2009年6月25日木曜日

[説教要旨]2009/6/21「人のための定め」

聖霊降臨後第3主日

初めの日課    サムエル上 6:1-6     【旧約・435頁】
第二の日課    2コリント 4:7-18      【新約・329頁】
福音の日課    マルコ 2:23-28      【新約・64頁】

 本日の福音書では、先週の「断食問答」に引き続いて、「安息日問答」が展開している。「安息日」は、十戒に定められたように、週の7番目の日(すなわち土曜日)を聖別された特別な日として、日常的な仕事を休まなければならない日であった。当時のユダヤ社会において、安息日は、割礼と並んで、民が神の契約の内に留まることを示す重要なしるしであった。それゆえに、あらゆる社会階層、家畜、寄留者に対してもこの休息日は適用されることとなった(出エジプト20:8-11、申命記5:12-15)。現代で言うところの労働者の権利など顧みられるはずもない古代に、奴隷どころか家畜にすら休養を求めるこの定めは極めて特異なものであった。特に申命記では、この定めが、ユダヤの民が異国で奴隷となっていたということ、そしてそこから神によって解放されたことと深く結び付いていることが記されている。その意味で、この定めは人を支配し束縛し、重荷を負わせるための定めなのではなく、そうした重荷を担わされている存在を、その苦しみから解放するためのものに他ならなかった。それは、ユダヤの民自身に起った、異国の地での重荷と苦しみの体験、そしてそこからの解放という、神の救いの出来事をこの地上において実現するための定めであった。こうした定めの体系としてのユダヤの律法の本質とは、本来、人間が神の救いと守りの内で生きるための指針なのである。
 安息日に麦の穂を積んだ弟子たちについて、ユダヤの宗教指導者たちは主イエスに非難を投げかける。そこではしかし、神の救いと守りとは既に問題ではなく、「決められたことを守るか守らないか」という次元に陥っている。そのような次元では、正しいのは自分であるという主張が繰り返されるに過ぎない。そしてそれは結局のところ、「自分の正しさ」と「自分がいかに高い立場であるか」を互いに主張しているに過ぎないのである。主イエスは、それに対して、この定めの本質を提示する。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(27節)。誰が正しいのか、そして、そうであるがゆえに、誰が最も権威があるのか。そのことについて言い争うことは意味がない。むしろ、重荷と苦しみを担うものの痛みに共感し、そこからの解放をいかにして実現するか、ということだけが問題なのである。なぜならば、正しく、最も高い権威を持ち、それでありながら、痛みと苦しみを担い、そこからの解放をもたらされた方は、ただ一人だからである。「だから、人の子は安息日の主でもある。」と主イエスは続ける。ここで言う「人の子」とは主イエスがご自身のことである。実に、神の救いと守りの本質は、十字架の苦しみと、その死から復活された主イエスという存在がともにあることに他ならないのである。主イエスが共におられるとき、私たちは他者の痛みを分かち合い、そしてまたそこからの解放の喜びもまた分かち合うことができるのである。


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