2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/06/15「世の終わりまで共に」マタイ28:16-20

三位一体主日

初めの日課 創世記 1:1-2:4a 【旧約・ 1頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙二 13:11-13 【新約・341頁】
福音の日課 マタイによる福音書 28:16-20 【新約・ 60頁】

本日、聖霊降臨祭・ペンテコステの後の最初の主日は教会の暦では「三位一体」の祝祭日となっている。キリスト教会が三位一体という神学的主題を通して確認してきたものは、自分は今、神の愛、キリストの救い、聖霊の慰めと励ましによって満たされているという、救いの喜びのリアリティであった。その意味で三位一体とは単なる理論ではなく、私たちが現に生きているこの地上での生活もまた神の救いがの歴史の一部であるということを示している。
主イエスの大宣教命令とも呼ばれている本日の福音書は、19節で「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあり、新約中で数少ない「父と子と聖霊」について言及された箇所である。それこではまた復活の主イエスがこの全世界の人々を弟子とするために、弟子たちを派遣されたことが記されている。その弟子達が、最初に主イエスの後に従った際には、自分達がいずれそのように未知の世界と人々のために派遣されることなど予想してはいなかっただろう。そこには様々な思いと考えがあったと思われる。そのある者はイエスの人格に触れて、あるいある者はイエスの力に憧れ、あるいはまた自分自身の将来の夢のために、イエスという人物と共に旅を続けたのであろう。おそらく彼らは、小さく弱い自分を何か大いなる者としたい願い、イエスの後に従ったのではないだろうか。しかし、主イエスの十字架によって、彼らの期待は全て潰えることとなる。いわば、主イエスの地上での歩みが終わると同時に、弟子たちが思い描いていたそれぞれの物語はそこで終わってしまうこととなった。しかし、福音書の物語はそこで留まることはなかった。主イエス復活の出来事を福音書が語ることで、弟子たちの物語には続きがあることが示される。復活の主イエスとの出会いを通して、主イエスの物語は弟子たちの物語となってゆくのである。復活の主イエスは語られる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」。私達が直面する喪失・断絶・困窮といった現実を凌駕するほどの権能をもって、主イエスは弟子たちを派遣する。自分の思いと計画のために生きてきた弟子たちは、復活の主によって、ここにはいない「誰か」のために押し出されてゆく。そしてその時には、弟子たちはもはや、自らの小ささに絶望することはない。なぜならば主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られるからである。
マタイ福音書では、主イエスの復活顕現と大宣教命令はガリラヤの地での出来事として語られる。ガリラヤは当時のユダヤ社会では周縁化され、蔑まれた地域であった。しかし社会の片隅へと追いやられたところからこそ福音は伝えられ始められる。たしかにそれはかつての弟子達には思いもよらないことであっただろう。けれどもそれこそが、主イエスの物語を引き継いでゆくことに他ならなかった。そしてそれは、決してかつて弟子達だけに託された使命ではない。それは救いの歴史の中で世界へと伝えられ、現代の私たちにまで続いている。私たちが、社会の周縁へと歩みだし、そこで福音を分かち合う時こそ、私たちが主イエスの物語を受け継ぐ時であり、主イエスが共におられるその時に他ならないのである。

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