2014年5月10日土曜日

2014年ルーテル三鷹教会バザーのご案内

今年の三鷹教会バザーは5/18(日)に開催されます。

2014年5月18日(日)12:00~14:00

ルーテル学院大学食堂にて

収益の一部は、福祉関連団体等に寄付させていただきます。

181-0016 三鷹市大沢3-10-20 (TEL.0422-33-1122)
ルーテル学院大学内 日本福音ルーテル三鷹教会

JELC-MITAKA_Bazzar2014

[説教要旨]2014/04/27「平和があるように」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日


初めの日課 使徒言行録 2:14a、22-32 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 1:3-9 【新約・ 428頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】


本日の福音書の前半では家の中に集まっていた弟子たちの前に、復活の主イエスが姿を現されたことが述べられている。主イエスの墓が空であることを既に報告されていたはずだが、彼らはまだなお、恐れと不安の中に閉じ込められていた。さらに弟子たち同士の間でも疑心暗鬼になり、同じ部屋の中に隠れていても、互いを監視するような思いでいたかもしれない。その彼らの只中に復活のキリストは現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。
さらに復活の主イエスは弟子たちに「息を吹きかけ」る。息とは、聖書では「霊」とも訳される言葉であり、創世記で天地の創造に際して満ちていた神の力、またエゼキエル書で枯れた骨を生きたものにする神の力として語られている。主イエスは「息」を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と語られる。それは、恐れと不安に閉じ込められ、希望と平和を失っていた弟子たちの内に、主イエスは「互いを赦す力」「和解と平和をもたらす力」を創造されたということであった。「赦す」とは解放する、帳消しにするという意味でもあり、一方「赦さない」というのは、つかんではなさない、という意味の言葉でもある。主イエスが新たに一人一人の心の中に創られる力は、私たちがつかんで離すことができないものを手放し、代わって、和解と平和、赦しをもたらす力であった。弟子たちは恐れと不安に閉じ込められていたが、それは同時に、彼らが自分達の適わなかった思いをつかんではなさなかったがゆえに、そこから踏み出すことができなかったとも言える。そこに主イエスの息吹が与えられた時、彼らは「新しい命」として生きることが出来たのである。
本日の後半には、この出来事の際に居合わせなかったトマスが登場する。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というトマスの言葉は、今の自分に平和が赦しが訪れることなどありえないと訴えているかのようである。自分自身の苦しみと痛みを訴えることによって、ますます復活の喜びを拒み、斥けようとする、そんな人間の有様を、このトマスは象徴するかのようである。ところが、そのようなトマスの前にも、復活の主は現れ、呼びかけられる。
この地上で生きる私たちもまた、自分自身の現実に絶望し、それを変えることができない無力さをただ嘆くばかりである。この現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の叫びを私達の誰もが抱えている。しかし、そのような深い疑いを持つ私たちのもとにもまた、主イエスは呼びかけられる。鍵のかかった部屋に隠れていた弟子達の元へ、主イエスの復活を信じることの出来なかったトマスの元へ、主イエスは訪れられ、平和を創り出す力、赦しをもたらす力を与えられたのだった。
周りで起こる様々な変化に私たちは戸惑い、失われてしまったものを嘆き悲しむことから抜け出せずにいることがある。けれども、復活の主イエスは、私たちのもとを訪れ、呼び掛け、その息・聖霊によって、私たちに新しい命と主にある平和を与えて下さっているのである。

2014年5月4日日曜日

[説教要旨]2014/04/20「なぜ泣いているのか」ヨハネ20:1−18

主の復活

初めの日課 エレミヤ 31:1-6 【旧約・ 1234頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1-18 【新約・209頁】

本日はイースター・復活祭の日曜を共に祝っている。キリスト教会は、この主イエスの復活の出来事をこそ、出発点として、全ての源泉としている。

本日のヨハネ福音書の物語の流れを振り返ると、「しかし」という表現が頻繁に出てくることに気付く。まさに復活の出来事は「しかし」の連続である。その意味で「復活」とは私たち人間の価値観に対する、究極的な「しかし」すなわち「逆接」の出来事である。私たちは現実生活の中では「〜だから、こうなる」という因果関係の世界の中で生きるしかない存在である。それに対して「復活」の出来事は、私たちの前に「しかし〜である」という世界を開く出来事なのである。

墓の外に立つマリヤが求めていたのは、主イエスの亡骸であった。しかし、マリヤはそれを見つけ出すことができず、ただ泣くばかりであった。たしかに、亡骸を探すのであれば、マリヤの体験、墓は空であったという体験は、自らのもとにあるはずのものが取り去られた、自らの思いが叶わなかった、という体験でしかない。そして、彼女のこの思いは決して叶うことはなかった。なぜならば彼女は、主イエスの亡骸ではなく、生ける主に出会ったからである。さらに彼女が復活の主にであった時も、主イエスに触れることを禁じられます。言うならば、ここでも彼女は思い通りに振る舞うことは出来なかった。しかし、もはやマリヤは泣いてはいなかった。彼女は弟子達のところへ向かい、「わたしは主をみました」と告げ、ヨハネ福音書の中での、復活の主イエスの最初の証言者となった。

マリアを、その涙の中から立ち上がらせたのは、全ての事が彼女の思い通りに進んだことで満足したからではなかった。むしろ彼女の願いはことごとく打ち消されている。「しかし」、マリヤは主の復活の最初の証言者となる。悲嘆の中に沈み続けるマリヤは、いわば「〜だから、こうなる」という世界の中で、「なぜこんなことが」を問い続けていた。ところが復活の主イエスは彼女に「しかし」という世界を開く。主イエスの亡骸は無い。しかし、主イエスは生きておられる。私の思いは、全て叶わない。しかし、私はもはや涙を流すことはない。この「しかし」の世界に生きることを、マリヤは復活の主イエスとの出会いによって体験したのだった。

私たちは、この現実の生活の中で、常に自分の無力さに絶望的な気持ちをもって、向かい合わされている。この目の前にある困難を解決する力など自分には無い。だから私はただ泣くしかない。自分の望むことは何一つかなえられない。だから、私はただ悲しむしかない。それが私たちの生きている世界の有り様である。「しかし」そうした私たちの絶望的な思いすらも、イエスの復活の出来事は突き崩す。主イエスの復活は「〜だから〜こうなる」という私たちの世界の中では理解しえない出来事である。しかし、私たちの外側にある事柄だからこそ、その出来事によって、私たちが直面するあらゆる行き詰まりと絶望は崩されるのである。

私たちが自分の力によって、希望と未来はどこにあるのかを見出すことは出来ないならば、マリヤのように、ただ泣くしかない。しかし、復活のキリストに出会う時、自力では希望も未来も見出せなかったとしても、しかし「私は主をみました」と喜び、その喜びを伝え合い、分かちあうことが出来るのである。

[説教要旨]2014/03/23「命の泉」ヨハネ4:5-42

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト記 17:1-7 【旧約・ 122頁】
第二の日課 ローマ 5:1-11 【新約・ 279頁】
福音の日課 ヨハネ 4:5-42 【新約・ 169頁】

教会は主イエスの受難と復活を憶える四旬節を過ごしている。この四旬節の期間に私たちが向き合うべき自らの罪とは何なのだろうか。振り返るならば、私たちの生きるこの世界には、あまりにも多くの隔ての壁が存在している。しかもその壁は、私たちが自らの聖域を守りたいという思い、また、そのためにこれこそが正しいやり方であるという思いから生み出されている。だとするならば、私たちが聖域と正しさを求める思いそのものが、私たちを引き裂き、憎悪を煽る罪を作り出しているとすら言えるのではないか。

本日の福音書は、ヨハネによる福音書から主イエスとサマリアの女性、そしてサマリアの人々との出会いについて取り上げられている。ユダヤとサマリアは同じルーツを持ちながらも、歴史の変遷の中で分裂し、互いに自分たちの神殿を「唯一の聖なる場所」として譲らず互いに報復を繰り返したため、対立と憎悪を深めていた。そのような歴史を背景にしつつ、主イエスとその一行がサマリアの地を訪れるこの記事は、他の福音書の中でもひときわ目立つ物語であると言える。それは、民族と宗教を含めた、あらゆる人と人との対立、隔ての壁を主イエスの言葉が乗り越えてゆく物語である。

物語の発端では、ヨハネ福音書におけるその他の多くの物語と同じように、見えない事柄について語る主イエスと、見える事柄から語るサマリアの女性との対話はかみ合うことがない。けれども26節「それは、あなたと話をしてるこのわたしである」という主イエスの言葉において、いずれ渇いてゆく「見える世界」と、渇くことのない「見えない世界」を結びつけるものは主イエスご自身であることが語れる時、一つの焦点を結ぶこととなる。この焦点が合い始める切っ掛けを二人の対話を遡って探すならば、15節「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とこの女性が主イエスに求めたところから始まっていると言える。それは水を求める主客が逆転し、サマリアの女性が、渇くことのない水は自らの中にはないということ、すなわち、現に今自分が有しているものではなく、自らの中には無いものによってこそ、自らは生かされる存在であることを知り始めた瞬間であった。主イエスは語られる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主イエスが与えられる水、つまり私たちの外から与えられる生きた水だけが、私たちのうちに命の泉をもたらすことを聖書は語る。

荒野のような現代社会の中を生きる私たちは、自らの魂の渇きを癒すものを常に求め、そしてそれゆえに自らの内にある正しさを守り続けようとする。しかしそれはむしろ、互いに裁き合い、傷つけ合うことしか生み出さず、ますます私たちの渇きを増すだけである。むしろ、私たちの内には無い、主イエスが与えて下さるその言葉だけが、私たちの渇きを真に癒すことができるのである。なぜならば、主イエスの言葉は、私たちの罪を贖うために、その十字架で分け与えられた、主イエスの命を私たちに与えるものだからである。主イエスの命の言葉は私たちの内で命の泉となり、私たちを新たに生きるものへとする、唯一の力なのである。