2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/10/12「全ての人への招き」マタイ22:1-14

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ書 25:1-9 【旧約・1097頁】
第二の日課 フィリピの信徒への手紙 4:1-9 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイによる福音書 22:1-14 【新約・ 42頁】

21:23以下で祭司長や長老達たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と、神殿の境内で人々を教える主イエスに問い糾したのに対して、主イエスは3つの「天の国についてのたとえ」によって応えられ、本日の日課はその3つめにあたっている。一つ目のたとえでは洗礼者ヨハネについて、二つ目では主イエスご自身の受難について触れられている。そして本日の日課である3つめでは、使徒達の働き、教会の在り方について触れられることとなる。
譬えではしばしば神は王の姿で物語られるが、ここでは王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。王は、王子の婚宴に招かれていた者たちに、使いのものを派遣して呼びに行かせるが、彼らは王の呼びかけに応えない。王の呼びかけを無視した後の行動としてここで語られているのは、彼らの日常生活であった。彼らにとって、王の呼びかけは自分達が既に手にしている財産を保持する以上には、重要性をを持ってはいなかった。彼らにとっては、自分自身の思い通りに計画が進むことの方が遙かに重要であった。しかし、自分の計画を変えることを拒み、呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなった。
一方で、宴席には予想外の者たち、すなわち「招かれなかった者たち」がやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、それはおよそ、雑多な、まとまりのない、集まりであった。しかし、その雑多な人々と共に祝宴は始まることとなる。このたとえが語る祝宴とは、主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それはまた天の国における祝宴の先触れとして、教会とはそのような場とであるはずということが、ここで問いかけられている。たしかに今、教会に集う私たちは、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないような、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力も無いものでしかない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。
たとえの終わりでは、礼服を着ていない者が宴の席から放り出される様子が描かれるが、通りを歩いていたところ呼び集められたのに、礼服を着ていないといって咎められるというのは、あまりにも理不尽で不可解な話である。しかし敢えてその意味を問うならば、神の宴に招かれた者、その先触れとしての教会に集う者は、そのその雑多でまとまりのない宴を、その全存在をもって喜び祝わなければならない、ということなのである。この雑多な集まりの中にこそ、天の祝宴の先触れがあることを、私たちは希望とし続けなければならないのである。パウロは語る。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:4?7)
私たちは今、世界のいたるところで、キリストのもとで教会に集まっている。この教会という雑多な祝宴を私たちが喜び祝うとき、神の平和は私たちに与えられるのである。

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