2009年12月30日水曜日

[説教要旨]2009/12/27「救いを見た」

降誕後主日

初めの日課 エレミヤ 31:10-14 【旧約・1235頁】
第二の日課 ヘブライ 2:10-18 【新約・402頁】
福音の日課 ルカ 2:25-40 【新約・103頁】

 主イエスの到来を憶えるクリスマスを迎えて、教会の暦は、地上での主イエスの歩みを辿る半年を迎える。それはいわば、私達が主イエスのみ後を辿ることで、私達の間に与えられた神の救いの出来事を今一度明らかにするための時でもある。神の救いを、私達はどこで見出すのか。社会情勢が厳しくなればなるほど、私達の目には「救い」の出来事は見えにくくなり、繰り返しその問いにぶつからざるをえなくなる。
 本日の福音書の中でシメオンによって歌われる言葉は、私達の礼拝の中では「ヌンク・ディミティス」として用いられ、大変なじみの深いものである。「私はこの目であなたの救いを見ました」と語るシメオンの言葉、それはおよそ全ての人々が待ち望むものを代弁しているとすら言える。しかし、そのシメオンが出会った救いとは、武力を持っているわけでも、財産や権力を持っているわけでもない、ただの赤子にすぎなかった。
 シメオンは老いており、主イエスは生まれたばかりである。立場を異にするこの二人を結び付けるもの、それは神の約束の言葉しかなかった。神の約束が実現するためには、シメオンがその小さく弱い赤子をその懐に受け入れなければならなかった。シメオンは、「神の救いを見るであろう」ではなく、「神の救いを見た」と語る。それはシメオンが待ち続けた「慰められること」が、まさに今実現した、ということであった。もはや救いと慰めは、未来の約束ではなく、現在実現した。私達のところにそれは既に与えられた、とシメオンは語る。そして、シメオンはその赤子、主イエスを腕に抱き、「これは万民のために整えて下さった救い」と歌いあげる。それは、力弱い、小さな幼子と出会いは、ただ彼の個人的なにとってだけでなく、この地上の世界全体にとっての、救いとの出会いであることを示している。ひと組の老人と赤子の出会いは、人の目には不可能と見えるところ、人の目には不十分としか見えないところ、人の目には挫折と屈辱としか見えないところ、そこにおいてこそ、人は救い主と出会い、そこにおいてこそ神の救いと慰めは実現する、ということを私達に示している。そしてそれはなによりも、主イエスが十字架の死と復活において、私達に決定的に明らかにされた事柄であった。
 私達の慰めと救いはどこにあるのか。それは、現代社会に生きる私達にとってますます大きな信仰的な問いとなっている。しかし実は、その答えを私たちは毎週の礼拝の中で口にしているのである。「今私は主の救いを見ました」。クリスマスの出来事を通して、私達に「救い」は既に与えられた。それは私達の期待とは異なり、小さく、弱い姿をしているかもしれない。しかし、私達はそれを懐に受け入れる時、「私」に留まらない大いなる喜びと希望を見出すことが出来るのである。


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