2013年2月26日火曜日

[説教要旨]2013/2/24「十字架への道」ルカ13:31-35

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 15:1-12、17-18 【旧約・ 19頁】
第二の日課 フィリピ 3:17-4:1 【新約・ 365頁】
福音の日課 ルカ 13:31-35 【新約・ 136頁】

 四旬節も2回目の日曜を迎えた。キリスト教の伝統の中では四旬節は禁欲の期間でもある。それは不足と欠けの体験をすることで、私たちの生活を満たし守られる神の働きを、より一層実感するためでもあった。自らの欠けを知ることを通して、私たちはこの世界を自分自身の望む姿に整えることなどは出来ないということを思い起こし、自分はこの世界の創造者でも所有者でもなく、この地上に生きる全ての命は等しく神によって創られたということに思いを向けることとなる。
 本日の福音書に先立つ13:22では、隠された目的地である十字架へと向かいつつ、町や村を巡り歩いて教えるこの主イエスに、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねている。この質問は、昔も今も、読者である私たちにとっても切実な問いである。しかし、救いの出来事は神の働きであり、私たちは、自分で自分の救いを整え、確実なものにすることなどできないのである。この救いに関する問いに対して、本日の福音書では、主イエスはご自身の働きについて語られる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。これはご自身にヘロデの魔の手が迫っていることを訊いて、ヘロデに対する言葉として主イエスが語られたものであった。主イエスのエルサレムへの旅は救いの実現の旅でもあること、そこでヘロデが自らをこの地の支配者として、所有者としてどのような企みを持とうとも、神の救いの業は主イエスの十字架とその三日後の復活によって実現する。そのことを主イエスは、自らに迫る危機を通じて、はっきりと語られる。一方では、主イエスに迫る危機とはいわば、都エルサレムとその支配者たちが自分達にとって世界を最適なもの、確実なものとするための企図でもあった。しかし、どれほど自分達を整え、守ろうとしたところで、それは適わないのだということを、主イエスは、エルサレムへの嘆きとして語られる。
 そこには、ある鋭い対比が描き出されている。つまり、運命に翻弄され命を危機に直面しながらも、救いの完成へと向かう者と、現在は力を手にし充足しており、その安定を整え続けようとするものの、滅びの運命を逃れることの出来ない者との対比である。それは、私たちの生きている、目に見える世界と、未だ見えない、しかしいつの日か来る神の国との対比でもある。
 主イエスのエルサレムにおける十字架は、客観的に見るならば、失敗と挫折に過ぎない。しかしそれこそが救いの出来事であることを聖書は語る。まさに救いの出来事は、私たちの思いと理解を超えた神の業に他ならない。もしその救いを、人が自らの手で確かなものにしようとする時、自分のために世界を最適化し、満たし整えようとしてしまう。しかし実はそのことによって、人は自らを救いの出来事から遠ざけてしまう。むしろ私たちが自らの不足と弱さに向きあうことを選ぶ時、私たちもまた十字架から復活への旅路を歩む主イエスの後にしたがっているのである。主イエスが辿られた受難の道のりを思う四旬節の時、私たちは、自らの弱さと欠けのただ中にあって、ただ十字架と復活を望みとすることを知るのである。

2013年2月22日金曜日

2013年受難週・復活祭のご案内[3/29-3/31]

2013年の復活祭(イースター)は3/31(日)です。
イースターに先立つ受難週の礼拝としては、3/29(金)19時より受苦日礼拝、3/30(土)夕方には復活祭前夜祭(イースターヴィジル)が行われます。
また3/30(土)午後には教会集会所にて教会学校を中心にイースターエッグ作りをします。
3/31(日)は復活祭(イースター)礼拝、午後には学生食堂を会場に、一品持ちよりによる祝会の時を持ちます。
皆様のご参加をおまちしております。

[説教要旨]2013/02/17「荒野の中で」ルカ4:1−13

四旬節第1主日

初めの日課 申命記 26:1−11 【旧約・ 320頁】
第二の日課 ローマ 10:8b−13 【新約・ 288頁】
福音の日課 ルカ 4:1−13 【新約・ 107頁】

先週の水曜日は、四旬節の始まりの日である「灰の水曜日」、そして本日は、四旬節最初の日曜日である。イースターまでの40日余りの日々の最初の主日にあたって、伝統的に荒れ野での主の40日間の誘惑の箇所が福音書として選ばれている。この箇所は、イースターまでに私たちが過ごす40日間が、主イエスの荒野での40日間を記念するものなのだ、ということを思い出させる。この四旬節の季節を通して、主イエスの生涯における荒れ野での40日間は、私たちの教会生活の中での40日間へと結び付けられる。つまり、私たちが今直面する様々な困難と試練とを、かつて主イエスもまた、荒れ野において辿られたということを、私たちは知ることとなる。
主イエスの荒れ野での日々は、聖霊の導きによって始まる。主イエスを満たす霊は、困窮と試練とに向かわせる力でもある。また、荒れ野と40という数字は、旧約聖書で語られる、イスラエルの民の40年に渡る砂漠での彷徨を思い出させる。40という数字は、その期間が人の予想を超える、大変長い年月であることを象徴する。つまり、それほどの長い期間に渡信仰への試練の時を意味している。現代の日本社会に生きる私たちにとって、信仰の試練の時はイースターの前の40日だけではない。私たちはこの世における日々の生活において、常に試練の中で生きている。
本日の日課では悪魔が誘惑者として描かれる。主イエスの試練、それは困窮と弱さだけではなく、いわばそれらを逃れ、力と高みへと向かう誘惑でもあった。主イエスは、それらの誘惑に対して徹底してみ言葉を持って応え、自ら困窮と弱さに留まられるのである。
人生の荒れ野の中にある時、その時は私たちにとって不毛以外の何物でもない。しかし、荒れ野の時、試練の時は、決して無意味な不毛なだけの時なのではない。エジプトを脱出したイスラエルの民が、神が約束した地に辿り着くまでに実に40年もの年月を要した。しかしその長い試練の時を経て始めて、未来への決して消えることのない信仰を与えられたのである。この40年の荒野での生活は、地上を旅するものにとって必要な時であった。その意味で、荒れ野の時を超えてゆくことは神の救いが実現する道筋なのである。
本日の聖書箇所の初めには、「荒れ野の中を“霊”によって引きまわされた」とある。旧約においても、預言者あるいはイスラエルの民が荒れ野へと向かうのは、本人の自発的意思によってではなく、むしろ見えない神の力が彼らを荒れ野へと駆り立てていったのだった。おそらくそれは、彼らにとっては、自分たちが望んでいた将来とは全く異なるものであった。しかし、むしろその望まざる荒れ野での体験を通して、彼らは神の人、神の民として変えられていった。それはまさに、荒れ野での体験を通して、神の業がその人に働いたということに他ならない。
主イエスが歩まれた荒野の日々を憶えるのはイースターの前の40日間に限られることではない。私たちは日々の生活の中で、私たち自身の直面する荒野において、主イエスその荒れ野の中で共におられることに思いを寄せるである。そして、その荒野の時は、決して無駄な、無意味な時なのではなく、私たちが主イエスに出会うための備えの時であるということに気づくのである。私たち自身の荒れ野の中で、私たちは主イエスと出会うことを憶えつつ、四旬節の時を歩んでゆきたい。

2013年2月8日金曜日

灰の水曜日の祈り[2/13]

今年は2/13(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、3/31(日)に復活祭を迎えます。
2/13(水)19時よりチャペルにて灰の水曜日の祈りを行います(神学校との合同として平岡仁子師にご担当頂きます)。
是非ご参加ください。

[説教要旨]2013/2/3「神の愛を分かち合う群れ」1テサロニケ3:11-13

顕現後第4主日・三鷹教会定期総会

初めの日課 エレミヤ 1:4-10 【旧約・ 1172頁】
第二の日課 1コリント 13:1-13 【新約・ 317頁】
福音の日課 ルカ 4:21-30 【新約・ 108頁】

 使徒言行録によればパウロは第2回宣教旅行の途中でテサロニケで教会を創設、その後さらなる宣教地を目指して旅立つが、その後テサロニケ教会を様々な苦難が襲った。この苦難の中にあるこのテサロニケ教会を再び訪れて慰め励ましたいとパウロは強く願うが、何らかの理由によってその計画は頓挫する。その理由は様々に推測されているが明らかではない。いずれにしても、パウロはこの事を「サタンによって妨げられている」とすら感じるほど、焦燥と不安を覚えることとなる。現代人である私たちにとって、擬人化されたキャラクターとしての「サタン」はファンタジーのようである。しかし、励ましと希望を語る事、互いに喜びを分かち合い神に感謝すること、祈りを一つに合わせることを妨げる力が、この世に満ちているということ、そして私たちは日々そのような力に脅かされているということは、極めて現実的な体験でもある。
焦燥と不安の中、パウロは若い同労者であるテモテを派遣する。やがてテサロニケの教会から戻ったテモテは、パウロに「うれしい知らせを伝え」る(3:6)。「うれしい知らせを伝える」とは「福音を伝える」と同じ言葉である。テサロニケに福音を伝え、彼らを励まさなければならないと考え、焦燥と不安の中にあったパウロは、今や逆にテサロニケの信徒達によって福音を知らされ、励まされ、希望と生きる力を与えられる。そこには人の思いと予想を超えて働く神の力があることを確信し、パウロは祈りを捧げる。11節では、たとえ今、進むべき道が閉ざされているように見えたとしても、私たちの思いを越えて、主なる神は、そして主なるイエスが、その道を必ず備えて下さることを願う。その祈りは、福音の宣教の使命は、パウロ個人の思いや能力によって成し遂げられるのではなく、神と主イエスとによって成し遂げられるのだということを、改めて私たちに訴える。さらに続いて「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように」と祈る。そこでは「お互いの愛」つまり信仰の兄弟姉妹に対してだけでなく、「全ての人への愛」とによって、教会が満たされるようにと願っている。あらゆる困難、妨げを越えて、人と人とを出会わせ、希望を分かち合うことができるのは、神の愛によって人が満たされるからに他ならない。そしてそれは、ただ教会の中だけに留まることはない。満ちあふれる神の愛は、全ての人を満たしていくのである。最後に再臨の主に備えて生きることを願って祈りを締めくくる。主イエスの再臨の時、それは終わりの時であり、またあらゆる労苦と困難が報いられる時でもある。私たちを満たす神の愛は、主イエスの再臨の時、世の終わりの時に至るまで、私たちを結び合わせ、励ましと希望を分かち合わせる力であることを、パウロは力強く訴える。
今、この日本社会は不安と混乱の中にある。その中で生きる私たちもまた決してその不安と混乱から無縁ではない。けれども私たちが、神の愛によって満たされる時、私たちは、その不安と混乱を越えて希望と慰めの「うれしい知らせ」を伝え合うことが出来る。この2013年度、私たちが神の愛を分かち合う群れとして歩んでゆけることを祈り求めてゆきたい。