2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/08/31「イエスの後に従って」マタイ16:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21 【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 12:9-21 【新約・ 292頁】
福音の日課 マタイによる福音書 16:21-28 【新約・ 32頁】

4:17-16:20では主イエスがメシアとして広く群衆に対して教えと活動を展開する様子が描かれてきた。その教えと業が人々の間で様々な思いを引き起こす中、主イエスは弟子達にご自身について問いかけ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるペトロはに対し、祝福と共に教会の権威を託す。しかし、その直後である本日の箇所では、そのペトロに対して厳しい叱責を加えている。この落差の原因はいったいどこにあるのかだろうか。その原因は、21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」ことにあると言える。マタイ福音書では、この箇所から20章でエルサレムへと入られるまでの部分で、主イエスが十字架において苦難を受けられる存在であることを語られ始められること、主イエスの歩みが次の段階へと展開していることをを強調している。
マルコ福音書に準じてマタイ福音書も、3度に渡ってご自身の受難と復活について弟子達に語られているが、興味深いことに、2回目と3回目の受難と復活の予告の間では、マルコ福音書には無い「教会」の在り方についての教えが語られている。福音書の中で「教会」という言葉は、マタイ福音書においてしか使われていない。マタイ福音書は、教会の在り方について、敢えて、十字架において苦難を受けられるキリストに結びつけてその物語を編纂したと言える。それは、この福音書の著者が、十字架へと向かわれた主イエスにこそ教会の本質を見出していたからに他ならない。
おそらくペトロにとって、主イエスがメシアすなわち世の救い主であるということは、主イエスが語るような、世の権威を持った者達から否定され、その計画が全て挫折し、悲惨な運命を辿ることであってはならなかった。だからこそ、主イエスが、ご自身の挫折と死の運命について語られ始められた時、主イエスを連れ出して諫めずにはいられなかったのであろう。しかし、そのようなペトロに対して主イエスは厳しく叱責する。この叱責は直訳するならば、「私の後へと退け、サタン」というものである。主イエスが諫めたのは、人の思いを十字架に向かう主イエス後へと退けられるためであった。その意味で、十字架について語り始められた主イエスは、ペトロの信仰告白を取り消そうとしているのではなく、むしろその信仰告白を受けたからこそ、ペトロに対して「後に退け」という言葉を与えられることで、ペトロに託した教会に対して、その本質を示したと言うことが出来る。ペトロへの叱責を通して示される教会の本質とは、人が自らの思いと正しさを最優先するような在り方ではない。むしろそれは、自分の十字架を背負って「主イエスの後に従う」ことなのである。自分の十字架を担うということ。それは、自分が中心の心地よい場所ではなく、むしろ不快であり、避けたいもの、自らの挫折と失望の中を歩むことに他ならない。しかし、主イエスは、その十字架を通して、新しい永遠の命への道を私たちに開かれたのである。私たちが、自らの十字架を背負って、失望と悲嘆の道を歩む時、その道は主イエスが先立ち、私たちと共に歩まれる道なのである。

0 件のコメント: