2009年3月5日木曜日

[説教要旨]2009/2/15「罪人を招くため」

顕現節第7主日

初めの日課    イザヤ 44:21-22    【旧約・ 1134頁】
第二の日課    2コリント 1:18-22    【新約・ 326頁】
福音の日課    マルコ 2:13-17      【新約・ 64頁】

 神の国の福音を宣べ伝える主イエスの周りで、主イエスに対する疑念と対立が生じてくる。それは、主イエスの福音を受け取ったのは誰であったかということと対を形作っている。自らを正しい存在であると考える者たちは主イエスを疑い、反感を憶える。しかし、「罪」とされた者たちは、主イエスの呼びかけに応えて、主イエスに従ってゆく。

 主イエスに従うと言うこと。それは私達の意志を超えた力が私達に働くことである。主イエスの呼びかけこそが、私達をして主イエスに従わしめる。主イエスの呼びかけがあるからこそ、私達は主イエスの後を追うことができる。しかし、その主イエスの声を聞くことができるのは、自らを掟と規範の内側に留まる、正しい存在としている者たちではなかった。

 主イエスは、異民族の手先として蔑まれた税吏、あるいは職業上、掟に定められた清浄さを維持することが出来ない人々らと共に食事をする。罪と侮蔑にまみれた者との食卓の交わり、それはいわば罪と侮蔑によって「汚染」されるものとして、あまりにも非常識な振る舞いとして、「正しい」もの達の目には映った。それはいわば、「正しい者」たちが立っている日常生活の基盤を無意味なものであるとする行為であった。それゆえに「正しい者」たちは、主イエスにその真意を問わずにはいあっれなかった。

 しかし、主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられる。「罪人」とを、現代的な意味で「犯罪者」と捉えることはあまり正確ではない。むしろ「恥に耐えねばならない者」「心に悲しみを抱えている者」と言う方が適切であろう。その意味では「正しい者」とは「自分を清潔で健康であると考えている者」ということが出来る。しかし「清潔で健康である」ということは、実は、ただ苦しむ者との関わりを恐れているに過ぎない。苦しむ者と関わることが恐ろしいと感じるからこそ、「健康で清潔な」場所に閉じこもるのである。その一方で、「罪」とされる者、弱く、苦しみを抱えている者こそが、神の国の福音を告げる、主イエスの招きを聞き、立ってイエスの後に従って歩むことが出来る。自らの弱さと苦しみをこの方が共に担って下さることを知ることが出来るのである。それゆえに、罪人を招くイエスと出会うとき、私達は自らの弱さと苦しみから逃げ、その弱さと苦しみを押しつけ合うことから解放されるのである。


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