2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/06/29「イエスに従う人は」マタイ10:40−42

聖霊降臨後第3主日

初めの日課    エレミヤ書 28:5-9    【旧約・1229頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 6:12-23    【新約・ 281頁】
福音の日課    マタイによる福音書 10:40-42    【新約・ 19頁】

ナチス台頭下のドイツで、自分たちを救うのは偏狭な自民族中心主義や愛国心ではなく、ただイエス・キリストへの信仰のみであることを告白し抵抗した「告白教会」と呼ばれるキリスト者達がいた。しかし開始から3年後、弾圧によって活動は分裂・停滞、重要な指導者であったM.ニーメラーが1937年7月1日に逮捕されたことで、告白教会は事実上崩壊したと、人々の目に映ることとなった。しかしその年の11月、同じく指導者の1人であったD.ボンヘッファーは「キリストに従う」と題した本を著す。この本で彼は、今の世の人々が求める「安価な恵み」を批判し、ただイエス・キリストにおいて啓示される神の「高価な恵み」に応えることを訴えることとなる。その中でボンヘッファーは、本日の福音書を含むマタイ福音書10章についての黙想を著している。本日の日課にあたる箇所でボンヘッファーはこう語る。「彼らと共にイエス・キリストご自身が、彼らを受け入れる家に入って行かれる。彼らはイエスの現臨の担い手である。彼らは、イエス・キリストという値の高い贈り物を、またキリストと共に父なる神を人間にもたらす。そしてそれは、赦しと救いと命と幸福が与えられることを意味するのである。(中略)弟子たちは、自分たちが家にはいって行くことは無益かつ空虚に終わることがないということ、また、彼らが例えようもない賜物をもたらすということを知ることを許される。(中略)何の敬称も似つかわしくないようなこのいと小さい者、この極めて貧しい者のひとり、このイエス・キリストの使者に、たった一杯の水を与える者は、イエス・キリストご自身に奉仕したのであって、イエス・キリストの報いはその人に与えられるであろう。」ナチスの支配が決定的となっていく中で、ボンヘッファーはイエス・キリストの福音を伝えることの喜びと励ましを若い牧師たちに託す。しかしそれは何よりも、先の見えない戦いを続けるボンヘッファー自身が、この聖書の言葉から受け取った励ましと慰めであったのだろう。
主イエスの「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちにもまた、大いなる慰めと希望を与える。資質も功績も「無意味」としか見なされない者を受け入れ、しかもたった一杯の水を与えるというごく僅かな営みしか為すことができなくとも、神はそれを見過ごされることはないと、主イエスは語られるからである。主イエスは、この地上において無価値とされ十字架の死に至ったにもかかわらず、そしてその死から甦られ、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この主イエスに従うということは、この地上における一時的な強さや栄光に従うこととは真っ向から相対するものであることを、聖書は語る。まさにその意味で、私たちが主イエスに従うということは、この地上においては「無意味」されること「無価値」とされるものへと自らを関わらせてゆくことに他ならないのである。
この現代社会の中で、弱く非力であるとされ、無価値なものとして排除される者と共に、主イエスは共におられるということ。そこに希望を見いだしていくことこそが、まさに主イエスに従う道なのである。

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