2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/06/08「神の息吹を受けて」使徒2:1-21

聖霊降臨日

初めの日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 12:3b-13 【新約・315頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 20:19-23 【新約・ 210頁】

本日は聖霊降臨日である。新約聖書では、聖霊降臨の出来事から、教会という交わりがこの地上に生まれた時として描かれている。使徒言行録では、それは、過ぎ越しの祭りと時を同じくして起こった、イースターの出来事、主イエスの死と復活の事件からの50日目の出来事として語られる。
礼拝での聖書朗読の順序とは逆と成るが、本日の福音書で語られる出来事が、まさにイースターの日の夕方のことであった。その日、弟子達は恐れの中で戸に鍵をかけ、部屋に閉じこもっていた。しかし、その鍵のかかった部屋のただ中に、復活の主イエスが現れ、弟子達に「平和があるように」と声をかけられ、そして息を吹きかけられるのだった。息を吹きかけるという行為は、創世記で、人を土から作りだした神が、命を吹き込んだ出来事を思い起こさせる。それは、主イエスが弟子達に使命を託した出来事でもあった。その使命とは、まさに弟子達が体験したように、怖れに満たされた、「平和」無きところに主イエスの命を伝え、平和を創り出す使命であったと言えるだろう。そしてまた、それは「赦し」を伝える働きであることを主イエスは語る。主イエスの新しい命が与えられる時、私たちは恐れを手放し、解放と赦しへと導かれる。そして赦しと解放がもたらされる時、そこには平和が創り出される。そのような解放と平和を伝え創り出す働きを為す使命に、弟子達は押し出されてゆくこととなったのだった。
そして、その50日後、本日の聖書では始めの日課として選ばれている、使徒言行録の出来事を弟子達は体験する。それは、かつては怖れて部屋に閉じこもっていたはずの弟子達に、語るべき福音の言葉が与えられた出来事であった。聖霊が降ったとき、弟子達は「一つになって集まっていると」と書かれている。しかし、聖霊降臨の出来事を読み進めてゆくならば、ここでいう「一つ」というのは、一つのあり方、一つの生活様式、一つの言葉を一斉に語る、ということではなくなってしまうことに気付かされる。というのは、弟子達は聖霊が与えられることによって、それぞれが異なる様々な言語で語り始めるからである。しかし、そのことによって、弟子達が語っている言葉を聞いた者達はみな「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚くこととなる。すなわち、それは特定の文化や生活様式からだけではなく、それぞれが皆「自分たちの言葉」として福音のメッセージを受け取ることが出来たということなのである。
聖霊降臨の出来事において、弟子たちが多様性を持ちながら、一つになるということ、それは復活の日の夕方に赦しと平和をもたらす働きへと押し出された弟子達が、キリストのからだである教会として動き始めたということでもあった。弟子たちが突然、様々な言葉で福音を語り始めた時、弟子たちを捕らえたその力は、復活の主が与えた新しい命の力は、遙か昔の弟子たちだけに留まってはいない。それはやがて教会の使命として伝えられ、さらにわたしたち一人一人へと続いているのである。まさにそのことを通して、人間が生きている世界のあらゆる場所に、主イエスの命、そして平和と赦しとがもたらされるのである。わたしたちもまた、神の息吹を受けて、この世界に平和と赦しを伝える力に満たされてゆくことを祈り求めてゆきたい。

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