2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/09/07「キリストと共にある群れ」マタイ18:15−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課    エゼキエル書 33:7-11    【旧約・ 1350頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 13:8-14    【新約・293頁】
福音の日課    マタイによる福音書 18:15-20    【新約・ 35頁】

マタイ福音書は二度目と三度目の受難予告とに挟まれた部分で教会の在り方について触れることで、教会の本質を十字架へと向かう道にある主イエスと結びつけて理解しようとしている。現在の教会は確かにこの地上にある人間の集まりに過ぎない。しかし同時に、来たるべき天の国の先触れでもあり、そのようなものとしての教会はこの地上のさまざまな制約と抑圧の力をはねのけ、そこに集う私たちを新しい永遠の命が約束された天の国へと結びつける場である。その事を伝えるためにマタイ福音書は、私たちの生きるこの地上と天の国とを結びつける道筋と、主イエスが十字架と復活へと歩む道を重ね合わせて物語る。地上の集団としての教会は確かに様々な制約、限界があり、またこの世の抑圧や憎悪から決して完全に解放されているわけではない。しかし十字架へ歩む主イエスの後に従う弟子の集団である時、教会は天の国の先触れとなることをマタイ福音書は伝えようとしている。
そこでは様々な課題も描かれる。18:1では弟子達が主イエスに天の国で一番偉いのは誰かと問う。それは天の国の先触れとしての教会の中での権威がどここにあるかを問うことでもある。しかし、主イエスはその問いに対して、子どもという、権威とは無縁の小さく弱い存在を示す。それは、教会という場において小さく弱いことは決して誤りではなく、むしろそれを尊ぶことこそが、天の国の先触れである教会の本質であることを示すものであった。続いて、これらの小さな者の一人をつまずかせる者についての警告、そしてこれらの小さな者を一人でも軽んじないようにという戒めが語られる。それらは、強さと正しさをこそ求めるこの地上にあって、弱さを自らの内に包摂し続けることの中に信仰の共同体としての教会の本質があることを伝えている。
そうした、弱さを包摂する共同体の在り方を語る中で、本日の日課が語られる。前半の15-17節は、宗教団体にはよくある、意見の異なるものを処分するために作られた掟とも言える。しかし、ここではそれだけでは終わらずに18節以下が続いていることにむしろ注目しなければならない。紀元2世紀ごろにまとめられた、ミシュナーと呼ばれるユダヤの教師達の教え集には、この18節以下とよく似た文言が納められている。「ふたりの者が同席し、両者の間に律法の言葉が話題になるときには、両者の間には偏在者(神の臨在)がある」というものである。これらはたしかに非常によく似ているが、一点、決定的に異なる部分がある。それは、律法ではなく、「わたし」すなわち「主イエス」が間におられるということである。この地上にある限界にもかかわらず祈りが合わせられる教会の場には、様々な弱さと限界を抱えた私たち人間を結び合わせられる主イエスが共におられることを福音書は語る。
傷つけ憎み合わずにはいられない私たちを結び合わせるために、主イエスは世に与えられた。そしてその主イエスは、私たちを結び合わせるために、その弱さと絶望の極みである十字架へと進み、そして、そこから新しい永遠の命への道を開かれた。教会もまた人間の集団である以上、そこには不信、裏切り、過ちがある。しかしたとえそうであったとしても、その弱い人間の集まりに過ぎない私たちの群れのただ中に、絶望と不信の中から甦られた主は共におられ、私たちを結び併せてくださるのである。

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