2009年12月25日金曜日

[説教要旨]2009/12/20「幸いなるかな」

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 ミカ 5:1-4a 【旧約・1454頁】
第二の日課 ヘブライ 10:5-10 【新約・412頁】
福音の日課 ルカ 1:39-45 【新約・100頁】

 本日の箇所の冒頭でマリアが「そのころ」「急いで」出かけたと書かれているということは、マリアとエリザベトの出会いが決して十分に計画されたものではないことを物語っている。むろん、そもそもマリアが主イエスを身ごもるということ自体が、彼女の計画の中にはありえない事柄であった。
 一方のエリザベトは、突然訪れたマリアとの出会いにあたって、驚かないわけはなかったであろう。エリザベトとマリアは親類であると書かれているが、それぞれが住んでいる町も離れていたので、さほど親しい関係であったとは考えられない。ましてや、年齢的にもおそらくかなりの差があったと思われる。エリザベトは既に年をとっていたとあり、一方のマリアは、まだ未婚であった。ひょっとすると30才以上の差があったのではないだろうか。その若いマリアが突然に年上のエリザベトのもとにおしかけるのであるから、憮然とされてもおかしくはない状況である。しかし、マリアはエリザベトに、臆面もなく挨拶の言葉を述べる。おもしろいことに、このルカ福音書1章には「挨拶」の場面が度々登場します。それは神の使い、神の力が人に働きかける時、人と人とが結びあわされることを物語っていると言うこともできる。現に、突然に訪れたマリアの挨拶を受けて、エリザベトはマリアを非難し拒絶するのではなく、「聖霊に満たされて」祝福の言葉を語る。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(45節)
  「なんと幸いでしょう」。この祝福の言葉は、福音書の中には度々登場するが、最も有名なものは、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」で始まる、主イエスの祝福の言葉であろう。これら祝福の多くは、およそ人間の目には、幸いであるとは思えないような、絶望的な状況の中に、いわば約束の言葉として与えられるのです。そして、未来への約束は、現在のという時の中で、私たちが現に直面する様々な不安と困難の中に、突然に与えられる祝福でもある。私たちが、自分の考える正しさを貫く時、そこに生まれるものは、得てして、より大きな争いと憎しみでしかありません。しかし、一見すると、思いもよらない出来事に翻弄されているだけのようにすら見える時、そこに見えない神の力が働き、祝福は与えられる。今、幸いならざる中を生きざるを得ない、そのような私たちに、神の約束の言葉は与えられる。そして、人の計画を超えた出会いに、私たちが向き合わされていく時、絶望的な中に、希望は必ず与えられるのである。


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