2014年1月23日木曜日

[説教要旨]2014/01/19「見よ、神の小羊」ヨハネ1:29ー42

顕現後第2主日

初めの日課 イザヤ 49:1ー7 【旧約・ 1142頁】
第二の日課 1コリント 1:1ー9 【新約・ 299頁】
福音の日課 ヨハネ 1:29ー42 【新約・ 164頁】

 昨今の社会の動向を鑑みる時、その信仰的立場から、キリスト者が平和と正義と和解と対話を求める声を上げてゆかなければならない緊張感を感じる。しかし、果たしてそのような声を上げたところで、その声はどれほど聞かれるのか、どれほど実りをもたらすのかを考えるならば、絶望的な思いにもとらわれる。
 声を上げた人物というならば、新約聖書では、本日の日課に登場する洗礼者ヨハネをまず思い起こす。彼は「荒れ野で叫ぶ」ものであり、本日の日課23節では預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と語る。洗礼者ヨハネはまさに人々に呼びかける叫びの「声」であった。マタイ福音書では彼が世の権力者たちの腐敗を訴え、人々に悔い改めを呼びかけたことが記されている。その声は確かに人々を呼び集めるが、最終的には権力者たちの暴力によってヨハネは捕えられ処刑されてしまう。しかし、今私たちはこうして洗礼者ヨハネの声を、聖書を通して受け取っている。その意味では、荒野で叫ぶヨハネの声はむなしく消え去ったわけではなかった。そして、それはなによりも、洗礼者ヨハネが主イエス・キリストと出会ったからに他ならなかった。本日の日課で、ヨハネは主イエスが自分の方に近づいてくるのを見る。荒れ野で叫ぶヨハネが、主イエスのもとに出かけたのではなく、主イエスが、ヨハネへと近づいてくるのである。それを見たヨハネは「見よ、神の小羊だ」と語る。
 ヨハネ福音書では時折出エジプトの出来事を思い起こさせる記述が登場する。「神の小羊」という表現も、出エジプト記で語られた過ぎ越しの小羊を思い起こさせる。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、過ぎ越しの夜、小羊の血を家の門に塗って難を逃れた。そしてそのことが、エジプトを脱出し、解放へと歩みをすすめることへと、歴史を大きく動かしてゆくことになった。「神の小羊」とは、いわば一人の力では太刀打ちできないような強大な力を前にして、解放をもたらす神の救いの歴史が動いてゆく、そのような出来事をもたらす存在である。歩み寄る主イエスを見出だしたヨハネはこの方こそ「神の小羊」であると語ります。それはまさに、この主イエスにおいて、救いの歴史がヨハネのもとへと近づき、動き出すことを物語る。主イエスに救いの出来事を見出した洗礼者ヨハネの声は、むなしく荒れ野に響くだけではなかった。一人の力では太刀打ちできないような、どれほど大きな力の前に人がおののいたとしても、主イエスが十字架に死に、そしてその死から蘇られたという出来事と共に、洗礼者ヨハネの声は、救いの歴史が動き始めたことを告げることとなった。
 ヨハネの声を聞き、主イエスこそが私たちに救いと解放をもたらす神の小羊であることを私たちが見出す時、たとえ私たち一人一人の力は、十分ではなかったとしても、私たちの声が世界を動かすことが出来なかったとしても、他ならない主イエスキリストご自身が私たちのその声を受け止めてくださること、ご自身の十字架と復活の出来事によって、この地上の世界に、平和と和解、救いと解放をもたらしてくださることを、私たちは確信することが出来るのである。私たちに与えられた、救い主、神の小羊主イエス・キリストに希望と信頼を置きつつ、私たちの地上の歩みを続けてゆきたい。

2014年1月17日金曜日

[説教要旨]2014/01/12「我々にふさわしいこと」マタイ 3:13-17

主の洗礼(顕現後第1主日)

初めの日課 イザヤ 42:1-9 【旧約・ 1128頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 マタイ 3:13-17 【新約・ 4頁】

「主の洗礼日」とされている本日は、教会の歴史の中では降誕・顕現の出来事の一環として、神がこの世に受肉したことを憶える時とされてきた。降誕、顕現、主の洗礼はいずれもが、本来天にある神の愛と慈しみが、私達人間の生きるこの地上の世界において結実した出来事であった。
他方「罪無き神の子」が罪の赦しの洗礼を受けたことは古代のキリスト教会においては大きな躓きでもあった。論理的には神の子の受洗は無意味で不必要なことである。しかしそれはむしろ、人間の論理を超えて、地上に生きる私達と同じ地平へ救い主がやって来られたことを示すのである。それゆえに本日のマタイ福音書では、冒頭で主イエスがガリラヤからヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとへとわざわざやって来られたことを確認する。直前の箇所で、多くの人々が洗礼を受けるためにヨハネの元に集まって来ていたことが報告されている。主イエスはこの人々と合流し、民の一人としてヨハネのもとにやって来る。しかしヨハネは、主イエスを他の人々と同列に扱うことを拒絶する。確かにヨハネが、後から来る方に対して自らを「履き物をお脱がせする値打ちもない」と位置づけていたことからすれば、それは論理を通すことであった。ここで主イエスとヨハネの対話は否定と肯定とが交錯する。二人の関係に限定して見るならば、確かに主イエスの発言はヨハネのその思惑を否定している。しかしその周囲にいる民の視点から見るならば、それはヨハネが行っていた働きを肯定し、その働きを続けるように励ましているのである。権力者の腐敗を糾弾し、悔い改めを呼びかける洗礼者ヨハネの活動は、確かに一人の人間の限界の中でその正しさを追求するものでしかなかった。やがてヨハネは支配者に捕らえられ処刑され、その活動は不十分で未完のまま終わる。しかし彼の不十分で未完の働きは、主イエスとの出会いを通して「我々にふさわしいこと」とされる。この「我々」とは直接的には主イエスと洗礼者ヨハネのことを指していると理解される。しかし物語の中で主イエスは、他の民の一人として洗礼者ヨハネのもとにやってきた。つまりここで主イエスが「我々」と語る時、そこには共にこの地上を歩む民が含まれている。洗礼者ヨハネが躊躇し断念しようとした正しいこと(=義)を、主イエスは「我々にふさわしいこと」として同じ地上を歩む多くの民と共に担われる。それは、本来であれば結びつくはずのない人の義と神の義とが、主イエスにおいて結びつけられたことを意味した。確かに神の子の洗礼は、論理的には無意味で矛盾する出来事でしかない。けれどもそのことを通して、本来結びつくはずのない、神の愛の業が私たち地上に生きる者の営みと結びつけられたのである。
主イエスが水から上がられた時「天が開いた」。それはまさに神の意志が働いて天をも動かし、新しい時代の幕が開いたことを示す。さらに天から鳩のような聖霊と共に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が届く。主イエスが「我々」の一人として、この同じ地上を歩まれたことによって、地上において様々な限界の中でしか生きられない私達もまた、神によって「私の愛する子」と呼び出され、この地上での営みの中で、神の愛に触れ、そしてその神の愛を隣人と分かち合うことができるのである。

2014年1月10日金曜日

2014年ルーテル三鷹教会定期教会総会のお知らせ

2014年のルーテル三鷹教会定期教会総会は2/2(日)礼拝後に行われます。

教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参加下さい。欠席される場合は必ず委任状をご提出下さい。

なお1/18(土)14時より、総会資料の製本作業を集会所にて行います。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

[説教要旨]2014/01/05「導きの先に」マタイ 2:1-11

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

本日はキリスト教会の暦の中で、1年の最初に迎える祝祭日である1月6日の顕現日(エピファニー)である。アドベントからクリスマスにおいては、神の子がこの地上へと下られた、自らを低い者とされたということを憶え、そしてエピファニーとその後に続く季節では、救い主がその力と権威をこの世に現されることを憶えることとなった。
さて、この主の顕現の日にあたっては、東方の国の占星術の学者らが主イエスを伏し拝むために訪れたことを通して、主イエスの王としての権威と力とが世界中に示されたということを思い起こす。この東方から来た者達は「占星術の学者」たちであったとされているので、彼らが星を見て行動するというのは当然ではある。しかし、元来東方の占星術の学者達は、聖書の民、イスラエルの民の外側からやって来たのであり、救い主とは何の接点もない存在であった。いわば、ここで星は、救済史の外側にいた筈の占星術師たちを救い主と結びつけるもの、救い主がどこにいるかということを人間の領域の外から指し示すものとなっている。人間の人生の中では、どれほど努力したとしても迷い道から脱け出すことが出来ずに途方に暮れることは決して少なくない。そのようなとき、生きる方向を見出すことができるのは、私たちの外側から進むべき方向が示されることによってなのである。東方の占星術師達が目指した星の光は、イエス・キリストを知らないもの、それこそ縁もゆかりもないものにも、あるいは道に迷うものの上にも、その光が届いていることを聖書は物語る。
星に導かれてヘロデの待つ王宮にたどり着いた占星術師達は、聖書の言葉に出会う。星の輝きは、彼らを聖書すなわち神の言葉へと導くものであったことがここで明らかとなる。しかし、ヘロデの王宮は彼らが目指していたものではなかった。皮肉なことに、聖書の言葉は、彼らの目指すところは彼らが予想した場所には無いこと、その外側にあることを語る。
聖書の言葉によってさらに進むべき道筋を示された彼らは王宮を離れ、ついに目指す救い主と出会う。しかしやっと辿り着いた彼らは、その訪ねた相手から、ねぎらいの言葉すらかけられることはなかった。そこにいたのは貧しい夫婦と生まれたばかりの無力な幼子だけであった。そこは、いわば無力と弱さが支配する場所であり、学者達が王として訪ねた相手は客観的にはむしろ援助を必要とするような者たちであった。それはまるで、何の救いもないようなこの世の悲惨な現実であった。けれども、この出来事こそ、救い主の降誕が私たちに語りかける福音のメッセージであった。なぜならば、救い主はどこにいるのかという問いへの答えとして、救い主は、徹底して私たちと同じこの地上に、そしてまさに無力さと弱さのなかにおられるということをこの出来事は私たちに示しているからである。地上の無力のただ中に、救い主はおられるのである。無力さの中に与えられた救い。そのメッセージは、この無力な赤子が、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる時に、より一層明らかなものとなって私たちに示される。

2014年1月9日木曜日

[説教要旨]2013/12/29「嘆きの声の中で」マタイ 2:13-23

降誕後第1主日

初めの日課    イザヤ 63:7-9    【旧約・ 1164頁】
第二の日課    ヘブライ 2:10-18    【新約・ 402頁】
福音の日課    マタイ 2:13-23    【新約・ 2頁】

クリスマスの祝祭の期間、教会の暦は奪われ失われた命について思いを向ける。12/26は殉教者ステファノの日、そして12/28には本日の福音書と関連して幼子殉教者の日とされている。つまりクリスマスの祝祭は本来、既に衣食住と基本的な生命の安全が守られている私たちが、より多くの物によって満たされることを祝う時なのではない。むしろそれは、持っている僅かなもの、あるいはたった一つの命すら奪い取られ、何も残されていない者にとって、唯一与えられた希望の出来事なのである。
本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、ヘロデ大王の暴虐から逃れるために、マリアそして幼子の主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。外にはローマ帝国があり、内には様々な反乱分子を抱えたその動乱の時代を、自分を脅かす存在は、肉親であろうとも容赦なく粛正することで、ヘロデ大王は30年余りもの間君臨し続けた。それはいわば、自らが手にした物を失うまいとし続ける者が辿り着く姿であった。このヘロデの暴虐から、ヨセフは主の使いによって道を示され、逃れることとなる。
この出来事は見ようによっては、幼子イエス・キリストさえいなければ、他の命は奪われなかったのに、なぜあいつだけが生き延びたのか、そのように捉えることも決して不自然ではない。けれども福音書の物語は、別の視点からこの物語を語る。多くの命が理不尽に奪われる中で、残された命があったこと。つまり死の力は、全ての希望を抹殺することはできはしなかったということ。それによって新しい永遠の命への道は、繋ぎ止められたということを、語るのである。つまり、主イエスこそが、理不尽に奪われ、失われる命にとっての、悲しみと嘆きの声の中で残された、最後の希望であることを、聖書は物語るのである。
本日の物語のもう一つの焦点である、エジプトへの逃避行に目を向けたい。ヨセフは住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立ちます。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな損失であり、人生の危機であった。しかしかつてイスラエルの民を、抑圧から脱出させ、解放へと導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。大きな損失を伴ったヨセフの旅立ちは、しかし彼一人だけの旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。
悲しみと嘆きの声は、現代のこの世界を覆っている。しかしその中で主イエスが共におられるという、クリスマスの喜びは語られる。悲しみと嘆きの声の中で、ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。主の導きを憶えて、新しい年を迎えたい。

[説教要旨]2013/12/22「神は我々と共におられる」マタイ1:18-25

待降節第4主日

初めの日課 イザヤ 7:10-16 【旧約・ 1071頁】
第二の日課 ローマ 1:1-7 【新約・273頁】
福音の日課 マタイ 1:18-25 【新約・ 1頁】

主日の聖書日課は連続した箇所の中に、教会の祝祭に関わる聖書箇所を取り上げる。教会の祝祭とはすなわち、主イエス・キリストにおいて起こった救済の出来事を憶えるである。その事はいわば、キリストの救いの業が、私たち人間がたてた計画や順序を切断し、中断させ、その中に入り込んでくることを示唆している。自分達の建てた順序を守り抜くよりも、そうした人間の思いがキリストの救いの出来事によって中断されること、それこそが、救いのリアリティーであることを、教会の伝統はむしろ重視したのだった。
主イエスの降誕の週の幕開けとなる待降節第4主日を私たちは迎えた。待降節第4主日の日課には、救い主の到来についての神の言葉が告げられる箇所が選ばれている。本日の聖書の箇所は、マタイによる福音書における、救い主の降誕の告知とそのいきさつが語られているが、マリアに注目したルカ福音書と異なり、マタイ福音書ではヨセフが中心となっている。本日の日課に先駆けて、1章の冒頭では主イエスの系図が語られ、そして主イエスの誕生の次第が語られる。しかしそこには実は二つの中断がある。
主イエスの系図は、ダビデの血統としてのヨセフの系図である。しかしこの後に続く物語は、ヨセフと主イエスが、血縁上のつながりがないことを語っている。つまり人間の系譜は一旦中断されるのである。しかしそのことがむしろ救いの歴史となっていくことを、この福音書はこれから語るのだということを示していると言える。
続いて、ヨセフに主の天使が現れ、神の言葉を告げる物語が続く。ここでヨセフは「正しい人」と紹介される。正しい人とは律法に忠実な人であり、当時の社会の倫理・価値観に忠実な人であることを意味している。正しい人であったヨセフは、彼の生きた社会の倫理に従って、結婚前に身ごもった婚約者マリアを離縁しようとする。しかしたとえ「ひそかに」であったとしても、結果としてマリアは裁かれる危険にさらされることとなる。当時、婚約中であっても姦通には厳罰が与えられた。つまり、ヨセフの正しさはマリアとその身に宿る命を危機に晒すのである。しかしヨセフのその正しさゆえの計画は、主の使いが語る神の言葉によって中断されることとなる。神の言葉は、そこに救い主が与えられたことを語る。ヨセフの正しさは、マリアを断罪しようとする。しかし、そこに与えられた救い主はそれを中断させるのである。死の危機は生の希望へと変えられた。死を生へと変えること、それこそまさに主の愛の働きであり、そこに神が共におられるということに他ならなかった。
今週私たちは主の降誕を憶えるクリスマスの時を迎える。それは私たちの思いと計画を、救いは中断させることを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いが、主イエスによって私たちの生きるただ中に与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。私たちの救い、主イエスの到来をなお、待ち望みたい。