2015年10月2日金曜日

鈴木浩先生特別礼拝「宗教改革の今日的意義ー福音の再発見ー」のご案内[10/11]

2017年の宗教改革500年に向けて、ルーテル三鷹教会では、宗教改革の今日的意義-福音の再発見-」を主題に鈴木浩先生の特別礼拝を行います。
どなたでもご参加頂けます。
皆様のお越しをお待ちしております。

特別礼拝 「宗教改革の今日的意義ー福音の再発見ー」
説教者 鈴木浩牧師(ルーテル学院大学教授・ルター研究所所長)
2015年10月11日(日)10:30より
ルーテル学院大学チャペルにて
入場無料(礼拝の中で自由献金があります。)

 1517年10月31日、修道士だったマルティン・ルターは、一枚の「壁新聞」のようなビラをヴィッテンベルクという町の「城教会」と呼ばれる教会のドアに貼り出した。いわゆる『九五箇条の提題』と呼ばれる文書である。 取り上げられていたのはいわゆる「免罪符」の問題であった。ルターはそれを「民衆からの搾取」であると激しく攻撃していた。この文書はまたたく間にドイツ国内に広まった。これが16世紀のヨーロッパを揺るがせた「宗教改革」の発端になった。 しかし、いったい何が問題だったのか、そしてそれは今日のわたしたちとどのような関わりがあるのか、そうした事柄を考えてみたい。

 

[説教要旨]2015/09/20「すべての人に仕える者に」マルコ9:30-37

聖霊降臨後第17主日 初めの日課 エレミヤ書 11:18-20 第二の日課 ヤコブの手紙 3:13-4:3、7-8a 福音の日課 マルコによる福音書 9:30-37 今、社会は暴力であれ、財力であれ、権力であれ、強さを持ったものが正義であるという風潮が蔓延しつつあるように思われる。力で他者を圧倒することの先に、自分達の安全と繁栄があるという思いが支配的になっているように思う。しかし、聖書が語る主イエスの姿は、今私たちをとりまく力とは全く異なるものを示すこととなる。 本日の福音書では主イエスが、エルサレムでのご自身の十字架の死とそこからの復活について、2度目の予告をされている。二度目である今回もまた、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか理解出来ず、その言葉の恐ろしさに怯えるだけであった。 そして、主イエスの言葉を理解できない弟子たちは「誰が一番偉いか」という議論をする。「誰が一番偉いか」ということ、それはこの世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとする人間の姿である。しかし、主イエスは「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。 主イエスが「人の子は…」という言葉で始まる教えを語られるとき、その教えは十字架の出来事を予告している。それは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であり、弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。誰が一番偉いかを議論する弟子達に、主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語り、一人の子どもを弟子達の間に立たせ「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と語られるのだった。 「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、神の国を宣べ伝え、人々を教え、癒されたた主イエスは、まさに全ての人々に仕える者として、ガリラヤの地を歩まれ、そしてさらに、エルサレムへの十字架の道へと進んでゆかれる。そしてその命を用いて、私たちに新しい命、新しい世界、真の神の国を開かれたのだった。その主イエスが「全ての人に仕える者になりなさい」と語られる時、それは主イエスが歩む、その十字架への道を共に歩むことが呼び掛けられているのである。 たしかに、十字架の道を歩むことはは決して容易なことではない。それは私たちにとって、安全と繁栄とは真逆へと向かう、恐ろしい道であるようにしか思われない。けれども、その道は、絶望と敗北に行き詰まる道なのでは無いことを、聖書は語る。主イエスの十字架の道は、私たちの思いと考えでは、絶望としか見えない先に、私たちの目には行き詰まりとしか思えないその先に、新しい命が、神の国が待っていることを聖書は語るのである。 旅の途上では、主イエスの言葉を理解することができなかった弟子たちは、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、その意味を悟り、根底から生き方を変えられてゆく。現代に生きる私たちもまた、主イエスの十字架と復活の出来事に触れる時、絶望の先にある平和への道、新しい命への道を生きることができるのである。

[説教要旨]2015/09/13「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日 初めの日課 イザヤ書 50:4-9a 第二の日課 ヤコブの手紙 3:1-12 福音の日課 マルコによる福音書 8:27-38 本日の日課の最初では主イエスはフィリポ・カイサリアにいたとある。「皇帝の町」を意味するカイサリアはローマ皇帝アウグストゥスがヘロデ大王に与えた領地であり、皇帝崇拝のための神殿が建てられていた。またその他に様々な神々の神殿があった。言い換えるならば、この世で、頼りになると思われるようなもの、利益が得られそうなもの、そのようなものが立ち並ぶ街で会ったと言えるだろう。つまり、様々なこの世の力と、真の生ける神の子キリストとがこの町で対峙したとも言える。そうした事柄を背景としつつ、主イエスは弟子達に向かって、人々は自分を何者だと思っているかと問いかけえう。弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答える。主イエスの問いかけはあらに続く。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これまで私と共に歩んできた「あなたがた」は、いや「あなた」はどうなのかを、主イエスは問いかける。この問いかけに対してペトロは、「あなたはメシアです」と応える。口語訳では「あなたこそキリストです」と訳されていた。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」を意味し、神から特別な任務を与えられた者ということであった。このメシアをギリシア語に翻訳したものが、「キリスト」である。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていた人物であることを、確かに言い表している。しかし、それでもなお、その答えは充分ではなかった。なぜならば、このペトロの応えに対して、主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」とさらに続けられているからである。 ここで語られるものは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であった。それは当時の人々が、「メシア(キリスト)」という言葉に対して持っていたイメージとは正反対のものであっただろう。主イエスは「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、自らの低さ、十字架の苦難を示されたのだった。しかし、それはむしろ力強いメシアを期待する世間の人々の期待を裏切るような発言でもあった。それゆえに主イエスをたしなめようとするペトロを、しかし主イエスは厳しく叱責される。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」十字架の出来事、それは人間の理解と常識を超えた出来事であり、人間の計画と予想を超えた出来事であった。そして、主イエスによって示された福音とは、この低さの極みである十字架の出来事に他ならない。苦しみと低さの極限である十字架こそが、私たちの救いと解放の出来事なのである。 十字架を担うこととは、恐ろしく忌まわしいことである。しかし、私たちは、決して1人で十字架を担うのでは無いということを知っている。その十字架は主イエスが今も担ってくださったものなのである。まさにそうであるがゆえに、私たちが自らの苦しみと低さの極限である十字架を担う時、私たちに主イエスはもっとも近くおられるのである。

[説教要旨]2015/09/06「イエスが訪れるところでは」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日 初めの日課 イザヤ書 35:4-7a 第二の日課 ヤコブの手紙 2:1-10、14-17 福音の日課 マルコによる福音書 7:24-37 本日の福音書では主イエスが、ガリラヤから外へと国境を超え出てゆく。ティルスという地方は、ギリシア的な文化が支配的な地域であった。そのような地に主イエスが行かれたのは宣教のためではなく、「誰にも知られたくないと思っておられた」とあることから、むしろ休息のためにガリラヤを離れたのかもしれない。しかし、その主イエスのもとを、悪霊に悩む娘を連れた一人の女性が訪れる。 この母親の強い願いによって、主イエスは娘を癒される。しかし娘については、ただ「悪霊」が出てしまっていた、とだけ書かれるだけで、この物語の中では何も積極的な役割を果たしていない。娘自身が、主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたわけでもない。続く31節以下の箇所で登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」もまた、主イエスのもとにくるにあたって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいない。しかし、主イエスはその人を癒される。これらの2人の共通点は、弱い自らの存在をただ主イエスの前にさらけ出したということでしかなかった。 この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとあるが、この言葉は、「呻く」という意味で用いられることもある。この意味で受け取るならば、天を仰いで主イエスは、地上で生きる人々の悩みを、苦しみを、痛みを、主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを、主イエスご自身が、天に向かってあげられたと言えるであろう。つまり、主イエスはご自身の前にさらけ出される、この地上に生きる者達の弱さを、またその弱さゆえの呻きを受け止められることを、この物語は伝えている。主イエスが訪れられるところ、あらゆる嘆きは、あらゆる呻きは、主イエスが共におられることによって、主イエスが引き取ってくださるのである。 主イエスはこの後、まさに,全ての人のうめきを身に受けるために、十字架への道を歩まれる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出された。 マルコ福音書において主イエスがガリラヤでの宣教の始まりにあたって、最初に語られたのは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。主イエスの訪れられるところ、そこは新しい命が始まる、あの神の国が訪れるところなのである。そして、その訪れに触れる時、わたしたちは、本当の意味での悔い改めへと導かれる。「悔い改め」はギリシア語では「方向を変える」という意味の言葉が用いられている。私たちが、この世の諸力、暴力や権力、あるいは自分の能力や名声、そうしたものを信頼し、自らを守ろうとするとき、そこではたださらなる争い、さらなる不信、さらなる対立が生まれるだけであることを、私たちは歴史から、あるいは自分自身の人生の歩みから知っている。それゆえに、そうでは無く、ただ私たちは自らの弱さを知り、そうであるからこそ、私たちとともにおられる主イエスを信頼するしかないことを知る。そしてそれこそが、まさに真の悔い改めなのである。私たちにとっての希望、私たちにとっての慰め、それはただ、あらゆるところで、キリストは共にいてくださる、ということに他ならない。

[説教要旨]2015/08/30「人の心から出るものは」マルコ7:1−8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日 初めの日課 申命記 4:1-2,6-9 第二の日課 ヤコブの手紙 1:17-27 福音の日課 マルコによる福音書 7:1-8,14-15,21-23 悪はどこから来るのか。それは、神学的には長い議論がある。しかしいずれにしても、私たちの命は、大小を問わず悪に翻弄されていることを実感する。ところが悪の恐ろしさとは、単に私たちが外側から悪の力の被害者として痛みと苦しみを与えられるだけでなく、私たち自身の誰もが悪をなすものとなり、痛みと苦しみを誰かに与えうる。それが悪の最も恐ろしい力である。悪の力にさらされているのは、私たちの外面だけではなく、内なる私たちもまた悪の力にさらされている。この悪に対抗する力を私たちはどこから得ることが出来るのか。 本日の福音書マルコ7章の冒頭では、ガリラヤ湖畔で活動する主イエスを、エルサレムから来た者たちが、正しく清い生活を守るための形式について問い詰める。その形式としてここでは「手を洗う」ということが問題となっている。食事の前に手を洗うことは衛生的理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清め、悪が自らの内に入り込むことを防ぐ意味がそこには込められていた。しかし、それに対して、主イエスは、どれだけ表面的には、素直にそして清さを保っていたとしても、その内面から奥底からの悔い改めがなければ意味が無いのだ、と根本的な反論をする。自らの外なる悪を恐れるだけでなく、内なる悪について主イエスは問題とする。 神が望まれることは、心からの悔い改めであって、表面上の形式ではない。神は形式的なものを要求していない。主イエスの問いかけは現代を生きる私たち一人一人の魂に突き刺さる。手を洗わないことが汚れているのでは無い。そうではなく、他者を傷つけ、奪い、そしてそのことを無かったかのように振る舞い、自分を正当化する。そのようなことこそが、まさに悪の力によって蝕まれた姿であることを、聖書を通して主イエスは私たちに問いかける。 5世紀の神学者アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであって、「悪そのもの」が存在しているのではない。悪とは、善が欠如している状態である、語った。これをさらに言い換えるならば、善とは、この世界に命をあたえられた神の愛の働きであると言える。つまり、悪とは神の愛が届いていないということだと、受け取ることもできるだろう。そう受け取るならば、神の愛なしに、私たちは、外からもまた内からも、悪に翻弄されるしかないと言える。私たちに神の愛が与えられることなしには、私たち人間の心から出るものは、ただ他者を傷つけ奪いながら、それを忘れ、自らの正しさを誇り、他者の痛みと傷をさらに深くすることしかできない。ならば、神の愛は、私たちにどのように届くのだろうか。 その私たち一人一人の心と魂に、神の愛を届けるために、主イエスが与えられたことを聖書は告げる。主イエスの言葉と十字架の出来事は、私たちに神の愛を届けるためのものに他ならない。私たちは、ただ主イエスの言葉に聞き、そして主イエスの十字架の出来事をこの自分自身の身に引き受けるとき、悪に対抗し、自らの過ちを振り返り、その過ちによって生み出された痛みと悲しみを悔い、そして,新しい命へと向かう未来へと共に向かうことが出来るのである。主イエスがその教えと業、そしてなによりもその十字架によって示されたもの、それこそが私たちに与えられる神の愛、悪に対抗する力なのである。

[説教要旨]2015/08/16「世を生かすための命」ヨハネ6:51−58

聖霊降臨後第12主日 初めの日課 箴言 9:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 5:15-20 福音の日課 ヨハネによる福音書 6:51-58 去る8/15には、多くの犠牲者を生み出した悲惨な戦争に日本が敗北してから70年目という節目の時を迎えた。その前日8/14には、この70年目にあたっての首相談話が発表された。全体に反省と謝罪を想起させるキーワードがちりばめられたこの談話は、現在の日本国内では、概ね妥当なものと見なされているようである。しかし海外メディアからの評価は、過去への反省は過去の引用だけに留まり、首相自身は謝罪の言葉を述べなかった、という評価の方が目についた。私自身はこの談話に、家庭内暴力の加害者が、暴力にもそれなりの理由や原因があると言って過去の自らを正当化しようとする者の姿が重なった。多くの家庭内暴力の加害者は、自分が一方的に悪くて暴力を振るっているのではない、という言い訳をするという。家庭内暴力の加害者は、自分と相手との間にお互いに尊敬し合い、いたわり合う対等な関係をつくることがイメージしにくいという特徴がある。自分こそが正しいと思い込み、相手の正当な主張に対して、自分の権威に対して挑戦されているのだと考え、あまつさえ復讐心さえ抱き、さらに相手を圧倒しようと考える。そしてそのためには自分は何をしても許されると思い込み、暴力がさらに激しくなることになってゆく。私には、今日本社会がおかれている状況が、まさにこの暴力の加害者のあり方に刻一刻と近づいているように思えて、薄ら寒くなってくる。このような暗澹たる現実、この悪く愚かな時を乗り越える力を私たちはどこに求めて行けばよいのだろうか。 本日の旧約の箴言、そして使徒書であるエフェソ書では、分別をもって悪い愚かな時を見分けること、そして真の喜びの宴席を見出すべきであることを語られている。一時の陶酔への誘惑から離れることをすすめるこの言葉はまさに、暴力への誘惑に晒されている現代の私たちへの警句とすら言えるであろう。そして福音書においては、真の喜びである主イエスの食卓への招きが語られている。 主イエスは「わたしが命のパン」であり、そしてさらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得」ると語られる。それは、一人の人としてこの地上に生きた主イエスを受け入れるということであった。主イエスを受け入れるということは、自分達の期待する強さと正しさを兼ね備えた理想的存在ではなく、この地上を生きた主イエスに結びつくことが問題となる。この後、物語が進む中で、福音書は弱さと苦しみの全てをさらけ出す方こそが、世に命を与えるパンであることを明らかにする。弱さと苦難の中を生きた主イエス・キリストの命が、その十字架によって私たちに分かち合われたからこそ、私たちは、憎悪と暴力の連鎖から解放され、苦しみと弱さの渦巻くこの世にあってなお歩むことができるのである。 私たちはそれは、嘲り、苦痛、人の弱さをことごとく担われたキリストの命を受けて、今この世を生きることが出来る。だからこそ、私たちは、人間としての弱さが受け止められる世界、喜びも悲しみも分かち合われる世界。一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界。そのような世界を目指すことが出来るのである。命のパンである主イエスは、私たちの世界に、新たな命を与えられた。その命は私たちを、真の平和へと導くのである。

[説教要旨]2015/08/09「キリストの愛にとどまって」ヨハネ15:9-12 エフェソ2:13-18

平和を求める礼拝 初めの日課 ミカ書 4:1-5 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12  本日は先週に引き続き、私たちは平和に思いを寄せ、平和を求める主日として礼拝に集っている。8/15には敗戦から70年目を迎える。悲惨なあのすさまじい暴力の嵐をもう二度と繰り返したくないという強い思いが、この70年を支えて来た。しかし今日、その思いはむしろ逆風の中にあるように見える。その背後にあるのは、失うことを恐れ、敵意と憎悪を剥き出しにして、祝福の全てを奪い取り独占するための力を持たなければ安心出来ないという、現代の日本社会が抱えている深い闇であると言える。私たちはこの闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。  本日の第2の日課であるエフェソ書では「(14)実にキリストは私たちの平和であります」と語られている。この「平和」という言葉は、ここでは特に2つの意味をもって私たちに語りかけている。第一に、それはキリストによってもたらされた人間と神との間の平和・和解である。それは私たちが、神の祝福をそれそのものとして受け止めることができるようになる、言い換えるならば、私たちが神の祝福を受けるにふさわしいものへと変えられる、ということであった。第二に、その神の祝福は私たちを、私たちの間の分断を超えて結びつける。エフェソ書では、ユダヤ人と異邦人という2つのグループが挙げられている。これらのグループは文化的なプライドや宗教的な習慣等によって、互いに排除しあうものであったが、今や「キリストという平和」によって、一つに結びつけられているのだと聖書は語る。おそらく、2つのグループは「キリストの平和」など望んではいなかったのではないだろうか。むしろ、自らが積み上げてきた文化的な伝統や理念が崩されることがないように、神の守りと祝福を願い、自分たちのポリシーを貫こうと、互いに強硬な姿勢を取ったのではないだろうか。しかし、そこに与えられた真の神の祝福は思いもかけないようなものであった。その祝福は、今あるものには向かわなかった。むしろ今ある彼らが積み上げたものを「隔ての壁」として取り壊し、その彼方に目に見えない希望を約束するものであった。  対立と不安の渦巻くこの現代の状況の中で平和を私たちが本当に求めるならば、私たち自身の中にある隔ての壁が取り壊されなければならない。見えるものは私たちを引き裂き争わせるが、見えないものは私たちに祝福と平和をもたらす。けれどもその壁を壊すことができるのは、私たちを祝福を受けるにふさわしいものへと変えられるのは、主イエスご自身に他ならない。主イエスはその十字架によって私たちの中の隔ての壁を取り壊し、私たちのただ中に永遠の祝福と平和をもたらされたのだった。  本日の福音書の日課では、主イエスの愛のうちに生きる私たちのあり方の問題について、私たちの歩み方の問題について語る。私たち自身の中から出て来る愛といえば、それはいわば独占する欲望であり、暴力を求め憎しみをもたらすものでしかない。それに対して主イエスの語られる愛とは「与える愛」であった。主イエスは、そのような愛によって私たちを満たし、憎悪と暴力から私たちを解放される。主イエスの愛の戒めは、私たちが、愛と和解への道、対話への道を歩むための力の源に他ならない。  このキリストの愛の中に生きる私たちは、今や新しい人として造り替えられている。たとえ私たちの力が小さく弱いものであり、私たちの前にある闇がどれほど深いものであるとしても、私たちの希望の光は消えることはない。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の絶望の死を超えて輝くからである。主イエスの愛、神の祝福こそが、私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。

[説教要旨]2015/07/19「村でも町でも里でも」マルコ6:30-34,53-36

聖霊降臨後第8主日 初めの日課 エレミヤ書 23:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:11-22 福音の日課 マルコによる福音書 6:30-34、53-56 私たちを分断し、対立させ、そして憎しみ合わせようとする、様々な力が、私たちの生きる地上を引き裂いている。主イエス・キリストを救い主として信じる者達はそのような力にどのように立ち向かってゆけば良いのだろうか。 本日の福音書では、派遣から戻った弟子たちと共に主イエスは食事と休息をとろうとされるが、人々は先回りして彼らを待ち構える。人々は教えと癒しを求めないではいられない。主イエス達に休息を許さない群衆に、主イエスは怒りをぶつけることはなかった。主イエスはこの大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ」る。群衆は主イエスにとって、対決するべき存在では無かったのである。一行が再び湖を渡った後も、次から次へと繰り出される要求に、主イエスは応え続ける。主イエスが訪ねる所には常に、人々が押しかける。それは「村でも町でも里でも」そうであった、と福音書は語る。村とは人の住む集落、町とは都市を指している。里というのは、むしろ農地、畑、という意味の言葉が使われている。1世紀の後半のパレスチナでは、農地で働く者達は、厳しい税の取り立てにあえぎ、負債を抱え、土地を手放し、奴隷に身を落とすことが少なくなかった。その結果、多くの農地は、都市に住む不在地主によって独占管理されるようになっていった。そうした光景を、村に住む者達は、苦々しく思っていたようである。蓄積されたそうした思いは、やがてローマ帝国とユダヤとの戦争へと人々を駆り立ててゆくこととなった。村と町と農地、いうならばそれは互いに引き裂かれ、対立しあう関係のものであった。しかし福音書では、主イエスが共におられるところでは、村でも町でも農地でも、主イエスを求めるその思いにおいて一つであることが語られる。主イエスを求める全ての人は癒されたのだった。私たち人の目から見て分断された場所であったとしても、主イエスが訪れる所では、その隔ての壁を越えて、人々を一つに結びつけられる。主イエスがこの地上の世界でのべつたえられた、「神の国」は近づいたということは、まさにそのようなものであった。まさにその意味で、主イエスが訪れる所に、神の国は近づいてくる。そして主イエスは、無限の寛容さをもって、求めるもの、必要とするものを、それぞれに満たし、癒されるのである。 福音書の物語は、主イエスはご自身を求めていた群衆に裏切られ、十字架に付けられる。しかし、主イエスはその死に留まることはなかった。神は主イエスを甦らせ、憎悪と対立、なによりも不寛容さの支配するこの地上の世界の中で対立する私たちを、主イエスの命によって結びつけられた。それまさに、限りの無い神の国の恵みの義にほかならない。 互いに引き裂かれ、対立と憎悪が支配する時代を、私たちは今生きている。しかし、村でも町でも里でも、主イエスが私たちの元を訪れられる時、私たちは、嫉妬、憎悪、怒りを越えて、恵みを分かち合えることを聖書は私たちに語りかける。この地上で、主イエスは私たちと共におられ、飼い主のいない羊のような有様を見つめて、私たちを一つに結び合わせてくださることを憶えて、私たちの日々を歩みたい。

[説教要旨]2015/07/12「死から甦ったのは」マルコ6:14-29

聖霊降臨後第7主日 初めの日課 アモス書 7:7-15 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 1:3-14 福音の日課 マルコによる福音書 6:14-29 7月に入り、1年の半分が過ぎた。教会の暦では6/24は「洗礼者ヨハネの日」となっている。ヨハネ3:30で洗礼者ヨハネは主イエスについて、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と語る。この言葉は、この地上の命が短くはかないものであることを私たちに思い出させる。しかしこの言葉は、衰え失われてゆく自ら命だけを見つめて語られたのではなく、むしろ洗礼者ヨハネの目は主イエス・キリストに向けられていることに私たちは気付かなければならない。洗礼者ヨハネは、自らが向かうその深い闇の支配の先に、命の勝利の光が輝いていることを告げている。その意味では、この言葉はむしろ、衰え失われる命への嘆きではなく、むしろ、絶望の中に希望を見出した者の言葉として私たちのもとに響いている。 本日の福音書では洗礼者ヨハネの最期の様子が描き出される。そこでは、人間の権力欲、ねたみ、怒り、憎しみが渦巻く様子が描かれる。それはまさに洗礼者ヨハネが向かった、この地上の闇の深さを物語っている。主イエスの先駆者である、洗礼者ヨハネの最期についての報告は、ヘロデ大王の息子の一人であったヘロデ・アンティパスが、主イエスについて聞き及び、洗礼者ヨハネを思い起こした、という文脈で語られている。それはまさに、洗礼者ヨハネの辿った道が、主イエスの道の先触れであることを、今聖書を読む私たちに思い起こさせる。洗礼者ヨハネが、この世の闇のただ中に踏み込み、その中で命を落としたように、主イエスもまた、闇の中に切り込んでゆくその道を歩んでいかれることを、福音書の物語は示唆している。しかし福音書は非常に巧みに、さらに別の事柄に注意を向けるようにしむけている。主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語り、そしてその評判を聞いたヘロデ・アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語る。しかしながら、人々が語るそのいずれもが、主イエスとは何者かという問いに対する答えとはならなかった。その答えは物語がさらに十字架の出来事まで進むことを待たなければならなかった。 しかし、その十字架の死から、主イエスは甦られた。この十字架の出来事によって、闇がより深く濃くなってゆく道を歩みながらも、その闇から抜け出る道、命と救いの道を主イエスは私たちに開かれたことを、聖書は語る。この世の不安と恐れの闇のただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのだった。そうであるからこそ、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」というヘロデの叫びに対して、今や私たちは「いや、そうではない、それは、死から蘇られた方、命への道を開かれた方、私たちの救い主キリストなのだ」と答えることが出来るのである。 現代の私たちはまさに恐れと不安の闇にまた包まれようとしている、と言える。しかし、主イエスはその闇の中へと歩み入り、その闇の向こうへと続く、命への道を私たちに開かれた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっていることを憶えて、日々を歩んでゆきたい。

2015年10月1日木曜日

[説教要旨]2015/07/5「この人はどこから」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日 初めの日課 エゼキエル書 2:1-5 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 12:2-10 福音の日課 マルコによる福音書 6:1-13 本日の福音書では、主イエスは故郷であるナザレへ弟子たちと共にと向かう。ガリラヤの各地で神の国の到来を宣べ伝え、力ある業をなしてきた主イエスは、故郷の地では理解されなかった。故郷の人々が主イエスを理解出来なかった、受け入れることが出来なかったのは、主イエスが教えられた神の国、そして力ある業は、彼らが直接的に知っている、イエスという人物の個人史と結びつかなかったのでした。彼らはあくまでも自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとしていた。しかし、神の国の福音を告げる主イエスは、故郷に留まる人々が知る、彼らが留まるに心地良い世界には留まってはおられなかったのでした。そうであるならば、主イエスはどこにおられたのであろうか。どこから、主イエスはこられ、どこへと向かおうとされているのだろうか。 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちを派遣されことが報告されている。彼らに、主イエスに並ぶ働きを任命する。その際に彼らに命じることは何も持たない放浪の生活であった。弟子達が良く見知った快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。しかし弟子達が、主イエスに派遣され、放浪を続ける時、彼らは主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病の人を癒すことを実現するのであった。 主イエスは、全てが整えられ、全てが準備された、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかった。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされる。それこそがまさに神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。なによりも主イエスこそが、この地上に現れた神の国そのものに他ならなかった。すなわち、主イエスこそが、人々が帰るべき新しい故郷であった。 故郷の人々は、そのような主イエスの姿を理解することが出来なかった。主イエスの示された、神の国、新しい永遠の命は、故郷の人々が望むような、自分の日常が整えられ、満たされ、全てが自分のコントロールの元にあることの延長線上にはなかった。 先週私たちは、ルター小教理問答を通して「十戒」について学んだ。信仰の基としての十戒は、イスラエルの民が、帰る場所を失った荒れ野の中において与えられたのだった。帰る場所はない。けれども、進むべき道はある。神への信仰は、新しい道を民へと示すこととなった。 そして主イエスは、聖書を通して私たちをもまた新しい道へと呼び掛けられる。それはご自身がその十字架によって開かれた、新しい命への道に他ならない。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれた。十字架の死、それは人の目には悲嘆と挫折の行き詰まりの道である。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスはこの地上における悲嘆と挫折の中にある私たちを訪ね、慰め、癒される。そのことを知る時、私たちもまた、帰る場所を失い悲嘆の中にある人々と共に、新しい場所を造りあげてゆくことができるのである。それこそが、新しい故郷、キリストの教会に他ならない。この世の嘆きと挫折の中で私たちと共にいて下さる、私たちの新しい故郷、主イエスを憶えて日々を歩みたい。