2009年11月24日火曜日

[説教要旨]2009/11/15「だれよりもたくさん」

聖霊降臨後第二十四主日

マルコ 12:41-44

 マルコ福音書では11章からこの12章の終りにいたるまでの間、主イエスは神殿の境内でその教えを語られる。それは、神殿に集まっている、自らの豊富な知識や正しい生き方を誇る者たちとの対決の時でもあった。そのような中で、主イエスは一人の貧しい女性に出会う。群衆たちと共に、金持ちたちがたくさんの捧げものをしている中、この女性はレプトン銅貨2枚を捧げていた。レプトン銅貨とは、ギリシア世界における最少通貨であり、1デナリオンの128分の1の価値しかなかった。1デナリオンは1日の日当に相当したことを考えると、この女性の捧げものが、ごくごくわずかなものであったことがわかる。しかし、それを見た主イエスは弟子たち集めて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と語られる。「はっきり言っておく」という言葉は、もともとは「アーメン、あなた方に言う」と書かれている個所である。現代の私たちも使っている、この「アーメン」という言葉は、ヘブライ語で「まことに、真実に」という意味であり、それは特に「然り、そのとおりです」という意味で教会の中で用いられた。すなわち、主イエスは、神殿で多くの金持ちがたくさんの捧げものをしている時ではなく、貧しい女性がわずかなものしか捧げることが出来なかった時に、「アーメン、然り、そのとおりである」と語られたのであった。
 私たちはしばしば、自分自身の持てるもの、あるいは持てる力の小ささを悲しみ、そのようなごくわずかなものや力では、何事もなしえない、そのようなものなど何の意味もないと嘆いてしまう。あるいは、誰かが成す働きに対して、そのような小さくわずかなものは全く不十分である、正しくないものであるといって否定する。しかし、主イエスが「アーメン」と語られたものとは、偉大な事柄あるいは正しい事柄を成し得たものではなく、僅かなものであったとしても、それが自分自身の全てであるとして捧げる姿に他ならなかった。
 この一人の貧しい女性の姿に心を動かされ、「アーメン」と語られた主イエスは、本日の福音書の箇所に続いて、主イエスは十字架への最後の道のりを歩まれる。主イエスの十字架への道を備えたものは、金持ちの豊かな捧げものではなく、一人の女性の、僅かな、しかしその人にとっての全てを捧げる姿であった。十字架における救いの実現とは、まさに小さく僅かなものと力しか持ちえない存在なしにはありえないのである。

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