このように正しさについて世の価値観と対立するなかで主イエスは、最も虚しい者となるため、罪無き罪を負い、十字架に進まれた。十字架の直前となる23:4、神殿の境内で主イエスは宗教的権威者たちを指して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」語る。しかし本日の福音書で主イエスは次のように語られる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」まさにこの対照的な在り様の中に福音が示されている。主イエスは、担いきれない重荷を誰かに課し、その重荷を担うことが出来ないことを断罪し責め立てるのではない。そうではなく、その荷を共に担って下さるのである。それはまさに「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密に他ならない。担えないこと、応えることができないこと。そうしたことを責め立てるのではなく、共に担おうとすること。それはまさに、幼子のように、弱く、持たざる者、足らざる者だけが、その意味を知ることが出来る、主イエスが共にあることの安らぎ、救いの出来事なのである。
主イエスに従うということは自らの考える正しさを人に課し、その重荷を背負いきれないことを非難する事なのではない。むしろ私たち自身もまた、十字架の道を進まれた主イエスの柔和と謙遜に倣い、弱いもの、持たざる者、足らざる者と共にその重荷を分かち合うことに他ならない。
この現代社会の中で、私たち自身が自らの弱さを思い知らされている。しかしそのような私たちがそれでもなお、弱く非力とされる者と共にある時、それはまさに主イエスが共におられる時なのである。主イエスと共にあること、そこにこそ私たちの真の希望、真の安らぎがある。

[説教要旨]2014/06/29「イエスに従う人は」マタイ10:40−42

聖霊降臨後第3主日

初めの日課    エレミヤ書 28:5-9    【旧約・1229頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 6:12-23    【新約・ 281頁】
福音の日課    マタイによる福音書 10:40-42    【新約・ 19頁】

ナチス台頭下のドイツで、自分たちを救うのは偏狭な自民族中心主義や愛国心ではなく、ただイエス・キリストへの信仰のみであることを告白し抵抗した「告白教会」と呼ばれるキリスト者達がいた。しかし開始から3年後、弾圧によって活動は分裂・停滞、重要な指導者であったM.ニーメラーが1937年7月1日に逮捕されたことで、告白教会は事実上崩壊したと、人々の目に映ることとなった。しかしその年の11月、同じく指導者の1人であったD.ボンヘッファーは「キリストに従う」と題した本を著す。この本で彼は、今の世の人々が求める「安価な恵み」を批判し、ただイエス・キリストにおいて啓示される神の「高価な恵み」に応えることを訴えることとなる。その中でボンヘッファーは、本日の福音書を含むマタイ福音書10章についての黙想を著している。本日の日課にあたる箇所でボンヘッファーはこう語る。「彼らと共にイエス・キリストご自身が、彼らを受け入れる家に入って行かれる。彼らはイエスの現臨の担い手である。彼らは、イエス・キリストという値の高い贈り物を、またキリストと共に父なる神を人間にもたらす。そしてそれは、赦しと救いと命と幸福が与えられることを意味するのである。(中略)弟子たちは、自分たちが家にはいって行くことは無益かつ空虚に終わることがないということ、また、彼らが例えようもない賜物をもたらすということを知ることを許される。(中略)何の敬称も似つかわしくないようなこのいと小さい者、この極めて貧しい者のひとり、このイエス・キリストの使者に、たった一杯の水を与える者は、イエス・キリストご自身に奉仕したのであって、イエス・キリストの報いはその人に与えられるであろう。」ナチスの支配が決定的となっていく中で、ボンヘッファーはイエス・キリストの福音を伝えることの喜びと励ましを若い牧師たちに託す。しかしそれは何よりも、先の見えない戦いを続けるボンヘッファー自身が、この聖書の言葉から受け取った励ましと慰めであったのだろう。
主イエスの「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちにもまた、大いなる慰めと希望を与える。資質も功績も「無意味」としか見なされない者を受け入れ、しかもたった一杯の水を与えるというごく僅かな営みしか為すことができなくとも、神はそれを見過ごされることはないと、主イエスは語られるからである。主イエスは、この地上において無価値とされ十字架の死に至ったにもかかわらず、そしてその死から甦られ、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この主イエスに従うということは、この地上における一時的な強さや栄光に従うこととは真っ向から相対するものであることを、聖書は語る。まさにその意味で、私たちが主イエスに従うということは、この地上においては「無意味」されること「無価値」とされるものへと自らを関わらせてゆくことに他ならないのである。
この現代社会の中で、弱く非力であるとされ、無価値なものとして排除される者と共に、主イエスは共におられるということ。そこに希望を見いだしていくことこそが、まさに主イエスに従う道なのである。

[説教要旨]2014/06/22「だから恐れるな」マタイ10:24-39

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ書 20:7-13 【旧約・1214頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 6:1b-11 【新約・ 280頁】
福音の日課 マタイ 10:24-39 【新約・ 18頁】

現在三鷹教会で用いている3年周期の改訂共通日課のうち、今年はマタイによる福音書が中心に取り上げられている。マタイによる福音書では、主イエスに従う弟子の群れとしての、信仰の共同体に向けた主イエスの教えが多く取り上げられている。マタイによる福音書は、おそらく紀元80年頃にまとめられたのではないかと考えられている。1世紀後半、教会は外には帝国からの迫害、それに加えて、内には信徒間の対立と分裂の危機を抱えていた。51?96年にローマ皇帝であったドミティアヌス帝治世下、ユダヤ戦争によるエルサレム神殿崩壊後、従来エルサレム神殿へなされていた献金がローマ帝国の国庫に納付されることになるが、ユダヤ人の一部はこれを拒否する。これに激怒したドミティアヌス帝によってユダヤ人迫害が始まり、その際多くのユダヤ人キリスト教徒も迫害されることとなった。またこの迫害の背景には、ドミティアヌス帝は、ローマの伝統と権威をこよなく愛して、その回復を願っていたことも関連していたようである。ドミティアヌス帝は大火と内乱から十分には復興していなかったローマ市内で、自分の好みを反映させた公共事業を多く起こし、大競技場を建築、オリンピア競技を模して陸上競技、戦車競争を開催する。また晩年には、自らを「主にして神」と呼び、自分を祀る神殿を建てさせ、その後の皇帝崇拝に大きな影響を与えることとなった。そのようなドミティアヌス帝の目には、ユダヤの民も、キリスト者も、ローマの神々を拝むことを拒み、ローマの伝統を否定し、自分の政策を拒否する憎むべき者、不道徳な者と映ったのだった。そのような中で、教会は自らの内部の対立を克服し、信仰の一致を深めて行かなくてはならなかった。マタイによる福音書は、そのような時代を背景として、自分たちが互いに愛によって結ばれた兄弟関係を作りあげるためのその基礎を、主イエスの教えの中に求めたのだった。
本日の福音書で、主イエスは12人の弟子たち向かって励ましの言葉を語られる。しかしそれはまた、今聖書を読んでいる私たち一人一人にもまた向けられている言葉でもある。自分自身のなせる事の小ささに嘆くしかない全ての者に対して、主イエスはこの励ましと慰めの言葉を語られているのである。そして自分に非難を向ける相手が、たとえどれほど強大な権威と権力を持っていたとしても、「恐れてはならない」と主イエスは語られる。なぜならば、魂を滅ぼすことが出来るのはただ主なる神のみだからである。わずかな市場価値しかない一羽の雀でさえ、主なる神はその命を見守っておられるならば、たとえ私たちが、他者と比べて、弱く小さなものであるとしか思えず、いかに自分に価値が無いように思えたとしても、その私たちを主なる神は、髪の毛の一本まで見守って下さる。主イエスはそう語られるのである。
この主イエスの励ましの言葉が真実であることは、主イエスご自身がその十字架において、傷つけられ、罵られ、苦しめられ、その全てを失ったにも関わらず、死から甦られたことによって明らかとなった。罵られ追い詰められ、私たちが傷つき、弱り果てる時、十字架の主イエスは、私たちの最も近くにおられるのである。だからこそ、その慰めと励ましは、私たちのもとを離れることはないのである。

[説教要旨]2014/06/15「世の終わりまで共に」マタイ28:16-20

三位一体主日

初めの日課 創世記 1:1-2:4a 【旧約・ 1頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙二 13:11-13 【新約・341頁】
福音の日課 マタイによる福音書 28:16-20 【新約・ 60頁】

本日、聖霊降臨祭・ペンテコステの後の最初の主日は教会の暦では「三位一体」の祝祭日となっている。キリスト教会が三位一体という神学的主題を通して確認してきたものは、自分は今、神の愛、キリストの救い、聖霊の慰めと励ましによって満たされているという、救いの喜びのリアリティであった。その意味で三位一体とは単なる理論ではなく、私たちが現に生きているこの地上での生活もまた神の救いがの歴史の一部であるということを示している。
主イエスの大宣教命令とも呼ばれている本日の福音書は、19節で「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあり、新約中で数少ない「父と子と聖霊」について言及された箇所である。それこではまた復活の主イエスがこの全世界の人々を弟子とするために、弟子たちを派遣されたことが記されている。その弟子達が、最初に主イエスの後に従った際には、自分達がいずれそのように未知の世界と人々のために派遣されることなど予想してはいなかっただろう。そこには様々な思いと考えがあったと思われる。そのある者はイエスの人格に触れて、あるいある者はイエスの力に憧れ、あるいはまた自分自身の将来の夢のために、イエスという人物と共に旅を続けたのであろう。おそらく彼らは、小さく弱い自分を何か大いなる者としたい願い、イエスの後に従ったのではないだろうか。しかし、主イエスの十字架によって、彼らの期待は全て潰えることとなる。いわば、主イエスの地上での歩みが終わると同時に、弟子たちが思い描いていたそれぞれの物語はそこで終わってしまうこととなった。しかし、福音書の物語はそこで留まることはなかった。主イエス復活の出来事を福音書が語ることで、弟子たちの物語には続きがあることが示される。復活の主イエスとの出会いを通して、主イエスの物語は弟子たちの物語となってゆくのである。復活の主イエスは語られる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」。私達が直面する喪失・断絶・困窮といった現実を凌駕するほどの権能をもって、主イエスは弟子たちを派遣する。自分の思いと計画のために生きてきた弟子たちは、復活の主によって、ここにはいない「誰か」のために押し出されてゆく。そしてその時には、弟子たちはもはや、自らの小ささに絶望することはない。なぜならば主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られるからである。
マタイ福音書では、主イエスの復活顕現と大宣教命令はガリラヤの地での出来事として語られる。ガリラヤは当時のユダヤ社会では周縁化され、蔑まれた地域であった。しかし社会の片隅へと追いやられたところからこそ福音は伝えられ始められる。たしかにそれはかつての弟子達には思いもよらないことであっただろう。けれどもそれこそが、主イエスの物語を引き継いでゆくことに他ならなかった。そしてそれは、決してかつて弟子達だけに託された使命ではない。それは救いの歴史の中で世界へと伝えられ、現代の私たちにまで続いている。私たちが、社会の周縁へと歩みだし、そこで福音を分かち合う時こそ、私たちが主イエスの物語を受け継ぐ時であり、主イエスが共におられるその時に他ならないのである。

[説教要旨]2014/06/08「神の息吹を受けて」使徒2:1-21

聖霊降臨日

初めの日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 12:3b-13 【新約・315頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 20:19-23 【新約・ 210頁】

本日は聖霊降臨日である。新約聖書では、聖霊降臨の出来事から、教会という交わりがこの地上に生まれた時として描かれている。使徒言行録では、それは、過ぎ越しの祭りと時を同じくして起こった、イースターの出来事、主イエスの死と復活の事件からの50日目の出来事として語られる。
礼拝での聖書朗読の順序とは逆と成るが、本日の福音書で語られる出来事が、まさにイースターの日の夕方のことであった。その日、弟子達は恐れの中で戸に鍵をかけ、部屋に閉じこもっていた。しかし、その鍵のかかった部屋のただ中に、復活の主イエスが現れ、弟子達に「平和があるように」と声をかけられ、そして息を吹きかけられるのだった。息を吹きかけるという行為は、創世記で、人を土から作りだした神が、命を吹き込んだ出来事を思い起こさせる。それは、主イエスが弟子達に使命を託した出来事でもあった。その使命とは、まさに弟子達が体験したように、怖れに満たされた、「平和」無きところに主イエスの命を伝え、平和を創り出す使命であったと言えるだろう。そしてまた、それは「赦し」を伝える働きであることを主イエスは語る。主イエスの新しい命が与えられる時、私たちは恐れを手放し、解放と赦しへと導かれる。そして赦しと解放がもたらされる時、そこには平和が創り出される。そのような解放と平和を伝え創り出す働きを為す使命に、弟子達は押し出されてゆくこととなったのだった。
そして、その50日後、本日の聖書では始めの日課として選ばれている、使徒言行録の出来事を弟子達は体験する。それは、かつては怖れて部屋に閉じこもっていたはずの弟子達に、語るべき福音の言葉が与えられた出来事であった。聖霊が降ったとき、弟子達は「一つになって集まっていると」と書かれている。しかし、聖霊降臨の出来事を読み進めてゆくならば、ここでいう「一つ」というのは、一つのあり方、一つの生活様式、一つの言葉を一斉に語る、ということではなくなってしまうことに気付かされる。というのは、弟子達は聖霊が与えられることによって、それぞれが異なる様々な言語で語り始めるからである。しかし、そのことによって、弟子達が語っている言葉を聞いた者達はみな「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚くこととなる。すなわち、それは特定の文化や生活様式からだけではなく、それぞれが皆「自分たちの言葉」として福音のメッセージを受け取ることが出来たということなのである。
聖霊降臨の出来事において、弟子たちが多様性を持ちながら、一つになるということ、それは復活の日の夕方に赦しと平和をもたらす働きへと押し出された弟子達が、キリストのからだである教会として動き始めたということでもあった。弟子たちが突然、様々な言葉で福音を語り始めた時、弟子たちを捕らえたその力は、復活の主が与えた新しい命の力は、遙か昔の弟子たちだけに留まってはいない。それはやがて教会の使命として伝えられ、さらにわたしたち一人一人へと続いているのである。まさにそのことを通して、人間が生きている世界のあらゆる場所に、主イエスの命、そして平和と赦しとがもたらされるのである。わたしたちもまた、神の息吹を受けて、この世界に平和と赦しを伝える力に満たされてゆくことを祈り求めてゆきたい。

2014年6月10日火曜日

[説教要旨]2014/06/01「神の命を待ち望む」ヨハネ17:1−11、ローマ8:18-25

復活節第7主日・アジア祈祷日

初めの日課 使徒言行録 1:6-14 【新約・ 217頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 4:12-14、5:6-11 【新約・ 433頁】
福音の日課 ヨハネ 17:1-11    【新約・ 202頁】

 先週の木曜日には「主の昇天日」を迎え、7週間にわたる復活の喜びを憶える期間が過ぎ、来週には聖霊降臨日を迎える。また本日はアジアキリスト教協議会(CCA)の呼びかけるアジア祈祷日でもある。本日の福音書を含むヨハネ福音書17章では「一つになること」が繰り返し主題となっている。この日課とアジア祈祷日とは直接の関係は無いが、多様なアジアの地域の中に教会があることを憶えて祈るこの時にふさわしいとも言えるだろう。
 13章から続く「告別説教」の締めくくりに当たって主イエスは、16:33で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と弟子達を励まし、そしてさらに17章での主イエスの祈りが続くことになる。この祈りの中で、主イエスは「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(17:11)と祈られ、この後には繰り返し「一つになる」ことが祈られている。しかし、ここでいう一つになるということは、単に外面的な合一だけを意味しているわけではない。それは、多様性を残しつつ、もっと根源において一つに結ばれる在り方であり、それは告別説教において語られているように、互いに愛し合うことを通じて主イエスの命において一つへと結ばれる在り方に他ならない。そして、その主イエスの命は十字架を通して、既に私たちに与えられている。つまり、私たちは、その根源において、既に一つとなる命を神から与えられているのである。
 アジア祈祷日の今年の主題は、「被造物の自由を希望のうちに待ち望む」というものである。これはとりわけ、このアジアで自然環境が破壊され、災害が起こっていること、そのために多くの人々がなお苦しんでいることを憶えて祈るものである。このアジア祈祷日にあたって、ローマ8:18-25が聖書テキストとして選ばれている。この8:24-25には次のようにある。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
 この手紙の送り主であるパウロは、現在の呻きと苦しみは決して無意味なものなのではなく、その後にはより大きな喜びが必ずやってくることを確信している。けれども、パウロがそうした確信を持ち続けることができたのは、決して何か目に見える具体的な将来展望があったからなのではない。たとえ個別の展望や見通しが得られなくても、自分は主イエスによって自分は新しい命を既に与えられているという確信があった。そしてこの確信はまさにパウロにとっては、彼の根元的な部分に働く、不滅の永遠の希望だったのである。
 私たちが生きている世界は、どうしようもなく引き裂かれ、そしてその苦悩の中で被造物はみな呻いている。けれども同時に、私たちは既に一つとなる主イエスの命を与えられているのである。だからたとえどのような困難が私たちを襲うとも、私たちの真の希望は決して失われることはない。主イエスの命に一つに結びあわされていることに励まされつつ、この引き裂かれ、呻きに満ちた世界の中をなお共に歩んでゆきたい。

[説教要旨]2014/05/25「キリストと共に生きる」ヨハネ14:15−21

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 17:22-31 【新約・ 248頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 3:13-22 【新約・ 432頁】
福音の日課 ヨハネ 14:15-21 【新約・ 197頁】

 本日の福音書を含むヨハネ福音書の13-16章はイエスの告別説教と呼ばれている。ここで主イエスは、これからこの世にあって様々な苦難に直面する弟子たちに「弁護者」を送るという約束をされる。特にこの告別説教の中では、「弁護者」というのは「聖霊」のことを指している。聖霊は、私たちを動かす目に見えない神の息吹であると教会は理解してきた。ヨハネ福音書では特に、聖霊を人間により身近に、親しく交わる存在として描く。
 ご自身の十字架とともに、弟子たちを襲うであろう過酷な運命を前にして、主イエスはくりかえし、彼らを孤独のままにしておくことはない、必ず助け手・弁護者を送ることを約束された。それは、目に見える、今手にしているものだけが、人に与えられているつながりではなく、目に見えないものの中から、自らの希望とするものを彼らが見つけ出すことができるためであった。そのことはまた、弟子達が主イエスの十字架の意味を知る、ということでもあった。なぜならば、回復することなどないはずの、死によって切り離されたつながりを、主イエスはご自身の甦りによって新たに創り出されたからである。私達のもとから永久に失われてしまったかのように見えるつながりを、復活の主イエスは、新しいものとして結びつけられる。人間の力では再び取り戻すことなど不可能であるとしか思えない、失われた命のつながりを、主イエスはその十字架の死からの復活によって、新たに創り出された。
 私たちには見えなかったとしても、その復活の主が共におられるということを、聖霊の働きかけによって人は知るということを、本日の聖書は語る。新しい命のつながりは、たとえまだ私たちの目に見えなくとも、そこにあるということ、むしろ私たちには見えないものこそが新しい命の道であることを、聖霊の働きを通して私たちは知るのである。
 実に、主イエス・キリストと共に生きるということ、それは私たちが、失われたものを、もう一度、そのままの形で取り戻すことではない。それはむしろ、私たちにはまだ見えていない、新しい命を生きるということなのである。私たちを新しい命へと向かわせるこの神の力を、主イエスは「真理の霊」と語られる。それは、かつて自分が知っていたものが失われたものをただ嘆き、時間を逆戻りさせることを虚しく願う私たちを、新たな世界へと向かって踏み出させる力である。聖書が語る真理とは、私たちを押し出す力でもある。そして、この真理の霊こそが、主イエスに従うものを励まし、支えるのである。
 私たちは失われてしまったものの大きさに絶望し、力尽きてしまうことがある。その時私たちは、自分が嘆きの中で孤独に取り残されてしまっているかのように思う。しかし主イエスは語られる。「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」聖霊の働きによって、キリストはたとえ見なくとも、私たちと共におられることを知る時、私たちはまた、新しい世界が自分たちを待っていることを知る。そして、その新しい世界に踏み出すとき、私たちの苦しみも悲しみも、キリストによって必ず満たされ癒される、新しい時代が、私たちに開かれていることをまた知るのである。復活のキリストと共に生きること、それは私たちに与えられたつきることのない希望なのである。

[説教要旨]2014/05/18「心をさわがせるな」ヨハネ14:1-14

復活節第5主日

ヨハネによる福音書 14:1-14 【新約 196ページ】

 おそらく普通の生活を送っている人ならば、戦争がしたいと思う人はいないだろう。しかし第二次世界大戦に向うナチス時代のドイツ空軍司令官であり、ヒットラーの後継者ともされた、ヘルマン・ゲーリングという人物は戦後に、次のように語っている。「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政治を決めるのは国の指導者であって、(中略)国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張するだけでよい。この方法はどんな国においても機能する。」70年前のドイツだけではなく、今、世界中で、私たちが生きているこの場でも、それはいつおこるかもしれない状況にある。
 本日の日課、ヨハネによる福音書の物語の中で、主イエスが家の中で弟子達に向かって、17章にいたるまで長い説教と祈りをはじめる最初の部分である。本日の少し前の13:30には、「夜であった」と書かれており、さらに18章では、夜の暗闇の中、松明を持った兵士達が主イエスを捕らえに来る様子が描かれる。いわば、家の外の夜の暗闇は、主イエスと弟子達に襲いかかろうとする世の闇の力として描かれ、今まさに主イエス様と弟子達は危険に晒されているといえる。けれども、そのような中で、主イエスはまず「互いに愛し合いなさい」語り、さらに本日の箇所では「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語られる。「心を騒がせるな」という呼びかけと「神を信じなさい」「わたしを信じなさい」という呼びかけが、一つになっているということは、すなわち、神とキリストを信頼し、その愛の絆に結ばれていることと、心を騒がせることなく生きることとは一つのことであると、主イエスは語りかけている。その意味で、神とキリストとの信頼の絆に結ばれることは、真の平静と平和へと向かうを生きる道を歩むことなのである。
 第二次世界大戦の前夜とも言うべき時代に、アメリカの牧師ラインホルト・ニーバーは「平和・平静の祈り」と呼ばれる祈りを用い始めた。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。いっときに、一日だけを生き、いっときに、一瞬だけを喜ぶ。苦しみも平和へ続く道として受け入れ、イエスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず、主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じて。そして、現世では適度の幸福を、来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。アーメン」
 いつの時代であっても、私たちを争いと憎しみに駆り立てようとする世の闇の力は、私たちの周りに迫ってくる。けれども聖書を通して語られる、私たちを愛と命の絆へと招く主イエスの言葉を聞き、主イエスを信頼する時、私たちには、真の平和を生きる道を歩むことができるのである。

[説教要旨]2014/05/11「呼びかける声」ヨハネ10:1-10

復活節第4主日

初めの日課 使徒言行録 2:42-47 【新約・ 217頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 2:19-25 【新約・ 431頁】
福音の日課 ヨハネ 10:1-10 【新約・ 186頁】

 本日の日課に先立つ9章では、目の見えない男の癒しの奇跡の後、宗教的な権威を持つ者達が癒された男とその両親を問い詰め、その男が神殿を追い出されたことが記されている。この男に主イエスが「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語ったのに対して、宗教的な権威者達は「我々も見えないということか」と反論する。これに対する主イエスの応答として、本日の日課を含んだ、主イエスご自身の存在に関する「たとえ」が語られる。10:6で「たとえ」とされている語は、普通の本筋とは異なる仕方で語られる格言などを指している。宗教的な権威者達にしてみれば、神と信仰に関わることは、自分たちが見聞きし知っているものこそが唯一の神に至る本筋であることを疑っていなかった。したがって、主イエスの最初の「門」と「羊飼い」のたとえによって、自分たちの考え方の道筋から逸れたものを示された時、彼らはそれを理解することが出来なかった。なぜなら主イエスのたとえは人間としての彼らの権威の限界を問いかけるものであったからである。人間にとっては自明で疑ったこともないような権威に対して、本当にそうなのかと主イエスは問いかける。そのように問いかけられたことなどなかった彼らは、主イエスの「たとえ」を理解することができなかった。
その反応を受けてさらに「わたしは…である」という仕方で、主イエスがご自身の存在について「門」「羊飼い」として示される。それは、私たちにとってあたりまえで疑うことのないものとして見聞きしている権威は、決して私たちを導くものとして、究極でも永遠のものでもなく、むしろこの世の力によって生み出されたものでしかないことを問いかける。そして実は私たちには、真の和解と対話へと向かう道筋など見えてはいないこと、私たち自身で私たちの進むべき道を探し出すことなど出来はしないことを気付かせる。ならば私たちは道を見失い、迷い出ることしか出来ないのだろうか。
 だからこそ、主イエスは「門」として「羊飼い」としてご自身を語られる。私たちが道を見出すことが出来ない時、主イエスは私たちを呼びだし、私たちが帰り着く場所を示される。たしかにその道筋は、私たちに見えていた本筋とは異なるものかもしれない。それは、私たちが依っていた基盤と根拠を揺るがすこととなるかもしれない。けれども、それは私たちを真の平和へ、真の和解と対話への道へと呼び出す声なのである。
今、社会には偏狭な正義をで攻撃的に振りかざすことが空気のように浸透しつつある。他者を貶め非難し、自らの権威の正しさを疑わないことこそが、輝ける栄光の未来への道であり、その道は私たちの前に見えていると、私たちはいつのまにか思い込んでしまっているのではないか。そのような私たちに主イエスが呼びかけ、私たちがその声に聞く時、私たちは自分に見えている道ではなく、主イエスの声によって導かれる道へと歩みだすことが出来る。その道は私たちにとって、侮蔑の道、屈辱の道と映るかも知れない。なぜならば、私たちに呼びかけるのは十字架の低みへと下られた主イエスの声だからである。けれども、その十字架の先には新しい命があることを、主イエスはその復活によって示された。まさにその意味で、主イエスの呼び声は、私たちを主イエスの新しい復活の命へと呼び出す声に他ならない。

[説教要旨]2014/05/04「心は燃えていた」ルカ24:13−35

復活節第3主日

初めの日課 使徒言行録 2:14a、36-41 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 1:17-23 【新約・ 429頁】
福音の日課 ルカ 24:13-35 【新約・ 160頁】

 本日の福音書は、「キリストに出会うということを、大変印象深く物語っている。本日の福音書に登場する二人の弟子逃げ去るようにして、都エルサレムを後にしたのであろう。主イエスの十字架は、彼ら自身に危険が及ぶかも知れないという恐怖と不安の始まりでもあった。その途上は、一歩一歩が失意と絶望、恐怖と不安を深めるような、憂鬱で暗澹たる時間を過ごしたのであろう。そのいわば、この弟子たちにとっての人生最悪・最低の瞬間に、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」る。
 この時弟子たちは既に、主イエスが墓にはもう居られなかったということを知っていた。しかし、そのことはまだ彼らには、何の意味も持っていなかった。それゆえに、彼らは共に歩まれている方が主イエスであるということに気付くことができなかった。彼らの心の「目は遮られていて」彼らにとっての喜びであるはずの出来事を、空の墓に見つけだすことができなかったのである。その時の彼らは「暗い顔」をしていたと、聖書は告げている。キリストの復活を語る彼らはなお不安と絶望の中に留まったままであった。
 こうした弟子たちの姿を嘆いて、主イエス自ら聖書の説き明かしをされた時、彼らの中で決定的な変化が起こる。彼らが目指していたエマオの村に着いたとき、なおも先へ行こうとされる主イエスを二人は引き留め、共に食事の席に着き、パンを分かちあう。その時、彼らの「目が開け」、自分たちの目の前にいる方、共に歩んで来た方が主イエスであるということに気付くのだった。しかしその瞬間に、主イエスの姿は彼らの目からは再び見えなくなる。しかし、この時おそらく、再び部屋は空になってしまったにもかかわらず、彼らは最も近くに主イエスを感じたのではないだろうか。それは、主イエスの復活の知らせが単なる報告から、彼らの生き方を根本から変える力をもった出来事となった瞬間であり、まさに彼らが真の意味で主イエスに出会った瞬間であった。
 「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。二人はそう語り合い、時を移さず、ほんの少し前まで、最も逃げ出したい、恐ろしい場所であったはずのエルサレムへと向かう。客観的に見るならば、エルサレムからエマオへ逃げる時、逆にエマオからエルサレムへとへと向かおうとする時、この2つの場面において彼らが知っていた事実、「主イエスの死体は墓には無かった」という出来事に違いはない。しかし行きと帰りでは、その同じ出来事の持つ意味と力が全く異なったものとなっていた。「そこには何も無かった」という出来事は、復活の主イエスとの出会いを通して、絶望と不安の中で暗い顔をしていたはずの彼らに、燃える心、自分が逃げ出してきたはずのものへと立ち向かう力を与えたのだった。
 この物語がか語るものはまさにわたしたち一人一人の信仰生活そのものである。私たちが最も苦しく逃げ出したい時、私たち自身にはわからなくとも、主イエスは既に共に歩まれている。そして主イエスに出会う時、主の復活の出来事は、私たちに不安と絶望に立ち向かう力を与えるものとなる。
 私たちの生きる世界は、不安と絶望に満ち、希望も喜びも見出すことができないように見える。しかし、キリストはその私たちの不安と悲しみの道を共に歩んでいてくださっているのである。

2014年5月10日土曜日

2014年ルーテル三鷹教会バザーのご案内

今年の三鷹教会バザーは5/18(日)に開催されます。

2014年5月18日(日)12:00~14:00

ルーテル学院大学食堂にて

収益の一部は、福祉関連団体等に寄付させていただきます。

181-0016 三鷹市大沢3-10-20 (TEL.0422-33-1122)
ルーテル学院大学内 日本福音ルーテル三鷹教会

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[説教要旨]2014/04/27「平和があるように」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日


初めの日課 使徒言行録 2:14a、22-32 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 1:3-9 【新約・ 428頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】


本日の福音書の前半では家の中に集まっていた弟子たちの前に、復活の主イエスが姿を現されたことが述べられている。主イエスの墓が空であることを既に報告されていたはずだが、彼らはまだなお、恐れと不安の中に閉じ込められていた。さらに弟子たち同士の間でも疑心暗鬼になり、同じ部屋の中に隠れていても、互いを監視するような思いでいたかもしれない。その彼らの只中に復活のキリストは現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。
さらに復活の主イエスは弟子たちに「息を吹きかけ」る。息とは、聖書では「霊」とも訳される言葉であり、創世記で天地の創造に際して満ちていた神の力、またエゼキエル書で枯れた骨を生きたものにする神の力として語られている。主イエスは「息」を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と語られる。それは、恐れと不安に閉じ込められ、希望と平和を失っていた弟子たちの内に、主イエスは「互いを赦す力」「和解と平和をもたらす力」を創造されたということであった。「赦す」とは解放する、帳消しにするという意味でもあり、一方「赦さない」というのは、つかんではなさない、という意味の言葉でもある。主イエスが新たに一人一人の心の中に創られる力は、私たちがつかんで離すことができないものを手放し、代わって、和解と平和、赦しをもたらす力であった。弟子たちは恐れと不安に閉じ込められていたが、それは同時に、彼らが自分達の適わなかった思いをつかんではなさなかったがゆえに、そこから踏み出すことができなかったとも言える。そこに主イエスの息吹が与えられた時、彼らは「新しい命」として生きることが出来たのである。
本日の後半には、この出来事の際に居合わせなかったトマスが登場する。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というトマスの言葉は、今の自分に平和が赦しが訪れることなどありえないと訴えているかのようである。自分自身の苦しみと痛みを訴えることによって、ますます復活の喜びを拒み、斥けようとする、そんな人間の有様を、このトマスは象徴するかのようである。ところが、そのようなトマスの前にも、復活の主は現れ、呼びかけられる。
この地上で生きる私たちもまた、自分自身の現実に絶望し、それを変えることができない無力さをただ嘆くばかりである。この現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の叫びを私達の誰もが抱えている。しかし、そのような深い疑いを持つ私たちのもとにもまた、主イエスは呼びかけられる。鍵のかかった部屋に隠れていた弟子達の元へ、主イエスの復活を信じることの出来なかったトマスの元へ、主イエスは訪れられ、平和を創り出す力、赦しをもたらす力を与えられたのだった。
周りで起こる様々な変化に私たちは戸惑い、失われてしまったものを嘆き悲しむことから抜け出せずにいることがある。けれども、復活の主イエスは、私たちのもとを訪れ、呼び掛け、その息・聖霊によって、私たちに新しい命と主にある平和を与えて下さっているのである。

2014年5月4日日曜日

[説教要旨]2014/04/20「なぜ泣いているのか」ヨハネ20:1−18

主の復活

初めの日課 エレミヤ 31:1-6 【旧約・ 1234頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1-18 【新約・209頁】

本日はイースター・復活祭の日曜を共に祝っている。キリスト教会は、この主イエスの復活の出来事をこそ、出発点として、全ての源泉としている。

本日のヨハネ福音書の物語の流れを振り返ると、「しかし」という表現が頻繁に出てくることに気付く。まさに復活の出来事は「しかし」の連続である。その意味で「復活」とは私たち人間の価値観に対する、究極的な「しかし」すなわち「逆接」の出来事である。私たちは現実生活の中では「〜だから、こうなる」という因果関係の世界の中で生きるしかない存在である。それに対して「復活」の出来事は、私たちの前に「しかし〜である」という世界を開く出来事なのである。

墓の外に立つマリヤが求めていたのは、主イエスの亡骸であった。しかし、マリヤはそれを見つけ出すことができず、ただ泣くばかりであった。たしかに、亡骸を探すのであれば、マリヤの体験、墓は空であったという体験は、自らのもとにあるはずのものが取り去られた、自らの思いが叶わなかった、という体験でしかない。そして、彼女のこの思いは決して叶うことはなかった。なぜならば彼女は、主イエスの亡骸ではなく、生ける主に出会ったからである。さらに彼女が復活の主にであった時も、主イエスに触れることを禁じられます。言うならば、ここでも彼女は思い通りに振る舞うことは出来なかった。しかし、もはやマリヤは泣いてはいなかった。彼女は弟子達のところへ向かい、「わたしは主をみました」と告げ、ヨハネ福音書の中での、復活の主イエスの最初の証言者となった。

マリアを、その涙の中から立ち上がらせたのは、全ての事が彼女の思い通りに進んだことで満足したからではなかった。むしろ彼女の願いはことごとく打ち消されている。「しかし」、マリヤは主の復活の最初の証言者となる。悲嘆の中に沈み続けるマリヤは、いわば「〜だから、こうなる」という世界の中で、「なぜこんなことが」を問い続けていた。ところが復活の主イエスは彼女に「しかし」という世界を開く。主イエスの亡骸は無い。しかし、主イエスは生きておられる。私の思いは、全て叶わない。しかし、私はもはや涙を流すことはない。この「しかし」の世界に生きることを、マリヤは復活の主イエスとの出会いによって体験したのだった。

私たちは、この現実の生活の中で、常に自分の無力さに絶望的な気持ちをもって、向かい合わされている。この目の前にある困難を解決する力など自分には無い。だから私はただ泣くしかない。自分の望むことは何一つかなえられない。だから、私はただ悲しむしかない。それが私たちの生きている世界の有り様である。「しかし」そうした私たちの絶望的な思いすらも、イエスの復活の出来事は突き崩す。主イエスの復活は「〜だから〜こうなる」という私たちの世界の中では理解しえない出来事である。しかし、私たちの外側にある事柄だからこそ、その出来事によって、私たちが直面するあらゆる行き詰まりと絶望は崩されるのである。

私たちが自分の力によって、希望と未来はどこにあるのかを見出すことは出来ないならば、マリヤのように、ただ泣くしかない。しかし、復活のキリストに出会う時、自力では希望も未来も見出せなかったとしても、しかし「私は主をみました」と喜び、その喜びを伝え合い、分かちあうことが出来るのである。

[説教要旨]2014/03/23「命の泉」ヨハネ4:5-42

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト記 17:1-7 【旧約・ 122頁】
第二の日課 ローマ 5:1-11 【新約・ 279頁】
福音の日課 ヨハネ 4:5-42 【新約・ 169頁】

教会は主イエスの受難と復活を憶える四旬節を過ごしている。この四旬節の期間に私たちが向き合うべき自らの罪とは何なのだろうか。振り返るならば、私たちの生きるこの世界には、あまりにも多くの隔ての壁が存在している。しかもその壁は、私たちが自らの聖域を守りたいという思い、また、そのためにこれこそが正しいやり方であるという思いから生み出されている。だとするならば、私たちが聖域と正しさを求める思いそのものが、私たちを引き裂き、憎悪を煽る罪を作り出しているとすら言えるのではないか。

本日の福音書は、ヨハネによる福音書から主イエスとサマリアの女性、そしてサマリアの人々との出会いについて取り上げられている。ユダヤとサマリアは同じルーツを持ちながらも、歴史の変遷の中で分裂し、互いに自分たちの神殿を「唯一の聖なる場所」として譲らず互いに報復を繰り返したため、対立と憎悪を深めていた。そのような歴史を背景にしつつ、主イエスとその一行がサマリアの地を訪れるこの記事は、他の福音書の中でもひときわ目立つ物語であると言える。それは、民族と宗教を含めた、あらゆる人と人との対立、隔ての壁を主イエスの言葉が乗り越えてゆく物語である。

物語の発端では、ヨハネ福音書におけるその他の多くの物語と同じように、見えない事柄について語る主イエスと、見える事柄から語るサマリアの女性との対話はかみ合うことがない。けれども26節「それは、あなたと話をしてるこのわたしである」という主イエスの言葉において、いずれ渇いてゆく「見える世界」と、渇くことのない「見えない世界」を結びつけるものは主イエスご自身であることが語れる時、一つの焦点を結ぶこととなる。この焦点が合い始める切っ掛けを二人の対話を遡って探すならば、15節「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とこの女性が主イエスに求めたところから始まっていると言える。それは水を求める主客が逆転し、サマリアの女性が、渇くことのない水は自らの中にはないということ、すなわち、現に今自分が有しているものではなく、自らの中には無いものによってこそ、自らは生かされる存在であることを知り始めた瞬間であった。主イエスは語られる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主イエスが与えられる水、つまり私たちの外から与えられる生きた水だけが、私たちのうちに命の泉をもたらすことを聖書は語る。

荒野のような現代社会の中を生きる私たちは、自らの魂の渇きを癒すものを常に求め、そしてそれゆえに自らの内にある正しさを守り続けようとする。しかしそれはむしろ、互いに裁き合い、傷つけ合うことしか生み出さず、ますます私たちの渇きを増すだけである。むしろ、私たちの内には無い、主イエスが与えて下さるその言葉だけが、私たちの渇きを真に癒すことができるのである。なぜならば、主イエスの言葉は、私たちの罪を贖うために、その十字架で分け与えられた、主イエスの命を私たちに与えるものだからである。主イエスの命の言葉は私たちの内で命の泉となり、私たちを新たに生きるものへとする、唯一の力なのである。

2014年3月22日土曜日

2014年イースター関連のご案内[04/18-04/20]

今年の復活祭(イースター)は4/20(日)です。

 イースターを迎える週の礼拝、諸行事は次の通りです。

 4/18(金)19時  受苦日礼拝 (チャペルにて)
 4/19(土)18時  イースターヴィジル(ルーテル学院大正面玄関前に集合、その後チャペルに移動します) 
 4/20(日)10時半 復活祭礼拝(チャペルにて) 礼拝後、各自一品持ち寄りによる祝会が行われます。

 また4/19(土)14時より、三鷹教会集会所にて教会学校を中心にイースターエッグ作りをします。

 皆様のご参加をお待ちしております。

2014年イースターヴィジルのご案内[04/19]

2001年より日本ルーテル神学校とルーテル三鷹教会の共催ではじめられましたイースターヴィジルを本年も下記の要領で行うこととなりました。
 皆様のご参加をお待ちしております。

  日時 2014年4月19日(土)18:00-20:00
  会場 ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャペル

イースターヴィジルは復活徹夜祭とも呼ばれ、古代の教会では元来の復活祭礼拝として年間を通して最も重要な礼拝でしたが、時代と共に限られた聖職者のみで執行されるようになってゆきました。
しかし1950年代に入り、カトリック典礼改革運動の盛り上がりとともに見直され、1960年代にはルーテル教会の式文にも採用されることとなりました。 いわば、現代の礼拝刷新運動の原点とも言える礼拝です。
 現在、日本ルーテル神学校・ルーテル三鷹教会で行われているイースターヴィジルの内容は、1.光の祝祭 2.み言葉 3.洗礼を憶えて 4.聖餐 5.派遣から構成されており、暗闇から光へと復活する主の御業を追想しながら、洗礼の恵みに感謝し、共に聖餐に与ります。

主の復活を迎えるイースターヴィジルに是非お越しください。

[説教要旨]2014/03/09「荒れ野に導かれて」マタイ4:1-11

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 2:15-17、3:1-7 【旧約・ 3頁】
第二の日課 ローマ 5:12-19 【新約・ 280頁】
福音の日課 マタイ 4:1-11 【新約・ 4頁】

 先週の水曜日からイースターまで四旬節が始まった。その最初の主日礼拝には主イエスの荒れ野での試練と誘惑の箇所が選ばれている。この40という数字は旧約聖書で度々荒野の記事とともに登場する。その意味で「荒野」を旅する40の時とは、危機に瀕し、将来に不安と恐れを抱えたまま彷徨う場所と時を象徴していると言える。現代の日本社会に生きる私たちは、常に不安と怖れの中で生きているとも言える。今年もまた3月11日が巡ってくる時、あの東日本大震災から既に3年の月日が経ちつつも、外見上の復興とは裏腹に、多くの傷と危機が私たちの生活の中に存在し続けていることに愕然とする。しかし私たちはそうした傷や危機の中で歩むことを、自分から遠く離れた一部の地域と人々に、もう過ぎ去った出来事として押しやることで、自らの不安と怖れから逃れようとしている。そのような中で、この四旬節、私たちの生活の日々に主イエスの荒れ野での時が結び付けられる。
 本日の日課で主イエスは「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とある。旧約においても、むしろ主なる神が預言者あるいは民を荒れ野へと導く。荒れ野での危機の時は、思い描いていたはずの、安定と成長が約束された未来とは相容れないものであっただろう。エジプトでの奴隷の生活から脱出した後、荒れ野での生活に不満をもったイスラエルの民がモーセを非難する様子はまさに、大きな危機が過ぎ去った後、なによりもまず自らが満たされることだけを求めてしまう、私たち人間の姿を浮き彫りにする。しかし荒野における試練の時とは、決して無意味な時ではなかった。イスラエルの民にとっての荒野での40年とは、エジプトの肉鍋を欲し、金の子牛を拝むことで安心を得ようとした者達が神の民となるために、神の救いの業の実現において不可欠なものであった。
 主イエスにおいてもまた、荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものとして描かれる。ヨルダン川での洗礼からこの荒れ野の試練が続いているということは、神の子が救いを宣べ伝え始めるにあたって、この荒野の時がなければならかったことを示している。本日の日課で登場する誘惑者は、主イエスに対する誘惑でありながら、同時に、今を生きる私たちにとっての誘惑・試練でもある。私たちの命は何によって支えられるのか。私たちの未来は何によって守られるのか。その問いはまさに現代を生きる私たち自身の問いでもある。一人の人としてこの地上を歩まれる主イエスは、そうした誘惑に対して徹底して聖書の言葉を持って応え、力によって自らの安定と反映を手にすることではなく、むしろ人としての自らの弱さに留まられる姿を示される。そしてやがて、この弱さの極みある、十字架へと主イエスは向かわれる。弱さの極みであるはずのこの十字架は、この地上のあらゆる力を圧倒する救いの出来事、新しい命を私たちもたらす出来事となった。
 主イエスの荒れ野での40日とその誘惑は、現代の荒れ野の中で様々な試みの中で生きる私たちに、弱さの中に留まる事の意味を示す。私たちに真の自由と解放を与えるのは、力による安定でも成功でもなく、この弱さの中で私たちを待つ主イエスの十字架に他ならない。私たちが自らの不安と怖れを自らのものとして、自らの荒れ野を歩む時、自由と解放に生きる新しい命を与える主イエスの十字架の出来事は、私たちに最も近づくのである。

2014年3月8日土曜日

[説教要旨]2014/03/02「神の心に適う者」マタイ17:1-9

変容主日

初めの日課 出エジプト記 24:12-18 【旧約・ 134頁】
第二の日課 2ペトロ 1:16-21 【新約・ 437頁】
福音の日課 マタイ 17:1-9 【新約・ 32頁】

教会の暦では本日は変容主日であり、顕現節は終わり、今週の水曜日から四旬節に入る。降誕節と顕現節の主題は光であったが、本日の福音書ではまさに主イエスが光り輝いたことが取り上げられる。主イエスの受難を憶える、悲惨で陰鬱な印象を受ける四旬節の直前に、主イエスが光り輝いたという、いわば栄光の出来事を憶えることの意味はどこにあるのだろうか。
マタイ福音書17:9でペトロ達は「今見たことを誰にも話してはならない」と命じられる。この「見たこと」という語は、ギリシア語に翻訳された旧約聖書での出エジプト記において、モーセが神と出会う、燃える柴の箇所で、「この不思議な光景を見届けよう」と語る時の「光景」という語として用いられている。その意味で、ペトロ達が「見たもの」とは神が現れ、働いた出来事であったことを示している。それはまさに、神の救いの業が、この地上で主イエスにおいて実現するということは、人間の理解を超えた、想像を絶する事柄であることを、この物語は示している。
この箇所にいたるまでの福音書の物語では、主イエスは人々に福音を伝え、そして癒し、命を救う業を行ってこられた。しかし本日の日課では主イエス自身が光り輝く。つまり神の業が、主イエスの体を通して実現することを示すものであった。主イエスの体を通して実現する、人知を超えた神の救いの業とは、主イエスの十字架とその死から復活された出来事に他ならない。本日の箇所において主イエスが光り輝くのは、この先に主イエスを待ち受ける、十字架と復活の出来事が放つ光の先取りに他ならない。
この後十字架の苦難の道を歩み始めることとなる主イエスに、光り輝く雲の中から神の声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。実に、主イエスがこの地上の世界へと届けられた光、そして示されたその栄光とは、伝統と権威の高みに留まり、手にした者を失うことなく、譲ることなく、保持し続けることではなかった。むしろ、その身をも用いて、世に生きる人々の苦しみを担い、喜びと恵みを分かち合うということこそが、主イエスがもたらされた光であり、主イエスご自身の栄光に他ならなかった。主イエスによって示される神の栄光と威光とは、権威の高みではなく、むしろ低きへと降り、苦難を共に担い、命を分かち合う姿を通してこそ現れるのである。
さらに、光り輝く主イエスは、そのままの姿で山に留まることはされず、再び人々のところへと戻られ、そして十字架への道を進んでゆかれる。それは、主イエスが私たち人から離れたところで、聖なる姿を保つためではなく、私たちのさまざまな苦しみと嘆きを共に担われるために、そしてその全てをもって十字架へと進まれるために、この世に来られたことを物語る。また山から下りるに際して、主イエスはペトロらに「起きなさい。恐れることはない」と語りかける。主イエスの十字架への道は、苦難の道であると同時に、新しい永遠の命への道、救いと喜びへの道であることを、御自分に従う者達に示されたのだった。
私たちは、まもなく主の受難とそして復活とに備える四旬節を迎える。私たち自身の恐れと不安を、主イエスがその受難と復活によって打ち破られたこと、主の栄光は、苦難と喜びとを分かち合う中にこそ現れることを覚え、この時を過ごしてゆきたい。

2014年2月26日水曜日

[説教要旨]2014/02/23「愛すること、祈ること」マタイ5:38−48

顕現後第7主日

初めの日課 レビ記 19:1−2、9−18 【旧約・ 191頁】
第二の日課 1コリント 3:10−11、16−23 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:38−48 【新約・ 8頁】

 本日の福音書は引き続きマタイ5-7章「山上の説教」の一部が取り上げられ、先週と今週の日課では「反対命題」と呼ばれる一連の「しかし、わたしは言っておく」に続く教えが語られる。主イエスの教えでありながら、この箇所を読む私たちは大きな戸惑いを隠すことが出来ない。というのも「しかし、わたしは言っておく」に続く教えは、私達の考える合理性と常識を無視したものばかりだからである。特に本日の、敵を愛せよという教えは、大変良く知られていながら、そのことを実践することの困難さもまた知られている箇所である。これらの教えを全て私たち人間が守らなければならないとするならば、それは特殊な限られた環境の中にあるものか、あるいは終末が切迫した限られた時間の中でのみ、守ることが出来るとしか言いようがない。しかしそのいずれの場合も、主イエスの言葉は私たちが生きている状況から遠く離れてしまう。ならば私たちはどのようにして、主イエスの言葉と歩んでゆけばよいのだろうか。
 主イエスはこれらの「しかし」を通して、私たちに本当の意味での「完成」とは何かということを示される。それは「新たな、そして永遠の命の内に生きる」ということに他ならない。復讐せず、敵を愛せよという命令は、私たちの合理的な判断を大きく超え出たものである。けれどもそれは、主イエスが私たちに示される新しい命における生き方なのである。主イエスは合理的なあり方を踏み出て、襲い来る「敵」に与え、愛し、祈ることを命じられる。それは、私達が「敵」であると思い込んでいた相手が、同じ弱い人間に過ぎないことを思い起こさせ、むしろ敵の姿を創り出していたのは自分自身であることに気付かせる。主イエスの「しかし」という言葉は、自らを絶対化し、他者を断罪する私たちの価値基準に対して発せられている。
 主イエスは語る。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)。完全なものになるということは、決して欠けや漏れのない、完全無欠な存在になることではない。私たち人間は、常に未完成の部分、欠けや漏れを抱えたまま生きざるを得ない存在でしかない。しかしそのような私たちに、主イエスはその十字架によって、神の愛を示された。十字架とは、神の前では不十分なものでしかありえない私たちの苦しみを共に担うために、その命を分かち合って下さったということに他ならない。自らの命を、何の代償もなく十字架において私たちのために投げ出され、しかしその死で終わることのない、主イエスの言葉と歩みによって、神の愛と憐れみに満ちた新しい世界への道筋が私達に開かれたのである。
 私達自身はたしかに、不完全でありながら自らの正しさによって人を裁き、敵を作り上げてしまう存在でしかない。しかし、十字架において命を分かち合われた主イエスの言葉は、私達の現実を揺るがし、そして私達に、与え、愛し、祈ることを可能とさせる。たとえ私たち自身が、主イエスの言葉から遠く離れ、その命じられることを十分に果たす力を持ち得なかったとしても、逆に主イエスの言葉の方が、私たちのもとへと近づき、私たちを力づけ、互いに愛し、祈り合う者へと変えて行くのである。

2014年2月22日土曜日

[説教要旨]2014/02/16「 しかし、わたしは言っておく 」マタイ 5:21-37

顕現後第6主日
初めの日課 申命記 30:15-20 【旧約・ 329頁】
第二の日課 1コリント 3:1-9 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:21-37 【新約・ 7頁】

本日の福音書は、先週から続いて、「山上の説教」と呼ばれているマタイ5-7章の一部が取り上げられている。本日の日課の一つ前の段落では、主イエスは「律法と預言を完成するために来た」と語られる。本来、モーセが神と結んだ契約とは、律法を通して、神はいつも人と共にいる、ということであった。しかし、長い年月の間に生活形態が大きく変化し、古い文言によって規定された伝統的な生活をおくることは困難になってゆく。結果として人々は、「律法を守れる者」と「守れない者」とに分断されることとなった。主イエスの時代、律法を守ることのできる「正しい人」とは、伝統的な生活を維持することが可能な者たちに限られることとなった。決められた律法を守ることのできる者は自らを人間として価値高いものとみなし、守ることのできない者を価値が低いものとして切り捨てることとなった。
しかし、本日の日課で主イエスが語られることは、人間が自分で勝手に正しいと思いこんでいる正義、人の正義を否定する。そこでは何度も「(あなたがたも聞いているとおり、)?と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という主イエスの言葉が繰り返される。この主イエスの「しかし」という言葉は、私たち自身が創り上げてしまっている人を裁いてしまう私たちの思いこみに対して発せられている。山上の説教はその冒頭で「幸いである」という祝福の言葉から始まる。これらの祝福は、私たちが懸命に努力するから達成出来ることというよりも、私たちの外から、救い主キリストが語られるからこそ、それは私達の生きるこの現実の世界に力をもたらすものとなる。
本来、律法は、神が恐れと不安の中にある人間に常に愛を注いで、守り導いていることの証しであり、神がその愛によって、人を生かすためのものであった。しかし、それがいつのまにか、愛の要素が抜け落ち、自らの恐れと不安を打ち消すために、他者を裁き、分かち、自らの正しさを言いつのるためのものへと変わってしまっていた。その結果、むしろ人は、神の愛から離れてしまっていた。主イエスは、まさにその神の愛へともう一度人間を引き戻すために、この世界へとやって来られたのでした。まさにその意味で、主イエスは「律法の完成者」、律法の本来の姿を取り戻す方に他ならない。人を裁き、攻撃し貶めることしかできなくなった律法を、主イエスは根本から作り替える。それは、律法に名を借りた、恐れと不安から人を解放し、神の愛による支配をうち立てることであった。
何よりも主イエスは、その十字架によって、神の愛を私たちに示された。それは主イエスが、私たちが負うべき苦しみを共に担って下さったということに他ならない。この主イエスの、自分自身を空しく無に等しいものとしてまで、他者と共に歩むという姿こそが神の正しさなのである。それは、対立ではなく和解を、憎しみではなく分かち合いを生み出すため、己を空しくしていくことでもある。確かにそれは、この世の価値基準からみるならば、愚かで無意味なことと見えるかもしれない。しかし、それは決して古びることもなく、色あせることも、時代遅れになることもない、永遠の価値を持つものなのである。

[説教要旨]2014/02/09「あなたがたの光を」マタイ5:13―17

顕現後第5主日
初めの日課 イザヤ 58:1-9a 【旧約・ 1156頁】
第二の日課 1コリント 2:1-12 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:13-20 【新約・ 6頁】

本日の福音書は、5章から7章まで続く「山上の説教」の一部となっている。それは主イエスを中心にして弟子たちが集い、そしてさらにその背後に大勢の群衆がいることが考えられている。その意味で、ここで語られる言葉は、主イエスに従う者全体に対して向けられていると言える。本日の箇所では、これらの弟子達そして人々に主イエスは「地の塩」「世の光」になれ、とは命じてはいない。そうではなくあなたがたは地の塩「である」、世の光「である」と、現にそうであるものとして語られている。主イエスを信じ従う者になるために、この世で立派で正しい行いをしなければならない、ということではない。そうではなく、主イエスを信じ、その福音を受けて生きるということそのものが既に、「地の塩」「世の光」であることの核心部分なのである。
主イエスは、闇の中で苦しむ人々の真の光であることが、4章の終わり、主イエスの宣教の開始の場面で語られた。それはまさに「曙のように」差し込んでくる光である。そして今や、私たちのところにその光は届き、私たちはその光を受けているがゆえに「あなたがたは世の光である」と主イエスは語られるのである。この主イエスの恵みの光は、人間の不安や怖れによって覆い隠すことは出来ない。主イエスから与えられる恵みと喜びを、私が自分だけが豊かにそして強くなるために、自分だけの中に確保し、消費することもまた出来ない。たとえ、そこで私たちがなし得ることが、ごく僅かなものであったとしても、人の目には不十分なものにしか映らなかったとしても、この恵みは隠されることなく、必ず輝くのである。
本日の初めの日課であるイザヤ書58章は、ユダヤの民が半世紀あまりにわたる、異国の地バビロンでの捕囚から解放され、故郷にもどった後の時代の言葉であるとされている。戻ることはできた故郷は荒廃しきっており、再建した神殿も過去の栄光ほど遠いものでしかなかった。約束されていたはずの栄光はさっぱり見えず、それどころか常に飢饉を恐れながら生きなければならず、人々は失望の内に自分の欲望・願望を我先に見たそうとした。そのような時代の中で語られた神の言葉は、囚われた者を解放し、困窮のうちにある者と分かち合う時こそ、光は輝くのだ、ということであった。先の見えない、恐れと不安の中で語られた神の言葉はまるで、マタイ25章で主イエスが譬えの中で語られた言葉『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』を思い起こさせるものであった。イザヤ書が告げた光はまさに主イエスにおいて、この世界へと差し込んできたのである。恐れと不安から自らが満たされ、強くなることだけを求め、弱い者を虐げ、奪い取り傷つけ合う、そのような世を、主イエスの「光」は変えてゆく。
主イエスは十字架という絶望と苦しみの中に、新しい命を示された。それは、私たち人間の目からみるならば、とてもそこに利益を、発展を、未来を見出すことが出来ないようなそのただ中に、神が新しい命への道を備えられた、その恵みと希望を私たちに伝える。主イエスの恵みの光こそが、闇に覆われたこの世界の有り様を、また私たち自身を変えてゆく神の力なのである。

2014年2月8日土曜日

[説教要旨]2014/02/02「主の恵みを伝え合う 」使徒20:32-38

顕現後第4主日・定期教会総会

初めの日課 ミカ 6:1-8 【旧約・ 1455頁】
第二の日課 1コリント 1:18-31 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・ 6頁】

定期教会総会にあたり2014年度の三鷹教会の主題聖句として使徒言行録20:32を選んだ。本日はこの箇所からみことばを聞いてゆきたい。使徒言行録20章は、使徒言行録の中でのパウロの三回目の宣教旅行の終わりの部分にあたる。この後パウロはエルサレムへと向かい、そこで逮捕・投獄され、やがてローマへと連行されることとなる。20章の冒頭でパウロは、弟子達を集めて励ました後、マケドニアへ出発し、かの地の弟子達を「言葉を尽くして人々を励ました」とある。教会の信徒達に対して、言葉を尽くして励ますことは、使徒言行録におけるパウロの主要な働きであった。そして、パウロはこの後に自らを待ち構えている運命を予感しつつ、ミレトスにエフェソの教会の長老達を呼び寄せて別れの言葉を残す。しかしその内容は、エフェソの教会にだけ向けられたものというより、むしろそれまでのパウロの宣教活動全体を振り返ったものとなっている。つまりこのメッセージはむしろ、パウロの遺訓の形をとって、今この使徒言行録の物語の読者に向けて、その信仰の交わりが励まされ力づけられるために、パウロのメッセージの全体を再確認するものであった。かつてパウロが語った、キリスト者の交わりを励まし力づけるメッセージは、今日そして今、私たちにとってもまた意味あるものであることを、この箇所は確認する。
そのメッセージを締めくくるにあたって、この世において教会を様々な苦難が襲うことが語られる。それは、教会の外からの迫害、また教会の内部での分裂を予想させるものであった。しかしたとえそうであっても、パウロにとって「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」(24節)を教会の交わりにおいて分かち合うことは、これからぶつかる苦難に対抗する大きな力であった。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)と彼は語る。「神とその恵みの言葉」とは「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」と同じことを意味している。つまり、たとえ様々な不安と困難が私たちの教会を取り巻いていたとしても、私たちは既に「神の恵みの福音」の内にゆだねられているのである。さらに教会が今や、神の恵みの福音にゆだねられているということは、今この地上において私たちを「造り上げる」と共に、私たちに「恵みを受け継がせることができる」のだと、パウロは語る。今や主の恵みの福音を分かち合い、励まし、力づけることは、パウロだけではなく、このメッセージを聞く全ての教会に託され、引き継がれている。実に、教会に集う一人一人が、互いに主の恵みの福音を伝えあう時、私たちを取り巻くさまざまな不安と困難に立ち向かう力をもまた、分かち合い、伝えあうことが出来るのである。
そしてさらにパウロは教会の使命として、「弱い者を助けるように」そして「受けるよりは与える方が幸いである」と語る。不安と不満が立ち込める今の時代、力を誇り、奪い取り、支配することが賞賛されつつある。しかし、そのような時代の中で、弱さの中に与えられる神の恵みを告け?合い、分かち合うことこそが、教会の使命に他ならない。この2014年、私たちが、主の恵みを伝えあう交わりとなる道を歩むことが出来るよう祈り求めてゆきたい。

[説教要旨]2014/01/26「光が射し込んだ」マタイ 4:12-23

顕現後第3主日

初めの日課 イザヤ 8:23-9:3 【旧約・ 1073頁】
第二の日課 1コリント 1:10-18 【新約・ 299頁】
福音の日課 マタイ 4:12-23 【新約・ 5頁】

本日の福音書は、前半では主イエスの公の活動が開始されたことが報告され、そして後半ではその公の活動の始まりとして、漁師たちを弟子にする様子が報告されている。主イエスの公の活動が始まるのは、洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞いて、「ガリラヤに退かれた」ことがきっかけとなる。
ガリラヤという土地はイスラエル北部の周縁地域であったために、古来より何度も北方の大国の支配下におかれてきた。このために移民が繰り返され、都の者達から蔑まれることも少なくなかった。一方で肥沃な農地であったために、都市の富裕層による大土地所有が進み、土地を失った農民の多くが奴隷へと身を落とし、社会格差は拡大した。いわばそこは、この世界の闇と陰が色濃い場所であった。しかしあらゆる時代の国と地域において、まさにこのガリラヤのような場所が存在することをまた私たちは思い起こす。それは現代の私たちが生きている場でもあると言える。そして、そのような場所に主イエスが「退かれた」のは、救いの物語を進めるために他ならなかった。そのことを、福音書記者マタイはイザヤ書からの引用「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」によって印象づける。しかし実はイザヤ書では「光が輝いた」となっている箇所が、マタイでは「光が射し込んだ」とされている。夜明けの瞬間に、闇の彼方から光が自分たちの元へと射し込み近づいてくる、そのようなダイナミックな表現をもって福音書は主イエスを描き出す。
主イエスの宣教活動の第一声「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、マタイによる福音書では、既に洗礼者ヨハネが3:2で語っていた言葉であった。それはヨハネが始めたことを主イエスは引き受けられたことを物語る。そのことは、やがてヨハネが捕らえられ、処刑されたように、主イエスもまた捕らえられ、十字架において処刑されることを暗示させる。けれども、その十字架において、主イエスは救いと永遠の命を与えられたこと、それこそがまさに良き知らせすなわち福音であること、救いの出来事は展開してゆくことを福音書は物語る。マタイ福音書は、主イエス自身がガリラヤへと退くことを「光が射し込んだ」と語る。つまり主イエスが闇と影の地へと退かれたことによって、光は私たちのところへと射し込み、天の国が私たちに近づいたのである。だから闇と陰に覆われた場所にしか生きることの出来ない私たちは、そこに差し込む光、主イエスに自らの存在を委ねることが出来るのである。
暗闇の地に射し込んだ光、主イエスは、その最初の宣教活動として、湖のほとりに生きる漁師たちを弟子へと召し出す。ペトロと呼ばれるシモンたちが、主イエスに従うものとなったのは、何よりも主イエスの招きの呼びかけがあったからだった。主イエスご自身が、ペトロたちの生きる、その湖の畔へと歩み寄って呼びかけ、光の中へと召し出されたのである。続いて聖書は、主イエスはガリラヤ中を回り、教え、良き知らせを述べ伝え、そして人びとを癒されたことを伝える。それはまさに、私たちが生きる地に、主イエスの光が射し込んで来ることを物語る。
その光の中へと招く主イエスの言葉を、私たちは今も聖書を通して私たちは受けとっているのである。

2014年1月23日木曜日

[説教要旨]2014/01/19「見よ、神の小羊」ヨハネ1:29ー42

顕現後第2主日

初めの日課 イザヤ 49:1ー7 【旧約・ 1142頁】
第二の日課 1コリント 1:1ー9 【新約・ 299頁】
福音の日課 ヨハネ 1:29ー42 【新約・ 164頁】

 昨今の社会の動向を鑑みる時、その信仰的立場から、キリスト者が平和と正義と和解と対話を求める声を上げてゆかなければならない緊張感を感じる。しかし、果たしてそのような声を上げたところで、その声はどれほど聞かれるのか、どれほど実りをもたらすのかを考えるならば、絶望的な思いにもとらわれる。
 声を上げた人物というならば、新約聖書では、本日の日課に登場する洗礼者ヨハネをまず思い起こす。彼は「荒れ野で叫ぶ」ものであり、本日の日課23節では預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と語る。洗礼者ヨハネはまさに人々に呼びかける叫びの「声」であった。マタイ福音書では彼が世の権力者たちの腐敗を訴え、人々に悔い改めを呼びかけたことが記されている。その声は確かに人々を呼び集めるが、最終的には権力者たちの暴力によってヨハネは捕えられ処刑されてしまう。しかし、今私たちはこうして洗礼者ヨハネの声を、聖書を通して受け取っている。その意味では、荒野で叫ぶヨハネの声はむなしく消え去ったわけではなかった。そして、それはなによりも、洗礼者ヨハネが主イエス・キリストと出会ったからに他ならなかった。本日の日課で、ヨハネは主イエスが自分の方に近づいてくるのを見る。荒れ野で叫ぶヨハネが、主イエスのもとに出かけたのではなく、主イエスが、ヨハネへと近づいてくるのである。それを見たヨハネは「見よ、神の小羊だ」と語る。
 ヨハネ福音書では時折出エジプトの出来事を思い起こさせる記述が登場する。「神の小羊」という表現も、出エジプト記で語られた過ぎ越しの小羊を思い起こさせる。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、過ぎ越しの夜、小羊の血を家の門に塗って難を逃れた。そしてそのことが、エジプトを脱出し、解放へと歩みをすすめることへと、歴史を大きく動かしてゆくことになった。「神の小羊」とは、いわば一人の力では太刀打ちできないような強大な力を前にして、解放をもたらす神の救いの歴史が動いてゆく、そのような出来事をもたらす存在である。歩み寄る主イエスを見出だしたヨハネはこの方こそ「神の小羊」であると語ります。それはまさに、この主イエスにおいて、救いの歴史がヨハネのもとへと近づき、動き出すことを物語る。主イエスに救いの出来事を見出した洗礼者ヨハネの声は、むなしく荒れ野に響くだけではなかった。一人の力では太刀打ちできないような、どれほど大きな力の前に人がおののいたとしても、主イエスが十字架に死に、そしてその死から蘇られたという出来事と共に、洗礼者ヨハネの声は、救いの歴史が動き始めたことを告げることとなった。
 ヨハネの声を聞き、主イエスこそが私たちに救いと解放をもたらす神の小羊であることを私たちが見出す時、たとえ私たち一人一人の力は、十分ではなかったとしても、私たちの声が世界を動かすことが出来なかったとしても、他ならない主イエスキリストご自身が私たちのその声を受け止めてくださること、ご自身の十字架と復活の出来事によって、この地上の世界に、平和と和解、救いと解放をもたらしてくださることを、私たちは確信することが出来るのである。私たちに与えられた、救い主、神の小羊主イエス・キリストに希望と信頼を置きつつ、私たちの地上の歩みを続けてゆきたい。

2014年1月17日金曜日

[説教要旨]2014/01/12「我々にふさわしいこと」マタイ 3:13-17

主の洗礼(顕現後第1主日)

初めの日課 イザヤ 42:1-9 【旧約・ 1128頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 マタイ 3:13-17 【新約・ 4頁】

「主の洗礼日」とされている本日は、教会の歴史の中では降誕・顕現の出来事の一環として、神がこの世に受肉したことを憶える時とされてきた。降誕、顕現、主の洗礼はいずれもが、本来天にある神の愛と慈しみが、私達人間の生きるこの地上の世界において結実した出来事であった。
他方「罪無き神の子」が罪の赦しの洗礼を受けたことは古代のキリスト教会においては大きな躓きでもあった。論理的には神の子の受洗は無意味で不必要なことである。しかしそれはむしろ、人間の論理を超えて、地上に生きる私達と同じ地平へ救い主がやって来られたことを示すのである。それゆえに本日のマタイ福音書では、冒頭で主イエスがガリラヤからヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとへとわざわざやって来られたことを確認する。直前の箇所で、多くの人々が洗礼を受けるためにヨハネの元に集まって来ていたことが報告されている。主イエスはこの人々と合流し、民の一人としてヨハネのもとにやって来る。しかしヨハネは、主イエスを他の人々と同列に扱うことを拒絶する。確かにヨハネが、後から来る方に対して自らを「履き物をお脱がせする値打ちもない」と位置づけていたことからすれば、それは論理を通すことであった。ここで主イエスとヨハネの対話は否定と肯定とが交錯する。二人の関係に限定して見るならば、確かに主イエスの発言はヨハネのその思惑を否定している。しかしその周囲にいる民の視点から見るならば、それはヨハネが行っていた働きを肯定し、その働きを続けるように励ましているのである。権力者の腐敗を糾弾し、悔い改めを呼びかける洗礼者ヨハネの活動は、確かに一人の人間の限界の中でその正しさを追求するものでしかなかった。やがてヨハネは支配者に捕らえられ処刑され、その活動は不十分で未完のまま終わる。しかし彼の不十分で未完の働きは、主イエスとの出会いを通して「我々にふさわしいこと」とされる。この「我々」とは直接的には主イエスと洗礼者ヨハネのことを指していると理解される。しかし物語の中で主イエスは、他の民の一人として洗礼者ヨハネのもとにやってきた。つまりここで主イエスが「我々」と語る時、そこには共にこの地上を歩む民が含まれている。洗礼者ヨハネが躊躇し断念しようとした正しいこと(=義)を、主イエスは「我々にふさわしいこと」として同じ地上を歩む多くの民と共に担われる。それは、本来であれば結びつくはずのない人の義と神の義とが、主イエスにおいて結びつけられたことを意味した。確かに神の子の洗礼は、論理的には無意味で矛盾する出来事でしかない。けれどもそのことを通して、本来結びつくはずのない、神の愛の業が私たち地上に生きる者の営みと結びつけられたのである。
主イエスが水から上がられた時「天が開いた」。それはまさに神の意志が働いて天をも動かし、新しい時代の幕が開いたことを示す。さらに天から鳩のような聖霊と共に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が届く。主イエスが「我々」の一人として、この同じ地上を歩まれたことによって、地上において様々な限界の中でしか生きられない私達もまた、神によって「私の愛する子」と呼び出され、この地上での営みの中で、神の愛に触れ、そしてその神の愛を隣人と分かち合うことができるのである。

2014年1月10日金曜日

2014年ルーテル三鷹教会定期教会総会のお知らせ

2014年のルーテル三鷹教会定期教会総会は2/2(日)礼拝後に行われます。

教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参加下さい。欠席される場合は必ず委任状をご提出下さい。

なお1/18(土)14時より、総会資料の製本作業を集会所にて行います。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

[説教要旨]2014/01/05「導きの先に」マタイ 2:1-11

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

本日はキリスト教会の暦の中で、1年の最初に迎える祝祭日である1月6日の顕現日(エピファニー)である。アドベントからクリスマスにおいては、神の子がこの地上へと下られた、自らを低い者とされたということを憶え、そしてエピファニーとその後に続く季節では、救い主がその力と権威をこの世に現されることを憶えることとなった。
さて、この主の顕現の日にあたっては、東方の国の占星術の学者らが主イエスを伏し拝むために訪れたことを通して、主イエスの王としての権威と力とが世界中に示されたということを思い起こす。この東方から来た者達は「占星術の学者」たちであったとされているので、彼らが星を見て行動するというのは当然ではある。しかし、元来東方の占星術の学者達は、聖書の民、イスラエルの民の外側からやって来たのであり、救い主とは何の接点もない存在であった。いわば、ここで星は、救済史の外側にいた筈の占星術師たちを救い主と結びつけるもの、救い主がどこにいるかということを人間の領域の外から指し示すものとなっている。人間の人生の中では、どれほど努力したとしても迷い道から脱け出すことが出来ずに途方に暮れることは決して少なくない。そのようなとき、生きる方向を見出すことができるのは、私たちの外側から進むべき方向が示されることによってなのである。東方の占星術師達が目指した星の光は、イエス・キリストを知らないもの、それこそ縁もゆかりもないものにも、あるいは道に迷うものの上にも、その光が届いていることを聖書は物語る。
星に導かれてヘロデの待つ王宮にたどり着いた占星術師達は、聖書の言葉に出会う。星の輝きは、彼らを聖書すなわち神の言葉へと導くものであったことがここで明らかとなる。しかし、ヘロデの王宮は彼らが目指していたものではなかった。皮肉なことに、聖書の言葉は、彼らの目指すところは彼らが予想した場所には無いこと、その外側にあることを語る。
聖書の言葉によってさらに進むべき道筋を示された彼らは王宮を離れ、ついに目指す救い主と出会う。しかしやっと辿り着いた彼らは、その訪ねた相手から、ねぎらいの言葉すらかけられることはなかった。そこにいたのは貧しい夫婦と生まれたばかりの無力な幼子だけであった。そこは、いわば無力と弱さが支配する場所であり、学者達が王として訪ねた相手は客観的にはむしろ援助を必要とするような者たちであった。それはまるで、何の救いもないようなこの世の悲惨な現実であった。けれども、この出来事こそ、救い主の降誕が私たちに語りかける福音のメッセージであった。なぜならば、救い主はどこにいるのかという問いへの答えとして、救い主は、徹底して私たちと同じこの地上に、そしてまさに無力さと弱さのなかにおられるということをこの出来事は私たちに示しているからである。地上の無力のただ中に、救い主はおられるのである。無力さの中に与えられた救い。そのメッセージは、この無力な赤子が、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる時に、より一層明らかなものとなって私たちに示される。

2014年1月9日木曜日

[説教要旨]2013/12/29「嘆きの声の中で」マタイ 2:13-23

降誕後第1主日

初めの日課    イザヤ 63:7-9    【旧約・ 1164頁】
第二の日課    ヘブライ 2:10-18    【新約・ 402頁】
福音の日課    マタイ 2:13-23    【新約・ 2頁】

クリスマスの祝祭の期間、教会の暦は奪われ失われた命について思いを向ける。12/26は殉教者ステファノの日、そして12/28には本日の福音書と関連して幼子殉教者の日とされている。つまりクリスマスの祝祭は本来、既に衣食住と基本的な生命の安全が守られている私たちが、より多くの物によって満たされることを祝う時なのではない。むしろそれは、持っている僅かなもの、あるいはたった一つの命すら奪い取られ、何も残されていない者にとって、唯一与えられた希望の出来事なのである。
本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、ヘロデ大王の暴虐から逃れるために、マリアそして幼子の主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。外にはローマ帝国があり、内には様々な反乱分子を抱えたその動乱の時代を、自分を脅かす存在は、肉親であろうとも容赦なく粛正することで、ヘロデ大王は30年余りもの間君臨し続けた。それはいわば、自らが手にした物を失うまいとし続ける者が辿り着く姿であった。このヘロデの暴虐から、ヨセフは主の使いによって道を示され、逃れることとなる。
この出来事は見ようによっては、幼子イエス・キリストさえいなければ、他の命は奪われなかったのに、なぜあいつだけが生き延びたのか、そのように捉えることも決して不自然ではない。けれども福音書の物語は、別の視点からこの物語を語る。多くの命が理不尽に奪われる中で、残された命があったこと。つまり死の力は、全ての希望を抹殺することはできはしなかったということ。それによって新しい永遠の命への道は、繋ぎ止められたということを、語るのである。つまり、主イエスこそが、理不尽に奪われ、失われる命にとっての、悲しみと嘆きの声の中で残された、最後の希望であることを、聖書は物語るのである。
本日の物語のもう一つの焦点である、エジプトへの逃避行に目を向けたい。ヨセフは住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立ちます。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな損失であり、人生の危機であった。しかしかつてイスラエルの民を、抑圧から脱出させ、解放へと導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。大きな損失を伴ったヨセフの旅立ちは、しかし彼一人だけの旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。
悲しみと嘆きの声は、現代のこの世界を覆っている。しかしその中で主イエスが共におられるという、クリスマスの喜びは語られる。悲しみと嘆きの声の中で、ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。主の導きを憶えて、新しい年を迎えたい。

[説教要旨]2013/12/22「神は我々と共におられる」マタイ1:18-25

待降節第4主日

初めの日課 イザヤ 7:10-16 【旧約・ 1071頁】
第二の日課 ローマ 1:1-7 【新約・273頁】
福音の日課 マタイ 1:18-25 【新約・ 1頁】

主日の聖書日課は連続した箇所の中に、教会の祝祭に関わる聖書箇所を取り上げる。教会の祝祭とはすなわち、主イエス・キリストにおいて起こった救済の出来事を憶えるである。その事はいわば、キリストの救いの業が、私たち人間がたてた計画や順序を切断し、中断させ、その中に入り込んでくることを示唆している。自分達の建てた順序を守り抜くよりも、そうした人間の思いがキリストの救いの出来事によって中断されること、それこそが、救いのリアリティーであることを、教会の伝統はむしろ重視したのだった。
主イエスの降誕の週の幕開けとなる待降節第4主日を私たちは迎えた。待降節第4主日の日課には、救い主の到来についての神の言葉が告げられる箇所が選ばれている。本日の聖書の箇所は、マタイによる福音書における、救い主の降誕の告知とそのいきさつが語られているが、マリアに注目したルカ福音書と異なり、マタイ福音書ではヨセフが中心となっている。本日の日課に先駆けて、1章の冒頭では主イエスの系図が語られ、そして主イエスの誕生の次第が語られる。しかしそこには実は二つの中断がある。
主イエスの系図は、ダビデの血統としてのヨセフの系図である。しかしこの後に続く物語は、ヨセフと主イエスが、血縁上のつながりがないことを語っている。つまり人間の系譜は一旦中断されるのである。しかしそのことがむしろ救いの歴史となっていくことを、この福音書はこれから語るのだということを示していると言える。
続いて、ヨセフに主の天使が現れ、神の言葉を告げる物語が続く。ここでヨセフは「正しい人」と紹介される。正しい人とは律法に忠実な人であり、当時の社会の倫理・価値観に忠実な人であることを意味している。正しい人であったヨセフは、彼の生きた社会の倫理に従って、結婚前に身ごもった婚約者マリアを離縁しようとする。しかしたとえ「ひそかに」であったとしても、結果としてマリアは裁かれる危険にさらされることとなる。当時、婚約中であっても姦通には厳罰が与えられた。つまり、ヨセフの正しさはマリアとその身に宿る命を危機に晒すのである。しかしヨセフのその正しさゆえの計画は、主の使いが語る神の言葉によって中断されることとなる。神の言葉は、そこに救い主が与えられたことを語る。ヨセフの正しさは、マリアを断罪しようとする。しかし、そこに与えられた救い主はそれを中断させるのである。死の危機は生の希望へと変えられた。死を生へと変えること、それこそまさに主の愛の働きであり、そこに神が共におられるということに他ならなかった。
今週私たちは主の降誕を憶えるクリスマスの時を迎える。それは私たちの思いと計画を、救いは中断させることを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いが、主イエスによって私たちの生きるただ中に与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。私たちの救い、主イエスの到来をなお、待ち望みたい。