2012年9月25日火曜日

[説教要旨]2012/09/23「すべての人に仕える者」マルコ9:30−37

聖霊降臨後第17主日

初めの日課 エレミヤ 11:18-20【旧約・ 1198頁】
第二の日課 ヤコブ 3:13-4:3、7-8a 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 9:30-37 【新約・ 79頁】

本日の福音書では、先週の日課に続いて2度目の受難予告がなされる。しかし、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか、つまり十字架の意味をまだ理解することが出来なかった。
その弟子たちはまた、その旅の途中で「誰が一番偉いか」について議論する。おそらく、来るべき「神の国」誰がより高い地位に就くことができるかと議論して いたのではないだろうか。この世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとすることは、この世の論理と価値観に 従って考えるならば、なんら間違いであると言って批判することはできない。しかし、主イエスは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、 三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。福音書において「人の子」という呼称は、受難と復活の予告をする主イエスの一人称である。 「人の子」は弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。
主イエスが宣べ伝えられた神の国は、人間を縛り、そして苦しめている、差別、抑圧、病、貧困、孤独などのあらゆるこの世の力が滅ぼされてしまう場所であっ た。そこは、この世の論理と価値観では、決して喜びや希望など見出されるはずなど無いところに、喜びと希望に満たされる世界なのである。そして「人の子」 主イエスは、何よりもその神の国を人々に与えるため、十字架に架けられ、殺される運命を受け入れられたのです。十字架刑による死という、人間の論理・価値 観で見るならば、最も暗く悲惨な運命から復活されたということ、それは人間にとっては絶望しか見いだせない場所に、神はキリストという希望の光を与えられ たということなのである。このキリストのおられるところこそが神の国の現れるところであり、キリストこそ人の形をとった生ける神の国であることを、福音書 は語るのである。
主イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れ るのである」と教えられる。古代のユダヤ社会では子どもとは、定められたことを実現出来ない未熟な存在、集団の成員としてはふさわしくない存在を表すもの でした。そのようなふさわしくない者をして、主イエスは「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と語られる。それはまさ に、この地上であたりまえとされる論理・価値観に属して私たちが生きるではなく、神の国に属する新しい命を生きることであった。実に、私たちがキリストと その教えを受け入れる時、同時に私たち自身が神の国に受け入れられているのである。たとえ私たちがこの世の力によって翻弄されていたとしても、キリストを 受け入れ、キリストの十字架に示された希望をめざし、その言葉に従って生きるならば、私たちは神の国に属して生きているのである。それは、私たちが、古い この世にありながら、全く新しい命を生きることなのである。

2012年9月22日土曜日

公開講演会「知的障がい者と関わって考えること-社会福祉法人おおぞら会の取り組みから-」[10/14]

10/14(日)13時半より
ルーテル学院大学チャペルにて
公開講演会「知的障がい者と関わって考えること-社会福祉法人おおぞら会の取り組みから-」
講演者:西原雄次郎先生
(ルーテル学院大学社会福祉学科教授、社会福祉法人おおぞら会理事長)
入場無料・どなたでもご参加頂けます。
皆様のお越しをおまちしております。


[説教要旨]2012/09/16「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 ヤコブ 3:1-12 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 8:27-38 【新約・ 77頁】

 次々に大国の支配を受けることとなったイスラエルは、大きな力をもつ「異邦人」によって自分達が汚されることがないように、その宗教的自由と政治的独立をねがうその思いを強めて行くこととなった。それはやがて、ダビデの家系から生まれ、ユダヤの民のためにエルサレムを異邦人から清め、ダビデの王国を以前にまさる栄光と繁栄をもって再興する、地上の支配者「メシア」を待望することとなった。
 本日の福音書は、主イエスが「メシア」つまり油注がれた者「キリスト」であることを巡って二つのエピソードが語られている。前半では、弟子たちの筆頭と見なされたペトロが主イエスに対して「あなたは、メシア」ですと宣言する、いわゆるペトロの信仰告白と呼ばれる出来事が語られる。主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いかける。弟子たちは人々の評判をつたえると、主イエスはさらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問う。この問いに応えて、ペトロは「あなたは、メシアです」と語る。それは、地上の様々な支配者の中でも、今目の前におられるこのイエスこそが、私たちの「メシア」油注がれた者であることを言い表すものだった。しかし、そのようにまさに模範的な答えをしたペトロが、本日の福音書の後半では、主イエスによって「サタン、引き下がれ」と叱責されてしまう。
 主イエスからペトロは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責される。非の打ち所の無い、正しい告白をなしたはずのペトロに、何が欠けていたのだろうか。その答えは、この二つのエピソードを結ぶ、主イエスの教えに込められているということができる。それは、主イエスのご自身の、十字架における死と、その死からの復活であった。
 ペトロはたしかに、この世の支配者の全てに優るメシアとして、主イエスを選びとった。そうであるからこそ、主イエスが語ったことを、敗北宣言と理解不能な言説としてたしなめることとなった。それはいわば彼の自らの正しさを保証するものとして、主イエスという存在を、メシア=キリストというものを捉えていたのである。しかし、主イエスが、メシア=キリストであるのは、そのような人々が期待するような地上の支配者として君臨するためでも、聖なる場所を汚されないように、異邦人を駆逐するためでも無かった。むしろ、全ての人の苦悩、痛み、嘆きを自らの身に受けるために、そしてそれにもかかわらず、新しい命の道を示すために、十字架と復活への道を歩むこと、それこそが、メシア=キリストとしての使命だったのである。
道徳的な正しさというマントを着ているとき、人は「良い」と信じていることを無慈悲な手段で行うことに罪意識を感じることが無くなってしまう。しかし主イエスは、正しさによって人を支配するのではなく、人が生きるその苦しみ、悩み、嘆きを、ご自身の十字架において受け取るために、この地上へと与えられた。そしてさらに、その苦悩と嘆きは行き詰まりのうちにはおわらないこと、その先にはなお新しい命の道があることを、その十字架からの復活によって私たちに示された。そうであるならば、自らの正しさを捨て、自らの十字架を背負うということは、復活の命への希望を抱く事なのである。

2012年9月15日土曜日

[説教要旨]2012/09/09「この方のなさったことはすべて」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 イザヤ 35:4-7a 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 2:1-10、14-17 【新約・ 422頁】
福音の日課 マルコ 7:24-37 【新約・ 75頁】

本日の福音書の冒頭で主イエスはガリラヤから国境を超え出る。その地域の住人は、都から見れば、異邦人、ユダヤの掟と信仰を共有しない人々であると見なされていた。冒頭では主イエスは「誰にも知られたくないと思っておられた」と書かれているので、宣教のためではなくむしろ休息のためにガリラヤを離れられたのかもしれない。しかしその主イエスのもとを悪霊に悩む娘を連れた一人のギリシア人の女性が訪れる。今日「悪霊」と聞くとオカルト的な印象を受ける。しかし古代ユダヤでは病の原因となるものが何なのかはわかっておらず、病は人の目に見えない何らかの力によって引き起こされていると理解した。アレクサンダー大王、そしてさらにローマ帝国が広大な領土を支配したことによって、人々の知らない病が各地にもたらされたであろうことは想像に難くない。そうした自分達の知識では対処できない様々な病を前にして、人々は悪霊の力によると理解した。医学も未発達で信頼出来ない時代、この女性はもはやどうすることもできず、最後に主イエスを捜し当てる。
主イエスは娘を癒されるが、注意深く読み返すならば、娘自身が主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたと宣言したわけでもなく、ただ母の思いが主イエスの癒しの力を娘のところへと届けることとなったことに気付く。そこには「救いに与る条件はあるのか」という問いがある。続く31節からの箇所ではそのことがさらに明確となる。ここで登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」は主イエスのもとに連れてこられるだけであって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいないにもかかわらず、主イエスはその人を癒されたのだった。自らは全く積極的には動いていないこの二人が癒され救われたのは一体なぜなのか。
この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとある。深く息をつくというこの言葉は「呻く」という意味で用いられることもある。主イエスいわば、天を仰いで「呻き」を
あげられたのである。主イエスは、地上で生きる人々の苦悩と痛みを主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを主イエスが天に向かってあげられたのだった。そして主イエスがあげるの呻きは、人が線引きをした国境を越えて、この地上に生きる全ての人の苦悩と痛みを受け止められるものだということを聖書は伝える。主イエスはこの後、まさに,全ての人の呻きを身に受けるために、十字架への道を歩まれることとなる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出されたのだった。主イエスの癒しと救いの業を前にして、人々は口々に「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と語る。この言葉は、創世記1章で、創造された世界を神がご覧になった際の「見よ、それは極めて良かった」という言葉を思い起こさせる。主イエスの癒しと救いの業はまさに新しい命の創造の出来事であった。主イエスの十字架と復活の出来事は、この地上に生きる私たちに、神の福音は、新しい命の恵みは与えられていることを伝えるのである。

2012年9月4日火曜日

[説教要旨]2012/09/02「人間の戒め、神の掟」マルコ7:1-8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 申命記 4:1-2、6-9 【旧約・ 285頁】
第二の日課 ヤコブ 1:17-27 【新約・ 421頁】
福音の日課 マルコ 7:1-8、14-15、21-23 【新約・ 74頁】

 主イエスの時代のユダヤは、それまではあたりまえであると思っていたものが次々と失われていく混迷の時代であり「正しさ」「清さ」の名の下に排外主義と暴力を正当化する空気に満ちていた。しかしその中で、主イエスは人々に「神の国」の福音を伝えたのだった。
 本日の福音書の冒頭では、ガリラヤで活動する主イエスを、政治と信仰の中心であるエルサレムからやってきた宗教的な権威を持つ者たちが問い詰める場面から始まる。彼らの権威は、神の掟である律法を守るための「垣根」として「昔の人の言い伝え」を守ってきたことであった。その一つとして、ここでは「手を洗う」ということが問題となる。そこには衛生的な理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清める意味が込められていた。この「汚れた」という言葉は「世俗の」という意味であり、もともとは「共有の」「分かち合う」「交わる」という意味の言葉である。手を洗うという行為は、自分達が異なる生活様式を持つ者との交わりを汚れとして避けることを意味していた。とりわけ、旧約と新約の間の時代に起こった民族主義的色彩の強い戦争の時に、この「交わり」を「世俗の汚れた」ものであるとする理解が強まることとなった。しかしながら、この「世俗の」あるいは「汚れた」という言葉は、使徒言行録の中で最初の教会の理想的な姿として語られている。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」(使2:44)の「共有にした」という言葉は、「世俗の」「汚れた」という言葉と同じなのである。
 たしかにそれは、「言い伝え」の遵守に誇りと尊厳をかけていた者たちにとっては、その垣根を超え出ることは、「世俗」にまみれ「汚れる」ことに他ならなかった。しかし主イエスは、神の国の福音は人の造った垣根の中に留まることは出来ないことを宣言される。神の掟において、神が造られたものは全てが良いものであり、全てが清い。人がそこに垣根を作り、人の思いがそれを「汚れた」ものとしてしまうにすぎない。それこそが主イエスの伝えたメッセージであった。この7章を読み進めていくならば、主イエスが垣根を超え出て、、いわゆる異邦人の土地で神の国の福音を告げられたことを知ることとなる。
 主イエスはやがて都エルサレムへと向かい、そこで、垣根を超え出たものとして、十字架に付けられて処刑されることとなる。都の政治と宗教の権威者達から見れば、それは垣根を超え出た者の辿る当然の末路であった。しかし、世界と命を造られた神は、主イエスをその十字架の死から甦らされた。この地上の人間の造ったあらゆる垣根は、主イエスの十字架によって乗り越えられ、神の国の福音は、あらゆる人のもとへ無条件に与えられた。主イエスの十字架は、私たちを互いに対立させ憎悪させるものではなく、私たちを和解させ、分かち合いへと導く救いのしるしなのである。
 自分に失われたものを取り戻すため、人の戒めを振りかざし、「『正義』の名の下に加罰感情を沸騰させる」時代を今私たちは生きている。しかし、主イエスの十字架は、私たちに和解と分かち合いの道を示す。和解と分かち合いをもたらす十字架こそ、私たち与えられた神の掟なのである。