2010年1月27日水曜日

[説教要旨]2010/1/24「沖に漕ぎ出して」

顕現節第4主日

初めの日課 エレミヤ 1:9-12 【旧約・1172頁】
第二の日課 1コリント 12:12-26 【新約・316頁】
福音の日課 ルカ 5:1-11 【新約・109頁】

本日の福音書には、主イエスの高弟とされたシモン・ペトロが登場する。しかし、ルカ福音書では、マタイ・マルコとは異なって、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)で出会う以前から、シモン・ペトロは既に主イエスを知っていた。というのは、シモン・ペトロのしゅうとめの癒しの出来事は、ルカ福音書では、ペトロの弟子としての召命の記事の前に記されているからである。何の成果もなかった前夜の漁の後で、網の手入れをしているところに主イエスがやって来た時、船に乗せてくれるようにという主イエスの頼みを承諾したのは、おそらくそうした出会いを前提にしている。結果的に、シモン・ペトロは群衆よりも一段と近い場所で主イエスの言葉を耳にすることになる。しかし、しゅうとめの癒しの出来事も、間近で主イエスの教えを聞くことも、シモン・ペトロが主イエスの弟子となるには十分なものではなかった。群衆に向かって話し終わった主イエスは、今度はシモン・ペトロらに向かって「沖漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる。主イエスの言葉に対して、漁師であるペトロは「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と反論するが、「お言葉ですから」としてその命にしたがう。そこでシモン・ペトロが体験した、網はやぶれそうになり、船が沈みそうになるほどの大漁とは、主イエスの引き起こされた奇跡に他ならなかった。この主イエスの奇跡を前に、「わたしは罪深い者なのです」と恐れおののくペトロとその仲間たちに向かって、主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語られるのだった。「人間をとる漁師となる」ということ、それは主イエスの弟子として、人々にその教えを語る使命を与えられたということであった。
ペトロを主イエスの弟子としたもの、それは目に見える奇跡の出来事というよりも、むしろ、共におられる主イエスの言葉であった。「沖に漕ぎ出しなさい」の言葉に従う理由は、ペトロには何もなかった。しかしその主イエスの言葉によって動かされ、沖に漕ぎ出す中で、ペトロは変えられてゆく。もし彼がその言葉によって動かされていなければ、自らを「罪深い者」と語る彼に、主イエスが「恐れることはない」と語られることもなかったからである。共におられ、ペトロに向って語られた主イエスの言葉こそが、ペトロを動かし、彼を根底から変えてゆく原動力なのである。
ヨハネ福音書21章では、この物語の反復が、主イエスの復活顕現として描かれている。いわば、今日の福音書でペトロが出会った主イエスの言葉、それは十字架と復活の主イエスの言葉の先取りであった。十字架と復活の主イエスの言葉とは、私たち人間をその根底から変えてゆく神の力なのである。

2010年1月18日月曜日

[説教要旨]2010/01/17「主の恵みの実現」

顕現節第3主日

初めの日課​ エレミヤ 1:4-8​​【旧約・1172頁】
第二の日課 ​1コリント 12:1-11​​【新約・315頁】
福音の日課​ルカ 4:16-32​ 【新約・107頁】

本日の福音書で主イエスは、会堂で聖書の預言を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められる。それは、この地上において、苦しみと嘆きのあるところに、自由と解放と喜びをもたらすとされた神の約束の実現が、主イエスがおられるところにおいて、「今日」となる、ということであった。それは、2000年前の過去における「今日」なのではなく、今生きている私たちにとってもまた「今日」であるような、そのような時である。苦しみと嘆きがあるところ、自由と喜びが求められているところ、まさにそこが、「今日」主イエスがおられるところとなるのである。主の恵みは、主イエスが私たちと共におられる今日、実現するのである。
この主イエスを巡って、人々の間には様々な反応が起こる。ある者たちは、この恵み深い言葉を称賛する。しかし別の、主イエスがどこの家族の者かを知っていた者たちは、主イエスが共におられるにも関わらず、主イエスを受け入れることができない。彼らが日常的に知りえた経験と知識の延長線上に、主イエスは立っていなかったのである。イエスという人物の来歴を知っていたことが、逆に、彼らが「今日」救い主としての主イエスに出会うことを妨げるのである。
つまり逆に言うならば、主イエスが共におられることで、苦しみと嘆きに解放と喜びが実現する「今日」もまた、私たちの知識の延長線上には立っていない。私たちの理解や計画の内側には、主イエスと出会う「今日」は起きえないのである。むしろ、私たちの計画が破綻し行き詰まるところ、私たちの経験や力及ばなくなるところ、そここそが、主イエスが共におられる「今日」なのである。
主イエスを受け入れない人々に対して、主イエスは聖書の物語を引用して、救いは「異邦人」にしか与えられなかったと語る。いわば、救いが実現する「今日」、すなわち、主イエスと出会う「今日」は、本来、私たち人間の思いと期待の「外側」において起こる、と語られるのである。この主イエスの態度に怒りを憶えた者たちによって、主イエスは命の危険にさらされるが、主イエスに触れることはかなわなかった。それはまだ、十字架の出来事を待たなければならなかった。
主イエスの十字架と復活、それは私たちの日常生活における知識や経験の延長線上の外に立つ事柄である。そしてそうであるからこそ、それは私たちに救い、解放と喜びを実現する徴となるのである。この十字架を通して、私たちは、主イエスに「今日」出会うのである。



2010年1月16日土曜日

第18回 春の全国Teensキャンプのご案内

今年も春の全国ティーンズキャンプ(略して春キャン!)申し込みの季節がやってきました。
春キャン初めての人たちも、春キャンに久しぶりに来る人たちも、そしていつも春キャンを楽しみにしてくれている人たちも、みんな2010年の春には東京・高尾に集まろう!
 さて今回の春キャンのテーマは…なんと「1982ページのラブレター」。
 なんだか意味ありげなテーマのもと、ミシュランで世界的にも有名になった(?)高尾山のほど近く、皆で集まって、楽しい2泊3日を過ごしましょう。
 春キャンに集う一人一人のために、スタッフ一同がとびきりのプログラムを用意して待ってます!

主題聖句 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある (マタイによる福音書4:4)

テーマ  1982ページのラブレター

日程: 2010年3月29日(月)~31日(水)

会 場:高尾の森わくわくビレッジ
〒193-0821 東京都八王子市川町55  TEL 042-652-0911 / FAX 042-652-0944

主 催:日本福音ルーテル教会宣教室TNG委員会Teens部門、各教区教育部、JELA
  
参加費:1月17日(日)までの申し込み 1万円(交通費は各自負担になります)
      2月14日(日)までの申し込み 1万1千円(    〃          )
    申込期限を過ぎてからの申し込み(要相談)1万5千円(    〃     )
      ※申し込みのタイミングによって参加費が変動します。
※3/9以降のキャンセルについては、キャンセル料が発生する場合がありますのでご了承ください。

申し込み期限:2010年2月14日までにお願いします。
申込先の詳細は、申込用紙(PDF)をご覧ください。


2010年ルーテル三鷹教会総会のお知らせ

2010年の教会総会は2/7(日)に開催されます。
 教会の新しい1年の歩みを話し合う大事な集まりです。教会員の皆さまは必ずご出席ください。やむをえず欠席する場合は必ず委任状のご提出をお願いいたします。
 なお、教会総会に先立ち、1/31(日)礼拝後に拡大役員会を集会所にて行います。教会活動に対する皆様のご意見をお寄せ下さい。
 また、1/23(土)14時より、総会資料の印刷・製本作業を集会所にて行います。お時間のある方はご協力をお願いいたします。

[説教要旨]2010/1/10「神の心に適う者」

主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7                    【旧約・1128頁】
第二の日課        使徒 10:34-38                【新約・233頁】
福音の日課        ルカ 3:15-22                    【新約・106頁】

 本日の福音書は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとへ来て、洗礼を受けられる場面が描かれる。洗礼者ヨハネはヨハネは、来るべき方、すなわちメシアは「脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語り、その裁きについて教え、その裁きに備えて、ヨルダン川で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていた。そのヨハネのもとで、主イエスは、他の人々と同じように洗礼を受けられる。
 罪なき神の子が、なぜ罪の赦しを得させる洗礼を受けなければならなかったのか。これは大きな矛盾である。その意味で、主イエスの振る舞いは全く論理的ではない。それは、私たちが考える、ありうべき「正しい答」ではないようにすら思える。しかし、その主イエスの洗礼にあたって、天が開け「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声と神の霊が下る。矛盾した、正答とは見えないようなその振る舞いこそが、神の心に適うものであったことを、聖書は語るのである。
 神のみ心に適うことは何か。それは、主イエスの時代も、そして今も変わらない、大変深い信仰的問題である。その問いに対して私たちは、私たちの考える論理的に整頓された、唯一の正答を求めようとする。これこそが、正しい信仰者の在り方である、という答を、私たちは求めてしまう。しかし、実際には、そこに唯一の正答などはありえないことを、聖書は、主イエスと宗教的権威との論争を通して語っている。私たち人間が、神のみ心に適うような「正しいあり方」を、その手にとどめておくことなどそもそも不可能だからである。
しかしもし、敢えて正答を問うとするならば、私たち人間が考える「正しいあり方」を捨て、矛盾と葛藤と不安とに悩む罪ある人とともに生きるために、罪なき神の子でありながら、罪の赦しの洗礼を受けられ、そして、矛盾と絶望の極みである十字架へと歩まれた、主イエスその人でしかないのである。まさに、主イエスその人を受け入れること、それこそが神のみ心に適うことなのである。
 「隅々まできれいにし」、「消えることのない火で焼き払われる」と洗礼者ヨハネによって預言された来るべきメシア、主イエスが、その十字架と復活によって、この地上に実現されたこと、それは私たち人間が考えうるような「正しさ」を打ち立てることではなかった。むしろ、そのような人間の考える「正しさ」をこそ打ち破り、そこに神の愛の力によ支配、神の国の正しさを打ち立てることであった。主イエスの洗礼の出来事とは、私たちの思いを超えた神のみ心が、私たちの矛盾と葛藤と不安のただ中に与えられた出来事なのである。

2010年1月7日木曜日

[説教要旨]2010/1/3「不安と喜びと」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・  2頁】

 伝統的な教会の暦では、顕現日にマタイ福音書における主イエスの誕生物語が読まれてきた。主イエスの誕生に際して、東方の占星術の学者らが訪れた、ということを通して、主イエスの王的支配が世界中に示されたということを思い起こすためである。しかし、あらためてこの箇所を読み返すと、ここでは主イエスは、その奇跡的な誕生の出来事と裏腹に、何も積極的な行動を担っていないことに気付かされる。古代の偉人物語にあるように、生まれ落ちてすぐにしゃべったり、奇跡的な行為をなしたりすることがない。主イエスは、無力な赤子として、その姿を世に表す。その無力な赤子を、星が指し示す。旧約の伝統の中で星は、神から特別な使命を与えられた者、すなわちメシアを指し示すものと理解されていた(民24:17、イザヤ60:3)。この星を見いだした東方の学者たちは喜びに溢れる。本来、旧約の伝統に立っていない、イスラエルの枠組みの外側にいるはずの、東方の学者達が、このメシアのしるしを見て、「はなはだしく大きな喜びを喜んだ」。それは言うまでもなく、星を通して学者達が出会うことが出来た方、すなわち主イエスとの出会いの喜びである。そしてその喜びは、ルカ福音書において、天使がマリアに、そして羊飼い達に告げた「喜び」であった。いわばそれは、人の力によってうみだされる喜びではなく、神から来る喜びである。
 その一方で、都エルサレムの権力の中枢にいる、ヘロデ大王を筆頭とする人々にとって、この星は激しい恐れと不安をもたらすものであった。この不安(恐れ)は、湖の上を歩く主イエスを見た弟子達が駆られた恐れと同じもの、いわば神の力を前にした人間の恐れであった。ヘロデ大王は、この恐れを取り除くため、己の権力を駆使して、無力な赤子を全て葬り去ろうとすることとなる。しかしその計画は実を結ぶことはなかった。
 ヘロデとエルサレムの人々がメシアを示す光に抱いた恐れとは、自分たちが作り上げ、守っているものが失われることへの恐れであった。その恐れから逃れるために、メシアとの出会いを暴力的に拒絶するにもかかわらず、その試みは空しく終わることとなった。ヘロデ大王が守ろうとしたものは、現代に私たちにはその廃墟だけが残されているだけである。それに対して、故郷を後にメシアの光に導かれて旅だった東方の学者たちは、無力な赤子と出会い、人の力では決して得ることの出来ない喜びを得た。いわば彼らは、現に今、自分たちに無いものに希望を託し、その思いに勝る喜びに満たされたのであった。そして彼らが得た喜びは、今も私たちへと伝えられている。メシアである主イエスを通して私たちに示された神の力、それは私たちに、現に今手にしていないものにこそ、滅びることのない永遠の価値が秘められていることを明らかにするのである。