2008年11月19日水曜日

[説教要旨]2008/11/16「一緒に喜んで」

マタイ 25:1-30 【新約・ 49頁】

 1タラントンとは、一般の労働者の20年分以上に相当する金額であり、いわば生涯賃金に相当するような価値を持っていた。つまり、ここでそれは、人の生涯に渡って与えられている一人一人に固有な、特別な賜物を意味している。そして、物語の中でそれは3人の僕一人一人に対して「それぞれの力に応じて」与えられる。一人は、5タラントン、つまり普通の人の生涯の5倍分にも相当するものが与えられ、別の者は2タラントン、そして3人目は1タラントンを受け取る。最高額を与えられた者はもちろんのことながら、最も少ない1タラントンですら、普通の人の生涯の働きに相当するのであるから、そこで与えられた責任は決して小さいものではない。むしろその賜物を与えられた責任に対して真摯に向き合わなければ、決して簡単にそれを応えることはできないものである。

 1番目と2番目の僕は、それぞれに与えられた賜物を自分なりのやりかたによって生かして用いる。利益の大きさは、全く異なるにも関わらず、主人は、この二人に対して同じように「一緒に喜んでくれ」と呼びかける。それは、主従関係、雇用者と被雇用者との関係において、利益を増やしたことを主人が褒めているという状況を超えた、「友」として喜びを分かち合う姿を見ることができる。それに対して、「最も少ない賜物」を与えられた僕は、主人の強欲さと残酷さを非難することで、自分が与えられたタラントンを生かすことができなかったことを正当化する。結果、この僕にとって賜物は喜びではなく、恐怖をもたらすものでしかなく、主人は罰を下す恐ろしい存在であっても、喜びを分かち合う友となりえなかった。それは賜物を与えてくださった方よりも、賜物を受け取る自分の方を愛した結果であった。

 主なる神は、私たちの命の救いのために、主イエスとその十字架と復活の出来事を与えられた。それはその私たちを恐怖におののかせるためではなく、私たちが主イエスを通して、神と共に喜びを分かち合うためであった。救いの出来事の実感、そしてそれに応えていくことは、その量的な多寡が問題なのではない。なぜならば、命の賜物を私たちに与えられた神と私たちの間には、主イエスという喜びの絆が既にあるからである。