2011年3月31日木曜日

[説教要旨]2011/03/27「主よ、渇くことがないように」ヨハネ4:5-26

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト 17:1-7 【旧約・122頁】
第二の日課 ローマ 4:17b-25 【新約・279頁】
福音の日課 ヨハネ 4:5-26 【新約・ 169頁】

 主イエスの時代、サマリアという場所とそこに生きる人々と、ユダヤ人との間には、非常に深い因縁があった。サマリアとユダヤは本来同じ歴史を持つ地域であり民族であったが、大国の侵略によって滅ぼされ、引き裂かれて、互いに報復し合うことが繰り返されていった。そうした分裂と対立の歴史を背景にしつつ、主イエスはサマリアの井戸のほとりに一人佇んでおられるところに、一人の女性が登場する。当時の社会では、井戸の水汲みは結婚前の女性に課された仕事であり、それは通常は朝と夕方に集団で行われていた。この女性がどのような人生を送ってきたのかは明らかにされないが、正午頃に一人で井戸にやってきたということは、この女性が置かれている境遇が、決して恵まれたものではないことを思い起こさせる。その女性に、主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけられる。それは、さまざまな意味で、常識を逸脱した行為であった。
 本日のサマリアの女性についてのエピソードは、3章でのニコデモと主イエスとの対話と、明確なコントラストをなしていることに気付かされる。ファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でもある、いわば高い社会的地位にあるニコデモは、夜中に主イエスのもとを訪れ対話するが、ここで彼は主イエスの語る「霊」の働きについて理解することが出来ず、いつのまにか物語の舞台から退場してしまう。それに対して、何の社会的地位もなく、むしろ厳しい生活を余儀なくされていたサマリアの女性は、昼間に主イエスの言葉を聞き、そして主イエスを信じ、人々に伝え、そこに信仰者の群れすらもが生まれるのである。それは見えない神の力としての「霊」は、私達の生きるこの世界のどこで、どのように働くのか、ということを私達に物語っている。
 霊の働き、それはあらゆる障壁を越えて働く神の力である。それは渇きのあるところにこそ働くのである。渇きの中で発せられる声に、神は必ず答えられるのである。喪失と欠乏、困窮と絶望、対立と分裂があるところ、そこで苦しみと痛みとに直面せざるえない者のところにおいて、神の力は働くことを聖書は語る。そしてそれは主イエスがご自身の十字架と復活をもって示されたことでもあった。十字架の上で「渇く」と語られた主イエスを神は、その死の闇から甦らされたのである。死と命、人間が超えることの出来ないもっと深い壁をも、主イエスはご自身の十字架をもって打ち砕かれたのであった。神の霊は、私達の渇きを必ず癒される。十字架を見上げる私達はその希望を知るのである。

2011年3月29日火曜日

日本福音ルーテル教会の東北関東大震災への取り組みについて

ブログ、「ルーテルとなりびと」で、おもに日本福音ルーテル教会の東北関東大震災に関するニュース[Jelc-saigai-news]から転載し、祈り、救援活動についてシェアしています。
是非ご覧下さい。

2011年3月26日土曜日

ホームページリニューアルのお知らせ[3/26]

日本福音ルーテル三鷹教会のホームページがリニューアルされました。
新しいURLは下記の通りです。

http://www.jelc-mitaka.org/

ブックマークを利用されている方は変更をお願いいたします。

2011年3月23日水曜日

[説教要旨]2011/03/20「皆に仕える者に」マタイ20:17-28

四旬節第二主日

初めの日課 創世記 12:1-8 【旧約・15頁】
第二の日課 ローマ 4:1-12 【新約・278頁】
福音の日課 マタイ 20:17-28 【新約・ 38頁】

 パウロの手紙の中には、この世を去ってキリスト共にいることを願うことが度々言及される。その意味で、神の国においてキリストに近くあることは全ての信仰者求める事柄であった。しかし、二人の息子の母親が主イエスに願ったことは、この地上の世界における特権への願いであった。働きに応じた報酬を望むという点で、この母の願いは、ある意味では極めて現実的で合理的なものであった。しかしそれに対して主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と応えられるのであった。
 この主イエスの言葉は、あたかも他の弟子たちを抜け駆けしようとした二人への戒めであるかのようにも読み取ることができる。しかし、その主イエスの言葉は、決してこの二人の兄弟およびその母親に向けてのみ語られたわけではないことが、前後の文脈から推測される。なぜならば、この願いを聞いた残りの弟子たちは、「この二人の兄弟のことで腹を立てた」とあり、その上で二人だけに対して語るのではなく、一同を呼び寄せて言われているからである。この二人の願いに対する、その他の弟子たちの怒りの反応は、至極全うなものであるように、私たちには思われる。しかし、現に今集まっている者たちの間での上下関係、権力関係が問題となっており、誰が正しくて誰が間違っているか、誰の言うことに従わなければならないのか、ということで争う限り、主イエスに視点から見るとき、他の弟子たちをよりも優利な立場に立つために抜け駆けする二人の兄弟も、それに対して怒りを覚えて批判する者たちも、同じ次元に立つ者でしかなかったのである。
 そうであるならば、主イエスが「皆に仕える者になり」と語られる時、その「皆」とは誰のことなのだろうか。主イエスは、弟子たちの間での「皆」をもはや問題にはしていない。その「皆」とはいわば、今はそこにいない者たちのことである。主イエスは、弟子たちのためだけに、十字架の道を進まれたのではなかった。同様に、弟子たちもまた今は自分の目の前にはいない者のために仕えることが求められている。そしてそのように仕える者であるときこそ、主イエスは最も近くにおられるのである。私たちにとっての、真の喜びとは、私たちが他者に関わる時の喜び、自分がその人の命、生きることのために用いられることの喜びなのである。それは、決して減ることも消えることのないものなのである。そして、主イエスはご自身の十字架によって、そのことを私たちに示されたのであった。

2011年3月12日土曜日

ティーンズクラブ中止のお知らせ[03/12]

本日(3/12)、東京教会にて予定されていた東教区教育部TeensClub(ティーンズクラブ)は、地震の影響を考慮して中止となりました。

2011年3月11日金曜日

[説教要旨]2011/03/06「主イエスは近づいて」マタイ17:1−9

変容主日

初めの日課 出エジプト 34:29−35 【旧約・152頁】
第二の日課 2ペトロ 1:16−19 【新約・436頁】
福音の日課 マタイ 17:1−9 【新約・ 32頁】

 本日の福音書は「主の変容」と呼ばれる出来事が記されている。この出来事は福音書の中で語られる様々な物語の中でも、現代人にとって非常に理解しにくいものの一つである。端的に言えば、現代人にとってそれは「夢」か「幻」のようにしか思えないからである。しかし実は、この変容の物語以上に理解できない出来事が、福音書の中にはもう一つある。すなわち、主イエスの復活の出来事である。実はこれらの出来事は、決して現代人にとってのみ理解不能なのではなかった。聖書の時代においても、同じようにそれは理解不能の出来事であったことについて聖書の内外に証言がある。しかしそうであるからこそ、これら、変容と復活という二つの出来事はその根底においてつながっているということがわかるのである。それらは、いずれも私たち人間の世界において常識として考えられていることの外側からの力が、私たちの世界に及んできた出来事である。それは私たちの論理を超えた出来事であるので、確かに私たちはそれを科学的・合理的に説明することは出来ない。しかしそれは実は、なぜ私たちにそもそも命が与えられているのか、自分はなぜ生かされているのか、そのことを私たちは説明することが来ないということと同じなのである。たとえ私たちが合理的に生命のメカニズムを説明することは出来たとしても、生命の意味そのものを知ることは私たちには出来ないのである。キリストの変容と復活ということ、それはいわば、命の創造と終わりと同じように、神の愛と恵みの業なのである。
 光り輝く姿に変えられた主イエスは、ひれ伏して恐れるペトロらに近づいて「起きなさい。恐れることはない。」と語りかけられる。私たちは、自分ではコントロール出来ないこと、自分の予期しない、期待しない出来事に遭遇する時、茫然とし、そして不安と焦燥の中で恐れおののいてしまう。私たちに出来ることは、縮こまりただ地に倒れ伏すことだけである。しかし、主イエスは私たちのもとに近づいてこられた。それは神の愛と恵みの業が自ら、恐れ倒れ伏している私たちのもとに近づいてこられるということなのである。
 たしかに私たちは変容を、復活を、あるいは人の命の意味を理屈では説明することは出来ないかもしれない。しかし、恐れ倒れ伏す私たちに「起きなさい。恐れることはない。」と語りかけられるために、主イエスが私たちに与えられていることだけは確かに知っているのである。私たちに呼びかけ助け起こされる方は、十字架の死という動かしがたい絶望を、復活の出来事によって打ち破られた主イエスなのである。
 今週から主の受難とそして復活とに備える四旬節を迎える。私たち自身の恐れと不安を、主イエスがその受難と復活によって打ち破られたことを覚えつつその時を過ごしてゆきたい。

2011年3月3日木曜日

2011年イースター関連の行事のお知らせ [4/22,23,24]

2011年のルーテル三鷹教会のイースター関連行事は以下のように予定されています。
どの行事も、どなたでもご参加いただけます。皆様のお越しをお待ちしております。

4/22(金)18:15 受苦日礼拝(チャペルにて)
4/23(土)14:00 教会学校 イースターエッグ作り(集会所にて)
       18:30 イースターヴィジル(復活前夜祭)(チャペルにて)
4/24(日)10:30 イースター礼拝・洗礼式・聖餐式(チャペルにて)
       12:30 イースター祝会(学生食堂にて・一品持ちよりにご協力下さい)

2011年「灰の水曜日の祈り」のご案内[3/9]

2011年は3/9(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、4/24(日)に復活祭(イースター)を祝います。

3/9(水)19時よりチャペルにて、四旬節へと入ることを憶える「灰の水曜日の祈り」を行います。


どなたでもご出席いただけます。
是非ご参加ください。

[説教要旨]2011/02/27「岩の上の家」マタイ7:15-29

顕現節第9主日

初めの日課 申命記 11:18-28 【旧約・299頁】
第二の日課 ローマ 1:8-17 【新約・ 273頁】
福音の日課 マタイ 7:15-29 【新約・ 12頁】

 本日の福音書は二つの部分から構成されている。前半部分は「偽預言者」についての警告が語られ、後半はいわば「山上の説教」全体の締め括りとして語られている。
 22節では「かの日」つまりこの「世の終わり」の時、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』という多くの者が主イエスによって、偽物として拒絶されることが語られる。しかし、ここで成果として挙げられている事柄はいずれも主イエスの働きにも比する特別な能力ばかりであり、むしろ評価されるべき事柄であるようにすら思われる。しかしそれが救いの根拠となることが明確に否定されているのである。つまり、こうした特別な働きと成果が救いの条件とされているわけではない。山上の説教の多くの教えと同様に、それまで誰もが当たり前であると考えるような地上の価値観に対して、主イエスの言葉が対置されている。しかし、そうだとするならば、一体何を主イエスは求めておられるのだろうか。
 本日の箇所の最後で、人々は主イエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ことを驚きをもって受け止めたことが語られている。「律法学者のように」とは、伝統と前例をもとに、このことはこれこれこのようにすべきであるとする解釈の方法である。もちろんそうした方法は合理的であり、伝統を保持するためにきわめて有効である。しかしだからこそ、主イエスが、前例や伝統に基づく以上に、ご自身に与えられた権威を元にして、多くの「しかし、わたしは言っておく」を語られたことに、人々は驚いたのである。この主イエスの権威とは、神がこの世を救うために主イエスをこの地上に与えられたということであった。そして、主イエスがこの世を救うということ、それは主イエスが人々を癒し、教えつつ、なによりも十字架の低みと苦しみへと向かわれたということ、そしてさらに、その苦しみの先に、復活の命を示されたということに他ならなかった。
 主イエスは山上の説教全体を締めくくるようにして、「これらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と語られる。主イエスが語られた「これらのこと」、それは十字架へと向かう主イエスの言葉に他ならない。それを聞いて行うということは、決してあたかも主イエスと同じように、奇跡的な業や権威的な教えを語ることなのではない。むしろそれは、思い悩むことなく地上ではなく天に宝を積み、人を裁くことなく敵を愛すること、地上においては愚かとすら見なされ、価値無きことと見なされるようなことであった。しかし主イエスは語られる。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(24:13-14)
 岩の上に家を建てるということ、それは決して私達がこの地上において考える常識や価値観を揺るぎなくせよということなのではない。むしろ、この世において無価値であるかのようにすら思われる、主イエスの言葉に信頼し希望をおきつづけることなのである。そして、その信頼は決して裏切られることはない。パウロは語る。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)