2011年12月22日木曜日

[説教要旨]2011/12/18「戸惑いと恵みと」ルカ1:26-38

待降節第4主日

初めの日課 サムエル下 7:1-11,16 【旧約・490頁】
第二の日課 ローマ 16:25-27 【新約・ 298頁】
福音の日課 ルカ 1:26-38 【新約・100頁】

救い主の降誕を憶えるアドベントも、本日で第4主日となった。それはこの2011年がまもなく終わろうとしているということでもある。3/11の大震災以来、ごくあたりまえに続くと思われていた日常が、突然断ち切られる。それは決して空想の世界のことではなく、むしろそれこそが私たちの現実である。そのことを突きつけられた1年であった。そこでは多くの人々が、かつて自分達がこれまで続けてきた生き方、そしてその延長として望んでいた将来を、そのまま期待し続ける事はもはや不可能であるという深い断絶を前にすることになったのです。そうした中で今私たちの多くは、深い当惑と絶望に直面させられている。人間の歴史の中で、この地上に存在する人の集まりであるキリスト教会もまた多くの断絶を体験してきた。しかし、その信仰は絶えることなく、伝えられてきた。いわばそれは、私たち人間が直面する、さまざまな歴史の断絶を超えて、救いの歴史は続いていくということ、神の救いのみ業は私たちの当惑と絶望を超えて働いてゆく。そのことを教会の歴史は伝えている。
本日の福音書の日課は、いわゆる「受胎告知」として、古来より絵画に描かれてきた。そこでは主イエスの誕生を予告されたマリヤは驚きの顔をみせつつ、それを受け入れようとする複雑な表情を示しつつ、一つの象徴的な姿として、右手を挙げ、その告げられた出来事を受諾する姿で描かれている。人の目にはあまりに唐突で、なおかつ不可能としか見えない神の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるその態度は、まさに一人の信仰者としてのひな形を私たちに示している。それはまさに、私たちが神の言葉によって動かされるとき、救いの歴史は実現していくことを、マリヤの物語は私たちに語っている。この世に対して、マリヤの示したもの、それは、この地上において神の力が働くとき、その救いのみ業は人間が直面するあらゆる断絶を乗り越えてゆくことを、決定的に私たちに示している。
今、この社会の中で、さまざまな断絶を突きつけられ、当惑と絶望に直面させられている私たちが、マリヤと同じく「お言葉通り、この身になりますように!」と応えること。それは、私たち自身の力では乗り越える事の出来ない、私たちの目の前に横たわる深い断絶を超えて、神はその救いのみ業を働かれるという、その大きな希望を私たちのその日常の中に満たすことなのである。
それはこのマリヤの受諾を経て、主イエスは人と成られ、神の救いの歴史は決定的な展開を見せることとなった。そしてその主イエスはこの地上において、様々な断絶の中で苦しむ人々を癒し、励まし、そして満たされた。そしてもっとも深い断絶である十字架の死へと向かい、その死からの復活によって、あらゆる断絶を超える神の救いの業を確かなものにされたのであった。
「お言葉どおり、この身になりますように」と語るマリヤを、あらゆる断絶を超える力、十字架の光の下でみる時、人間を取り巻くあらゆる困難と不可能性の向こう側から、私たちに届けられる神の言葉の力を私たちは見いだすことができるのである。

2011年クリスマスのご案内[12/24-25]

日本福音ルーテル三鷹教会
2011年クリスマスのご案内

12/24(土)18:00より
クリスマス・イヴ キャンドルサーヴィス チャペルにて
メッセージ「主が知らせて下さった出来事」 李明生牧師
間垣健二氏(ヴァオリニスト)による演奏

12/25(日)10:30より
クリスマス降誕日礼拝 チャペルにて
メッセージ「命を照らす言葉」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊によるコーラス
※礼拝後、学生食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

ともに主イエス・キリストのご降誕を憶えましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

2011年12月6日火曜日

「やかまし村のクリスマス」のご案内[12/11]

12/11(日)14時より「やかまし村のクリスマス」がチャペルにて行われます。

人形劇・お話を中心にした楽しい会です。ご家族でお誘いあわせて是非ご参加下さい。

特別ゲスト:凸凹工房 森島孝さん(浜松市在住)

手作りの「おはなし組木」で人形劇を上演

『スイミー』『三びきのやぎのがらがらどん』他

[説教要旨]2011/12/04「主の道を整える」マルコ1:1−8

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 40:1−11 【旧約・1123頁】
第二の日課 2ペトロ 3:8−15 【新約・ 439頁】
福音の日課 マルコ 1:1−8 【新約・61頁】

アドベントクランツの2つめのロウソクにも火が灯された。クリスマスの出来事は私たちの元に確実に近づいてきている。クリスマスという出来事とは、神は遠くにいてわたしたちの苦しむのを眺めているのではなく、そこにかかわり、人の喜びも苦しみもすべて味わうために、この地上において人となられたということである。その神の子をわたしが迎える時、私たちが自分の居場所、自分の持ち物、自分の好むもの、自分を満足させるものを手放し、それを誰かのために、普段自分にとっては関わりがないような、自分から離れた遠い存在であると思っているような、そうした人々のために献げ、分かち合う時、そこに救い主を迎える道が、場所が造られてゆくのである。
マルコによる福音書の冒頭には、いわゆるクリスマス物語は収録されていない。代わりに「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という一言が語られた後に、洗礼者ヨハネが神の子救い主の到来を告げる。いわばこの一言によって、クリスマスの意味を凝縮しているのである。救い主がこの世に与えられたという出来事、それはこの世に生きる全ての民に告げられた良い知らせ、すなわち「福音」の始まりなのである。洗礼者ヨハネは、この福音のために「主の道を整える」ことを呼びかける。この呼びかけに応えて「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとにきて、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とマルコ福音書は報告している。ルカ福音書3章では、より厳しい洗礼者ヨハネの活動と言葉が収録されている。「(10)そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(11)ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。」洗礼者ヨハネによる悔い改めの呼びかけ、それは自分を満たすことを断念し、誰かのために分かち合うことの呼びかけであった。
しかし、洗礼者ヨハネはさらに「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語る。洗礼者ヨハネの悔い改め呼びかけは、福音そのものではなかったのである。私たちが自分の行為の成果、その正しさの評価だけを目に留めるならば、それはいずれ、形式化された規則となり、それはまた新たな抑圧を生み出してしまう。だからこそ洗礼者ヨハネは、彼の呼びかけの先には救い主、主イエス・キリストがあるということを語る。私たちが自分自身を断念し、誰かのためにそれを分かち合うということ、それは、人の目に正しく映るためでも、人の基準によってその合否が計られるためでもない。それは、ただ主イエスを迎える、その道を、その場所を、私たちが備えるためなのである。
クリスマスの近づくこの時期、町はきらびやかな装飾で満ちる。しかし、本当の意味で、クリスマスを迎える準備とは、美しく、自分の好みに合わせて、自分の空間を満たすことなのではない。自分を満たすのではなく、遠い誰かのためにそれを用いていく。それこそが、救い主を迎えるその道を整えることなのである。

[説教要旨]2011/11/27「キリストの到来に備えて」マルコ13:24−37

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 64:1−8 【旧約・1166頁】
第二の日課 1コリント 1:3−9 【新約・ 299頁】
福音の日課 マルコ 13:24−37 【新約・89頁】

十字架で処刑された男・ナザレ出身のイエスが生ける神・救い主であるという、この逆説こそ、苦しみと悲しみに満ちた私たちの生の中に伝えられた福音であり、教会の宣教の中心であった。しかし、やがて時が流れ、イエスが神であることを強調するあまり、この世界に現れたのは、幻のような神の仮の姿であるといった理解が生まれてくるようになる。葬られたはずの墓が空であったことを説明するためには、この理解はたしかに都合の良いものであった。しかし、教会の伝統は、そうした理解を斥けた。それは主イエスが、私たちと変わらぬ一人の人間としてこの世に生を受け、そしてこの地上を歩まれたということが、福音にとって欠く事の出来ない点であったからである。主イエスが生ける神であることを伝えた教会は、クリスマス、すなわち「主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に一人の人として到来された事」を憶える時を持つ事となった。
キリスト教では、救い主であるイエス・キリストが、私たちのこの世界へとやってくることをこの季節に憶える。北半球では毎週アドベントクランツのろうそくの光が増えるにつれて、逆に外の闇はますます濃くなっていく。私たちの周囲を取り囲む闇がその力を増してゆく中で、私たちの生きるその闇のただ中に与えられた光、救い主キリストの到来を私たちは憶える。
本日の福音書で主イエスは十字架の地であるエルサレムにおいて、いわばその死を目前にして、告別の辞とも言える教えを語っている。しかし、その締めくくりである本日の箇所では、「人の子がやってくる」ということが語られる。ここで「人の子がやってくる」ということ、それは主イエスご自身が再び到来されるということであった。つまり告別の辞は、再会の約束によって締めくくられるのである。しかもその再会は、闇の力の支配するこの古い世が終わる時、つまり神の国がこの地上に完成する時に実現すると語られる。
これからまさに、十字架という、人としての痛みと絶望の極みへと向かおうとする時に、主イエスは神の国の完成とご自身の到来を語る。それは、救い主・イエス・キリストは、私たち人間の痛み・苦しみ、悲しみ・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝ち、光をもたらされ、神の国をそこに打ち立てる。そのためにこの地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。
主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。主イエスがこの世界のその闇のただ中に踏み込み、その闇を打ち砕かれる。それは滅びる事のない約束の言葉として、私たちを今も支え、励ましている。
私たちは今、主イエスの到来に備える、アドベントの時を迎えている。それは単に、過去の出来事を思いだし記念しているだけなのではない。私たちは今まさに、主イエスが、私たちを取り巻く闇の中に到来されることを待ち望んでいる。私たちを取り巻く、ますます濃くなってゆくこの闇の中で、私たちが主イエスの言葉によって励まされ、支えられてゆくこと。それこそがまさに、主イエス・キリストの到来に備えることなのである。